水5――ただいま。いってきます。

 結論から言えば圭介は帰った。


 水谷家から油野家までは一時間の距離があるため、紅茶やプリンを楽しむと帰宅が19時を過ぎてしまう。プリンはまた明日ということにして、長女が購入する予定のチーズケーキと家族揃っての夕飯を求めて走り去った。


 一人になった千早は玄関のドアを閉めると内側から施錠し、一言だけ呟く。


「ただいま」


 返事は来ないと知っている。


 早々に靴を脱ぎ捨て、洗面所に行って手洗いとうがいをした。自分が生み出したもの以外で物音は一つも聞こえてこない。いつものことだ。


 千早は薄暗い居間に顔を出さず、手すりのないくせに角度が急な階段を昇って二階に向かった。目指すは最も奥に位置するドアだ。ノックをせずに入っていく。


 女の子らしい。内装はその一言に尽きる。薄ピンクのカーテン。ベッドの枕元にあるくまのぬいぐるみ。有名なアイドルグループのポスター。本棚は流行の少女漫画で埋まっている。


 千早はセミダブルのベッドの脇にリュックを置き、ガラステーブルの足元に転がったゼリービーズクッションを拾い上げる。隅っこに設置された勉強机の椅子に着き、だが眼前の参考書に用事はない。ノートパソコンの電源を入れ、液晶画面に白い子猫の寝転がる画像が映るまで膝上のクッションを弄ぶ。


 パソコンの準備が整うと空いた方の手でマウスを動かし、日に何回も起動するアプリケーションのアイコンをダブルクリックした。


 ディスコと呼ばれるチャットツールで、圭介とネトゲをやる時にも使う予定のものだ。時間が早いせいでオンライン状態のフレンドは少ない。


「いないか」


 千早は一点を見据えながら肩を落とした。アルト【オフライン】。


 ゲームに興ずる気分でもない。千早は早々にパソコンの電源を落とした。直後にリュックの方からLINEの通知音が聞こえる。


 ――まだ帰ってないかなー? 今日はハンバーグだよー。一時間くらいしたら来てねー。


 文章の他にもナイフとフォークの絵文字や涎を垂らした顔文字などが見当たる。女の子らしいというよりは美月らしいメッセージだ。愛してるよ! という追加のスタンプが特にそう思わせる。


 当然ながら冗談だ。美月は愛という言葉を辞書で調べかねないほど恋愛に疎い。


 千早は返信せずにクローゼットからカットソーとデニムパンツを見繕う。美雪が戻れば帰宅の件は伝わるし、することもないから川辺家に行けばいい。


 替えの下着も用意して階下の浴室に行き、軽くシャワーを浴びてから玄関に立った。サンダルをつま先で拾い、無音の空間にひっそりと言葉を残す。


「いってきます」


 来ない返事を待ちはしない。千早は孤独から逃げるように外出した。

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