水9――美月城攻城戦
美月はノーマルだ。千早が圭介にそう説明したのは事実だからである。
千早は参考書を捲る際に美月の顔を盗み見た。浴室の時点で気付いていたが、美月は怒っていない。嫉妬とも違う感じがする。きっと焦っているのだ。
千早に自覚はある。紛れもなく、川辺美月は水谷千早に好意を寄せている、と。
ただしそこに愛情はない。友情の類だ。家族愛なら多少はあるかもしれない。
美月の好意は自室の内装にも表れ、どの方角を向いても必ず写真立てが目に入る。
ベッドや本棚やテレビ台の上。勉強机もそうだし、二人がノートを広げた背の低い木製テーブルにも載っている。9割方が中学時代の千早と美月のツーショットだ。
偏見の眼差しで見れば美月がストーカーのようだが、これはただ友達を大切に思っているに過ぎない。
そして。当時の美月は千早の他に友達と呼べる相手が一人もいなかった。
当時と言っては僅かに語弊がある。三年生からは他の友達もいた。
逆に言えば。それまで千早以外の生徒と談笑する機会がなかったことになる。
質の悪い噂のせいで、美月はクラスの大多数からイジメられていた。
傍観もイジメに該当するのなら、同学年で美月へのイジメに参加していないのは千早くらいだった。
学年ではなく校内と言った方が適切と思えるほどに美月は孤立していた。
問題は噂の半分が事実だったことだ。
証拠を備えた噂というのは本当に消えにくい。
それこそ圭介が言ったように。75日が過ぎても残り続ける。
美月にとって千早は唯一の味方だった。
自宅に戻れば家族がいるが、学校では担任の教師すら気を許せない。教室内での発言力を持ちながらもイジメを見て見ぬふりする連中など敵も同然だ。いや、教師の看過がイジメを助長させる点を鑑みれば敵をも勝る。
千早は溜息を我慢した。高校での美月は夕食の際に友達の話をするほどクラスに馴染めている。その事実は千早が自分を過小評価するのに充分すぎた。
――圭介と付き合うことになった。
そう言われた美月は千早を圭介に取られると思ったのだろう。
何せ友情よりも愛情を優先するタイプの人間はドラマでも漫画でも飽和している。
またひとりぼっちになることはないと分かっていたとしても、自分への優先度が下がることに焦燥を感じても不思議ではない。
「聞いてもいい?」
美月の唐突な問いに千早の心臓が飛び跳ねた。美月はペンを走らせながら、
「あいつのどこがいいの」
あいつと来た。
「見た目や成績だけ優れた男子はいくらでもいるよ」
しかもよく知らない相手の性格を批判するような発言まで出た。
「……気遣い上手の良い奴よ?」
「裏で何をしてるか分からないよ。優しさが取り柄の男子は最も警戒するべき」
初恋もまだのくせに随分と尤もらしいことを言ってくれる。
「やめるべきだよ。人間万事塞翁が馬だもん。幸福を感じてる今が実は不幸の入口だったりするの。絶対に別れるべきだよ」
まだ15の分際で随分と達観してるわね、と千早は心中で応じる。
幸せいっぱいの結婚式を挙げるまでは良かったが、嫁ぎ先の姑が鬼のようだった。という話は確かに多そうだ。
千早は美月に交際の経緯を教えようかとも一応は考慮して、
――好きじゃないなら別れなよ。
美月の感想が容易く想像できたから止めておく。万が一にでも事の真相を吹聴されては堪らない。今の美月なら二人を破局に追い込もうと様々な策を講じそうだ。
第一に千早は美月にそうさせたくない。千早も美月が好きだ。これを契機に関係がぎくしゃくするのは望むところではないし、親友の黒い一面を見たくなかった。
なので千早は言う。偽りのない本音を。
「私は圭介よりも美月の方が好き」
やっと美月が目を合わせてきた。
「本当に?」
城門は開いた。そして千早は今回の攻城戦に適した最強の武器を保持している。
「あっちの冷蔵庫に新作のプリンが入っているけれども」
「本当に!」
一転して美月が輝かしい笑顔を見せた。千早も微笑みを返しながらほっとする。
「多めに作ったから川辺家の全員に配っても余分が出るの。二つ食べる?」
食べる! と勢いよく答えた親友は深夜に甘味を取ってもおおよそ胸部にしか脂肪が付かない。
プリン作戦は無事に成功だ。自分が食べなければ圭介の分も確保できる。
「私は夜中に甘い物を食べない主義だから川辺家の分だけ取ってくるわね」
「えー。一回くらい大丈夫だよー。一緒に食べようね? 待ってるよー」
下手に反論すると面倒なことになるだろう。千早とて優先事項を熟知している。
ごめん。圭介。あんたの分は取っておけないわ。
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