水4――甘いお誘い
水谷家は群れなす市営住宅の脇にある。八階建てが十数棟ほど並びながらも駐車スペースが絶望的に少ないため、近くの道路はどこも路上駐車でいっぱいだ。
自宅前の道路も本来は大型車が楽に通れるくらいの広さを誇るが、今は駐車禁止と書かれたコンクリートブロックやコーンが置かれ、それでも身勝手に駐車する市民が多いせいで狭苦しく感じる。
今も大学生っぽい若い女性が軽自動車を当然のように路駐し、目の前の一戸建てに住む主婦が注意しに行った。このように市営の住民と戸建ての住民が衝突するのは珍しくない。
前者は『他に止める場所がないから仕方ない』と開き直り、後者は『お宅の事情など知ったことか。迷惑だから止めてくれ』と対立する。警察が出てくる騒ぎに発展したことも数回ほどあるものの、路駐する市民が後を断たない。
千早も市営の住民に同情はしても、家の前に路駐されると不愉快な気分になる。夜中などは車内に潜んだ不審者が覗いているのではないかと思うこともあるし、妙な圧迫感を覚えるのも確かだ。しかし今日も既に路駐の車が自宅前で整列している。
築四十年を数えようかという古めかしい一戸建ての前で千早は足を止めた。水谷と書かれた表札に視線を向けながら圭介も停止する。
千早の指示で二人の手がようやく離れた。
「朝方は車の出入りが激しいから気を付けてね」
背中の荷物を下ろし、千早はリュックの横ポケットから玄関の鍵を取り出した。
「隣の表札に川辺と書いてあったような」
圭介が水谷家と同じくらい古びた一戸建てを見ながら言った。
「美月はお隣さんなの。だから――」
「あらら? お帰りさない、千早ちゃん」
隣家の玄関から若々しい女性が出てきた。優しげな目を糸のように細めながら手を小さく左右に振り、ふと圭介の方に眼差しを向けると一転して笑みを小悪魔っぽいものに変える。
面倒なことになりそうだ。千早は嘆息したくなったが、彼女の次の台詞を察してしまったからではない。圭介が一瞬とはいえ彼女の胸元に目を向けたからだ。血筋なのか、彼女の胸囲は美月を凌駕する。
このスケベ彼氏のどこがゲイなのか。本当に超健全だ。純白のワンピースに淡色のカーディガン。こうも薄着では強調したように盛り上がった部位に目がいくのも無理はない。かと言って、発展途上国を見向きもされなかった千早は複雑な心境だ。
「ひょっとして彼氏なの?」
そして予想は的中した。くふふ、とさも楽しげに笑う彼女に千早は苦笑いで答える。
「彼氏です。美月には後で説明するので
千早の言葉に合わせて圭介が会釈した。
「了解しましたー。ではではコンビニに行ってきます。ビールがないのを忘れてて」
美雪がマイバッグを片手に敬礼し、律儀にも圭介に会釈を返してからサンダルを鳴らして駆けていく。百六十ほどの千早や美月よりも背丈が低いので妹を送り出したような気分だ。
「今のは川辺の姉か? 最初は妹かとも思ったが、お前が敬語で応じてたし、何より化粧してたからな。ひょっとして川辺の家は巨乳ロリの血統なのか?」
「どうかしらね。次女の
千早は圭介の目敏さを改めて実感しながら玄関の鍵穴に銀色のキーを差し込み、
「でも言っておくと。美雪さんは美月のお姉さんじゃないわ。お母さんよ」
「……は? 今のはどう見ても二十代だろ。十代に見えかねないほど若かった」
「あんたの認識は間違ってないわよ。美雪さんはギリギリで二十代のはずだし」
継母でもないわ、と千早は小声で伝え、玄関のドアを開いた。
「上がる? お茶くらい出すわよ」
千早の社交辞令的な誘いを契機に圭介は美雪への関心を除去したらしい。余所の家庭事情をあれこれと詮索するのは失礼だと思ったのだろう。
「お茶に関心はない。また今度だな」
圭介が肩を竦めて回れ右をした。
「ダージリンと手作りのカスタードプリンもあるわよ」
千早の追撃に圭介は再び回れ右をする。照れ臭そうに目を遊ばせて、
「……紅茶とプリンか」
「思いの外ハートを鷲掴みにしちゃったっぽいわね。あんた、甘い物が好きなの?」
「和菓子はそうでもないけどなぁ。洋菓子は大好物だな。何せ我が家は六人中五人が女性、いや、一人は女性ぶったオッサンだったな。とにかく女性率が高いお陰で何かとスイーツとの縁がある。洋菓子は週5以上で食ってるかもしれん」
種類が豊富から飽きも来ない、と圭介が饒舌に語っていく。彼氏の意外な一面に千早は苦笑した。無口なタイプだと認識していたが、ただの思い違いだったらしい。
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