第9話 愚か者の愛

 エルドレッドが対峙している相手はまさに死そのものを体現した存在だ。


 洞穴熊ケーブベア

 既に絶滅したはずの熊の亜種であり、またの名を『迷宮の掃除屋』と言われる狂暴な獣だった。

 名の通り、洞穴を住処としており、かつては世界各地の迷宮にもその姿が見られたのだと言う。


 雑食なだけではなく、悪食である。

 腐敗した死体であろうと平気で消化する丈夫な胃袋を持っている為、不名誉な二つ名が付いているのだ。


 そのケープベアがエルドレッドの前にいる。

 後ろ足で立ち上がれば、ゆうに成人男性の二倍はあろうかという巨躯には赤茶けた緋色の毛が覆っていた。

 大きな体を支える四肢は丸太のように太く、前腕には曲剣シミターとほぼ同じ大きさの爪が生えている。


 自分は死ぬだろう。

 エルドレッドは漠然と考えていた。

 まるで他人事ひとごとのように見えるのは彼にとって、もはや自身の命がどうでもいい存在だったからだ。

 左腕と大量の血を失っており、既に意識が朦朧としているエルドレッドがどうにか、自身を保っていられる理由はただ一つ。


 それは自らが命を奪ったイヴァンジェリンへの愛だけである。

 狂おしいほどの愛は彼を正気でなくさせ、常軌を逸した行動へと走らせたのだ。

 そして、今にも命を失いかけない体を突き動かすのはイヴァンジェリンしゃれこうべを守ろうとする。

 ただ、それだけだった。




 離れた場所から、その戦いを見守っている二人の少女――イズンとヘルは対照的な表情をしている。

 イズンは険しい顔をしながらもどこか、エルドレッドの身を案じる素振りを見せていた。

 対して、ヘルは涼し気な表情をしていた。

 結果など、観ずともはなから分かっていると言わんばかりに……。


「ほらね。愛は何でも可能にするのよ♪」

「困ったわね」


 ケラケラと笑うヘルに冷ややかな目を向けながらもイズンは目の前の状況を理解しようと頭を働かせ始める。


 勝者などいない。

 勝利を確信していた洞穴熊ケーブベアは無様にも大地に躯を晒すことになった。

 ロングソードが下顎の下から、脳天を貫いている。

 ケーブベアの全身は針金のような毛で覆われ、全身頑丈な金属鎧に身を包んだ戦士よりも硬いと言われていた。

 唯一の弱点が喉元の柔らかい部分だったのだ。

 そこを狙ったエルドレッド渾身の一撃だった。

 さしもの化け物熊もこの一撃には耐えられず、息絶えた。


 しかし、勝ったエルドレッドは元より、死に体だった。

 死闘の末、ケーブベアの爪で切り裂かれた体はもはや、身動きが取れない状態に陥っている。

 死を待つだけの虚しい時が過ぎていた。


「イズ……守れた……これで…………」


 血を吐き、虚空を見つめるエルドレッドの目はもう、何も見えていない。


「これがあんたの愛なの?」


 それは今まさに死を迎えんとする男の見た今際の幻だったのだろうか?

 あんなにも会いたいと願った愛しき女の姿が見えないはずの目が、朧気ながら捉えたのだ。

 これでもう思い残すことは無い。


 エルドレッドが闇の手に囚われるように意識を静かに手放したのを見届けたヘルが溜息交じりに話を切り出した。


「イズン。それでコレ、どうするの?」


 そこには先程まで年頃の娘のように快活に笑っていた少女とは思えないほど、冷酷な雰囲気を纏っていた。


、治しておいて……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る