第二章

水11――川と油

「待たせたな」


 待っていない。千早は約束より10分も早く来た圭介に感心した。


 普段なら30分も後に出発するのである。


 今はだらしのない生徒なら布団の中にいてもおかしくない時間だ。目的を達成させるためとはいえ圭介の懸命さは評価できる。


「しっかし大丈夫かこれ」


 圭介は水谷家の庭に自転車を止めながら呟いた。しっかりと施錠して、


「通学路は閑散としてたぞ。もっと遅くした方がよくないか?」


 ごもっとも、と千早は圭介の口癖を真似してみる。とても嫌そうな顔をされた。


「目撃者が多いに越したことはないわ。でも事情が変わってね。昨日は美雪さんの登場で言いそびれたけれども、私はお隣さんの娘と一緒に登校することが多いのよ」


 圭介が納得したように肩を竦めた。昨晩の出来事を教えてあるからだ。美月の過去に関してはノータッチだが、毛嫌いされているとは理解させてある。


「まあ、お前と川辺の仲は知ってたしなぁ。嫉妬を買う程度のことは想定してた」


 圭介は川辺家に目を向けた。手前にある電信柱の上から雀の鳴き声が聞こえる。


「俺と登校することを言っとくべきじゃないか?」


「でもせっかく弱々しくなった火に油を注ぐのは気が引けるし」


「小さな煙草の火が大きな建物を燃やすこともあるだろ。俺は川辺をよく知らんから匙加減に自信を持てんけどな。黙って登校されるのは気分が悪いに違いないぞ」


 圭介の言い分は一理ある。マッチ一本火事の元だ。事前対策の重要性は分かる。


「私と美月もあんたと同じで部活に入ってないし、私が今日の日直じゃないのも知られてるわ。だから伝えるのなら早出の理由をでっち上げないといけないのよ」


「日直を代わって欲しいって頼まれたとかは?」


「調べればすぐ分かるような嘘はダメよ。余計に機嫌を損ねるだけだわ」


「ごもっと」


 不意に圭介の口が停止した。決して口癖を止めるためではない。


「おはよー」


 白いセーラー服を着た少女が隣家の玄関から出てきたからだ。


 千早へはいつものように輝かしいほどの笑顔を向け、しかし圭介へは見向きもしない。まるで眼中にないようだ。


 圭介が不躾な視線を投げてくる。話が違うと言いたいのだろう。だがそれは千早も言いたい台詞だ。寝坊助の美月がこうも早い時間に出てくるなど前代未聞。


「お、おはよーさん。俺は一組の――」


「ちーちゃん、今日は早いねー」


 さながら空気のよう。美月は圭介を軽やかにスルーして千早の元にやってくる。


「もう学校に行くの?」


 この状況で圭介に目配せするのは百害あって一利なしだ。千早は独断で返事する。


「まだよ」


 美月と遭遇したことで今から動くメリットを失った。どうせなら登校ラッシュの時間に出発した方がいい。


 圭介も異論を唱えない。無言で自分の自転車を見ている。美月がアイスピックのような鋭い視線で後輪を串刺しにしているせいだ。


 空気の抜けたタイヤでも想像したのか、ふと圭介が嘆息する。近く原因不明のパンクが起きる可能性を思えば憂いでも仕方ない。


「今日のお弁当が入ってるの?」


 美月の黒目は働き者だ。自転車の次に圭介を一瞥したかと思えば千早の手荷物に向く。


 高校の昼食は弁当が主流だ。月、水、金曜日は千早が二人分を作り、美月と一緒に食べることが多い。そして今日は金曜日だから千早の持った巾着袋はやや大きくなっていた。


 対策は万全だ。弁当は三人分を用意してある。恋人の手作り弁当で二人きりの昼食というのはカップルの常識で、美月が妨害工作を企てることも想定済みだった。


 特に美月の弁当には力を入れた。餌付けの成功を狙って好物を多めにしてある。


 後は昼休みまでに美月の友人を買収すればいい。いかに美月が千早を大事に思っていたとしても、親しくなりつつある相手に昼食を誘われたら無下に断ったりはしないはずだ。


「あなたはお昼どうするの?」


 出し抜けに美月が笑顔で言った。圭介をまっすぐ見つめて。


 圭介も弁当派だ。ただし本日に限っては千早の指示でリュックに食べ物を入れていない。


 だが言えるはずもないだろう。俺の昼飯はそこにある、とニュアンスのみですら伝えるべきではない。自転車を引き摺っての下校を強いられるフラグが高確率で立ってしまう。


「俺はコンビニでパンを買うつもりだ」


 圭介は千早の巾着袋を一瞬すら見ない。美月に視線を返しながら言った。


 悪くない演技力だ。評価に値する。しかし吐く嘘を間違えている。


「じゃあ今から買いにいこっか」


 美月は予想通りの台詞を吐いた。瞳に若干の敵意を宿しながら。


 買う、ではない。買った、と言うべきだった。とも千早は思わない。


 発言からも読み取れるように、前者だと圭介が昼食を購入する様子を美月はコンビニまで見に来るだろうし、後者だとこの場で証拠を確認するに決まっている。


 弁当は自宅に忘れた。学校に着いたら宿理から受け取る、と言えばよかったのだ。


 調べればすぐ分かるような嘘はダメだ。そう注意したばかりなのに。


 前途は多難のようだ。千早は彼氏の安易さに頭を抱えたくなる。


「そうだな。行くか」


 圭介も応じるほかない。これで彼氏の昼食はパンに決定してしまった。


「重くないか?」


 圭介が千早の巾着袋を奪った。右手で持ち、信じ難くも左手で千早の手を握る。余りにも大胆な振る舞いに美月は唖然としたようだ。


「川辺も一緒に来るよな?」


何たる挑発か。圭介は千早の細い指に平然と五指を絡ませていく。


「行くよ!」


 負けじと美月が千早の左腕にしがみついた。柳眉が見かねるほどに逆立っている。


 本当に前途多難だ。頭を抱えようにも千早の両手に自由はない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る