水8――楽観でテンション落下

「何か良いことがあったの?」


 美月の声は背後から聞こえた。一緒に入浴する際は相手の背中を流す、というルールを美月が制定したのは随分と前のことである。


「何もないわよ」


 千早は湿った茶色の前髪で指を遊ばせる。肩口まで伸びたその髪の色は決して染めたものではない。地毛だ。美月の背中を覆った金髪は完全に人工的な色合いだが。


「本当にー? 凄く嬉しそうに見えるよ?」


 自覚はある。鏡を見れば引くに違いない。それほどに千早はにっこにこだ。


「美月にも教えてよー」


 美月が後から抱き付いてくる。双方が真っ裸なのでボリュームのある柔らかい感触が千早の素肌をダイレクトに襲った。


「うざいってば。押し付けるな。自慢かこら」


 この手のじゃれ合いは日常茶飯事だ。千早は今回のように口調を砕くことがあっても、本気では怒らないし、口汚く喋ると美月が喜ぶのもよく知っている。


 千早が美月にしか汚い言葉を使わないからだろう。自分は特別だ。そう実感したいのか、態と困らせようとしてくることも多々ある。


「仕方のない子ねぇ」


 千早は美月を振り解き、顔のみを後に向けた。美月が嬉しげに目を弧にする。

 千早がご機嫌なのは恩師にチャットで褒められたからだ。


 でも、と千早は考える。まだ圭介のことを美月に言えていない。初めての交際に浮かれていることにするのも一つの手だ。


「一組の油野圭介って知ってる?」


 美月がキョトンとした。数秒も経てば再び無邪気な笑みを浮かべて、


「イケメンな男子だよね」


「そうね。格好良くはあるわ」


 千早は返事をしながら美月の反応を予想してみる。


 A、いいなー。美月も彼氏が欲しいよー。


 B、恋人がいても仲良くしてくれるよね?


 C、えー。ちーちゃん。彼氏ができたの?


 Aはまずない。Bが本命だが、Cの方が一般的だろうか。


「今日から付き合うことになったのよ」


 どれかな、と千早は予想を楽しむことができなかった。


「なんで?」


 美月の顔から笑みが消えた。無表情に近い。僅か三文字の問いに凄まじい重圧を感じる。


 千早は言葉を返せない。美月の笑っていない瞳を見据えながら思った。大失態だ。


 浮かれて美月への配慮を欠いていた。説明の方法とタイミングをどこまでも見誤っていた。


 共に湯船に浸かり、寝間着になって濡れ髪を乾かしても。美月は一言も喋らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る