水13――反応は十人十色
犯罪者になった気分だ。
手に包丁や拳銃を握ってなどいないのに、廊下を行き交う生徒は例外なく千早の右手を凝視し、顔全体に驚愕の色を塗りたくって道を譲っていく。
千早は思う。圭介と手を繋ぐのは下駄箱で止めるべきだったのかもしれない。
校門から昇降口までを歩く間に百人以上から眼差しを頂戴した。目撃者の数は交際の噂を流すのに充分と言えたが、不安な要素があったのだ。
美月のことだ。彼女の露骨な膨らみは無意味に男子の目を誘うし、同性愛者の噂を肯定するように千早の左腕を抱いていた。
注目を浴びたのは人気の油野圭介と手を繋いでいるからではなく、自分と美月の、若しくは三人の関係に疑問を抱いたからだ、とも解釈でき、なので千早は圭介との交際を上手く主張できたという確証を持てなかった。
男子の全員が美月の胸を観察していたとは思わないし、かといって同性愛者の噂を再確認されたと考えるのは頭が痛くなる。よって教室に着くまで現状を維持すると決めたのだった。
一年生の教室はすべて三階にある。美月が所属する八組は校舎の東側に位置し、圭介の一組と千早の三組は西側だ。美月とは中央の階段で別れることになる。
美月は眉をハの字にしながらも、千早が言い聞かせるまでもなく身体を離した。
手を振って美月を見送り、これからが本番だ、と千早は思ったのだが。
「見られすぎだよなぁ」
圭介は普段と変わらない声色で呟いた。裏腹に千早と握った手のひらは汗塗れだ。
千早も彼氏を笑えない。平静を装うのは得意だが、今回の難易度は断トツで過去最高と言える。
傍観者効果でも働いているのか、近寄って二人の関係を尋ねようとする生徒は一人もいない。千早が顔見知りとすれ違うたびに明るい挨拶や微笑みを配っても、受取手は棒読みの台詞を吐くのみだ。
今からでも圭介の手を放すべきかと千早は思い、ここまで来たら初志貫徹の方がいいと考え直す。どうせ三組の教室はすぐそこだ。30秒も経てば二人は足を止めることになる。
「また後でね」
千早は後方の出入口前で圭介の手に別れを告げた。
圭介が不愛想にも巾着袋を返すのみで背を向けたものの、緊張の末に裏声を出されても困る。これはこれで問題のない行動だ。
他の問題ならある。教室内が奇妙なほどに静かなのだ。眼前のドアは開いている。半数以上の級友が登校済みなのに、話し声などが全く聞こえてこない。
「おはよー」
予想以上の無反応。今の一部始終を見ていたのだろう。大多数が千早を凝視しながらも、挨拶を返したクラスメイトはごく少数。
気にしたら負けだ。千早は自然な歩調で自分の席を目指す。廊下側から三列目。後方からも三列目。無数の眼差しに揉まれながら教室の中央へと向かっていく。
机の横にリュックを掛け、さすがに三人分もあるせいか、弁当箱の詰まった巾着袋を机に入れるのは無理だ。後方のロッカーを利用し、自分の席に戻っても教室内の静けさは依然として残っている。
不気味だ。いつもの喧噪が懐かしいほどに静まり返っている。
千早の後に登校してくる生徒も似通った態度を取った。室内の異常に気付いてか、お調子者の男子でさえ口を真一文字に噤み、自分の席に移動していく。
居心地が悪い。揃いも揃って様子を窺うのは勘弁だ。別に千早は神様ではない。触れても祟らないし、この状況が一変するのなら祝福してあげようとすら思う。
困った。自ら交際の話を出すのは好ましくない。圭介に好意を持った女子がクラス内にいることを千早は知っている。その娘達は千早が自慢しているようにしか聞こえないだろう。
恋愛は早い者勝ちである。既に告白したにしても、いずれ告白する予定だったにしても、いち早く圭介を篭絡しなかった女子が悪い。
千早は負け犬の遠吠えのような愚痴を真正面から聞かされても笑顔で言い負かす自信があるが、なるべく無意味な諍いを起こしたくはない。
尤も。あの冷酒のような男子を沸かせられる女子がいるとは思えないが。
千早はリュックに手を伸ばす。今は読み掛けの小説に目を走らせるのが最善だ。
誰でも良いからクラスの代表者として尋ねてこい。千早は切実にそう願いながら文庫本を開いた。
「ちょっといい?」
良いに決まっている。千早は笑みを作って振り返った。指先で背中を突いたことに加え、人によってはイライラしかねないほどの萌え声が質問者の正体を語っている。
華凛は後方で二束に結った長めの黒髪を揺らしながら、
「油野くんと付き合ってるの?」
今の問いを合図に周囲の視線が心なしか重みを増した気がする。同時に千早は気付いた。朝のHRまで5分もないのに様子を窺う生徒が廊下に数多く存在する。
千早は至って冷静だ。待ちに待った質問に揚々と答える。
「うん、昨日からね」
空気が爆ぜたようだった。
「ねえねえ! どっちが告白したの?」
「水谷も結局はただの面食いだったってことかぁ?」
「てかあの百合百合しい行いはファッションだったのかよ!」
「慌てるなっ。我らが川辺ちゃんにはまだ可能性があるっ」
「じゃあ私が川辺さんの横をいただきますね」
「あーん。私も油野くんを狙ってたのにぃ……」
「俺、油野に抱かれるのが夢だったのにな……」
級友が口々に言いながら一斉に駆け寄ってくる。喧しい。お陰で華凛の次の言葉を聞き取れなかった。柔和な笑みを浮かべているのでおめでとうの類かもしれない。
兎にも角にも教室内は一転して隣のクラスから注意されかねないほどに騒々しくなった。
普段は大人しい生徒ですら千早に関心を向け、廊下に集まっていた生徒も一人残らず走り去っていく。この調子なら昼休みまでに噂が広まってもおかしくない。
二年や三年はともかくとして、低く見積もっても同学年の生徒で知らない者はいなくなりそうだ。かくして計画の第一段階は見事に成功した。
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