第三章 一



三月に川越学園を卒業してから、二か月経った日、かねてから打ち合わせのあった一、九班合同の尾瀬ハイキングが催された。落ち合えば、久しく会っていないような気分である。何時ものごとく、佐々木さんと的場駅で待ち合わせをし、川越駅西口へと向かった。集合時間が六時三十分であったため、発着本数が少なく早めだが的場発の一番電車に乗った。車内で佐々木さんと顔を合わす。

笑顔で告げた。

「おはよう」

関口が開口一番冗談を言つつも、来た電車に乗った。

「よく起きられたね、何時もは八時ごろまで寝ているんじゃないの」

吊革に掴まり、輝く目で佐々木が返す。

「そうなんだけれど、今日は特別だから早く目が覚めたよ。遅れちゃまずいと思ってさ」

「ところで、朝飯は食ってきたの?」と、関口が二の矢。

「ああ、食べてきた」

「偉いね、奥さんが用意してくれたんでしょ」

「まあね」と、自慢げにのたまう。

「それじゃ、奥さんに感謝しないといけないね」

「ああ、自分じゃ作れないから。ところで朝飯食ってきたの?」

「いいや、俺のところは朝早く飯なんか作っちゃくれないよ。だから川越に着いたら時間があるし、コンビニで昼飯を買うついでに、近くの松屋で牛丼を食ってくるよ」

 そんな会話をしていると、川越駅に着いていた。西口改札を出て、待ち合わせ場所の噴水近くに行くと、すでに石田さんが来ていた。

「おはようございます」互いに挨拶を交わした。

「石田さん、朝飯は食ってきたんですか?」

「ええ、食べてきたよ。ただ、昼ごはんをコンビニで用意しようと思っているの」

「そうなんだ、俺も昼飯はコンビニで買うし、ついでに松屋で朝飯を食ってくるよ。それじゃ今のうちにコンビニに行きますか?」関口が返すと、石田が告げた。

「そうね、でも私は他の人たちが来たら一緒に行くわ」

「そう、それじゃ。佐々木さんコンビニに行こうよ」

「ああ」

二人で近くのコンビニへと向かった。そこでおにぎり弁当を買い、俺一人松屋で牛丼を食い朝飯を済ませて、集合場所へ戻ると大半のメンバーが集まっていた。

「おはようございます!」一斉に輝いた挨拶が交わされる。皆の顔が笑顔に包まれており、学園生活での一コマを描いたような雰囲気が漂っていた。牧田さんと目が合い、関口が声をかける。

「今回の合同尾瀬ハイキングの手配ご苦労様です。九班の温かいお誘いに、一班全員が感謝しています」

「なにをおっしゃいますか。卒業懇談会で一緒に苦労した仲間じゃないですか。その延長として一九会が発足し、第一弾として元々九班で企画していたものに、一班の皆様も参加して貰うことになったんです。大勢で行けば、また楽しいものですよ」

「そう言っていただけると嬉しいですね。今日は宜しくお願いします。一班は田畑さんを除いて皆集まっています。直に彼も来て全員集合となりますが、九班の皆様はお集まりですか?」

「ええ、九班もほぼ集まりました。それで今回の引率者は松下さんですので、彼の言うことをよく聞いて行動してください」

 そう促され、改めて関口が松下に挨拶した。

「松下さん、今回の企画ご苦労様です。また、引率の方宜しくお願い致します」

 そこで松下が挨拶する。

「こちらこそ宜しくお願い致します。ところで、今回の尾瀬ハイキングは、無難なコース取りをしていますが、決して無理をなさらないでください。それぞれ自分の体調に合わせて楽しんでいただくことです。皆様に配布したハイキングコースですが、往復で約十四キロとなっています。竜宮十文字まで行き、来た木道を帰ります。途中で引き返すことが可能ですので、引き返す時は一人ではなく複数人でお願いします。万が一、木道を踏み外したりしますと助ける人がいなくなりますから。この点だけは仲間内でよく話し合ってください。以上です」

松下が注意事項を話し終えると、牧田が伝える。

「全員が揃いましたので、乗るバスの方へと行きますのでついてきてください」

 第一生命ビル側にマイクロバスが、すでに待っていた。それに乗り込む。予め席順が決まっており、それにしたがって皆が座るが、座席は班ごとになっていた。

午前七時になり、いよいよ出発である。たわいのない雑談に皆の心が弾む。そんな光景が車内に広がっていた。隣に座った海原が話しかけてくる。

「関口さん、今日のためにトレーニングはしてきたんですか。私はこれと言ったことはやっていませんが、一週間前から少し走ってきました。それで大丈夫でしょうか?」

「いや、効果があるかはなんとも言えませんね。でも先ほど松下さんから、無理するなと説明していたので、疲れたら途中で引き返せばいいんです。それよりもそんな心配しないで、尾瀬を充分楽しむことを心掛けた方がいいと思いますよ」

「そうですね。関口さんの話を聞いて、なんだか安心しました。尾瀬を楽しむことにします。ありがとう」

「如何致しまして、俺もその心算で参加しましたから。但し、計画コースを制覇しようと思います。まあ、人それぞれですからね。昔と言っても若い頃ですが、何度か尾瀬には来たことがあり、過去を遡ってみたいと目論んでいるんです」

「そうですか。私もなにか目的を持って参加すればよかったわ。でも、今日は一日充分楽しみたいと思います」

「それでいいんですよ。ハイキングを楽しめば、思い出に残りますから」

「そうですよね、充実すれば次のチャレンジに繋がりますからね」

「俺も今日の尾瀬を堪能すれば、昔の登山熱が呼び起されるかもしれない。最近は若干時間に余裕ができたんで、心が疼くんですよ。まあ、俺の場合はサイン会だとか忙しんで、なかなか難しいですけれどね」

「また、そんなこと言って。関口さんたら、からかうのは顔だけにしていただけませんか」

「そうだね……、な、なんと。この二枚目を捉まえて、俺の美貌を貶すとはけしからん」

「はいはい、分かりました。芸能人さん、精々頑張ってください」

「ちえっ、これだからな……」

海原との会話は、これで終わった。

マイクロバスが川越駅西口を出発し関越自動車道に入り、途中赤城高原サービスエリアで休憩を取り、その後沼田インターチェンジで降り、戸倉から山岳道路へと向かい、山肌を縫うように高度を稼ぎ、尾瀬の登山口である鳩待峠へと到着した。二時間弱のバスの旅である。その間、都会の様相から山岳の風景に変わっていく様に、皆の目の輝きと歓声が一段と大きく変化していた。これからチャレンジする、尾瀬への期待感がそうさせているのか。

マイクロバスを降り、早速松下さんからハイキングの諸注意がなされ、さらに準備運動をして身体をほぐし、いよいよスタートである。皆の息遣いから、気持ちの高ぶりが聞こえてくるようだ。

その前に、牧田さんから「集合写真を撮るので」と言われ、尾瀬の全貌が示された案内板の前で、全員がすまし顔となりカメラに収まった。

「さあ、出発しよう!」松下さんが声を上げ、先頭に立って歩き出した。その時、松下さんから俺と牧田さんにしんがりを任された。俺としても、若い頃の登山経験があり、任された以上責任を持たなければならない。歩くペースは松下さんに任せ、皆がついて行けるか、あるいは調子の具合はどうかなどを、後ろから見守らなければならない。的確な判断をされたと、改めて敬服した。なぜなら参加する全員が、この尾瀬ハイキングの山行を楽しんで貰わなければ、意味がないと考えれば当然のことである。

今日の参加者で、山歩きを経験した人も未経験の人もいる。全員が来てよかったと思えなければ、松下さんにしても立案し意味がなくなるだろうと考えているに違いない。それをサポートする役割が、俺であり牧田さんだ。そんなことで、俺の目的も皆も充実できる山行にしようにと思った。

話は若干戻るが、集合時間が朝早くなったからと言って、車中で居眠りをする者などいなかった。初めての参加者や幾度か山登りを経験した者など様々ではあるが、一応に少々の不安と大きく期待する心が入り交じる表情が表われていた。

鳩待峠から尾瀬ヶ原へは、マイクロバスで登山口まで上り詰めた分高位置にあるため、山道を下って行かなければならない。昨日まで天候が悪かったせいか滑りやすく注意を要したが、皆慎重に歩いたことで滑り転ぶ者はいなかった。小一時間ほど進むと「山の鼻」に来た。下りはそこまでである。ここから木道を歩いて、いよいよ尾瀬ヶ原を歩んで行くのだが、松下さんの号令で休憩を取った。

小屋の前の木作りのベンチで各々が腰かけ休みを取る。下りとはいえ、山の中である。歩き始めは山の冷気を感じたが、この頃になるとほんのりと額に汗が滲んでいた。ひと息ついて、瀬川が海原に話しかけた。

「如何ですか、調子の方は。標高千五百メートルの鳩待峠でバスを降りた時は肌寒かったけれど、こうして歩いてきたら暑くなってきたわね。ちょうどいいから、上着を脱ごうかしら」

「そうね、私も暑くなってきたわ。でも、厚着していないからこのままでいる。それに今日は、体調がいいみたい」

「それは、よかったわね。こちらまで来る時の、バスに揺られて気分が悪くなったら、尾瀬ハイキングも楽しめないものね」瀬川が気を配った。

「そうなの、この前の卒業旅行の帰りのバスでは、皆さんに迷惑をかけたから、今日はちゃんと酔い止めの薬を飲んできたわ。だから全然平気よ」と、海原が自信有り気に告げた。

そんな二人が雑談している時に、関口が首を突っ込む。

「海原さん、それは準備周到だ。かしこい、かしこい」

すると、海原が照れながら言い訳した。

「まあ、そんな当て付けみたいなこと言って。私を茶化しているのかしら?」

「いや、そんなことない。これから始まる尾瀬ヶ原の一大スペクタクルを楽しめないと、ここへ来た甲斐がないから心配してやったのさ」

「それは気配りいただき、有り難うございました。感謝するとともに、充分に堪能させて貰いますわ」

そう返し、海原が鼻をつんと上げた。それを関口が茶化す。

「いや、海原さんって。その澄ました顔が一段と素敵だね。これじゃ、旦那さんが惚れるの無理ないよ」

「また、馬鹿なこと言って。まったく嫌だわ。関口さんたら、この際木道を歩いている時に、後ろから押して落してやろうかしら」

「うへっ、そんなことされたら沼地に堕ちて、泥だらけになっちゃうよ。まあ、そうなったら、水芭蕉と混在して、一段とイケメンになるな。これ以上もてたら困るから、そういうことはしないで貰いたいね」

「またまた、自惚れたこと言って、自信過剰じゃないの。自分の顔をよく鏡を見てから、そういうことは言って貰いたいな。まったく、関口さんと話していると、阿呆らしいからもうやめるわ」

 呆れた表情で海原が告げて、二人の掛け合いが終わったところで、松下から出発の号令がかかった。

「さあ、出発しよう!」

掛け声に応じて皆がリュックを背負い直し、松下を先頭に再び歩き出した。木道は整備されており、歩きも慣れてくると、周りの景色が目に入ってくる。水芭蕉、チングルマ、リュウキンカなどの群生が水辺に咲き、その素晴らしさが目に染みてくる。遠方を見れば至仏山の雄姿が聳え立つ。皆から感嘆の声が上がった。

「やっぱり来てよかった。こんな素晴らしい景色。ここへ来てみなければ味わえなかったもの!」

 石田が息を弾ませながら言い放った。すると、目を輝かせ瀬川も同調する。

「私の身体では、下りは少々きつかったけれど、こうして木道を歩いていると、周りの景色に心が洗われるようだわ。皆さんと来てよかった」

 すると、佐々木が茶化した。

「瀬川さん、今日のためにダイエットしてきたのか。後ろから見ると腰がくびれて、尻がぷりぷり揺れて色気を感じるよ」

「まあいやだ。嫌らしいんだから。まったく佐々木さんって、病気したわりには、色ボケが治っていないのね。でも、私痩せたかしら。そうだとしたら、嬉しいんだけれど。ねえ、佐々木さん。本当に腰がくびれているように見える?」

「ああ、以前に比べれば段違いだ。いい身体しているよ」

 そこへ、田畑が突っ込みを入れた。

「佐々木さん、瀬川さんのどこを見て言っているんだ。以前と変わらないだろ。よく見てみろよ。なあ、戸田さん?」

突然降られ、戸田が戸惑う。

「ええ、まあ。特に変わった様子はないような気がしますけど、どんなものでしょうかね。ここは、評論を避けたいと思いますが……」と、口を濁した。

瀬川が、不満顔になりそっぽを向いた。そこで関口が、

「まあまあ、三人とも女性の身体のことを論じているより、景色を見て下さい。水芭蕉の群生が綺麗ですよ。水芭蕉は瀬川さんたち女性のように美くしい。そう思いませんか?」と、よいしょ気味に話しかえると、それを聞き瀬川がにたり顔になり、

「また、歯の浮くようなこと言って。関口さんったら、何時もそうなんだから。私ったら、何時も世の男性にそう言われ、耳にタコが出来ているわ」

鼻をつんと上げ自惚れた。

すると田畑が貶す。

「ほう、俺以外の男は近眼か老眼じゃねえか。まったくもって見当違いも甚だしいだぜ。どこに目を付けているんだか」

 そこに佐々木が悪乗りした。

「ご尤も、二十歳代の女なら水芭蕉と比較できるが、そうもいかんのじゃないか。確かに季節的には水芭蕉も盛りを過ぎて、花弁が少々開き加減になっているから。そういう意味で見比べれば理屈が合うが」

頷きながら能書きを垂れた。

呆れ顔の小倉が、澄ました口調で吠える。

「まったく、一班の男たちは礼儀を知らない。うら若き女性を褒める言葉を知らないんじゃないかしら。ねえ、皆さん」

すると、一斉に笑いが起きた。

歩きながらの雑談はそれで終わった。一行は、松下を先頭に木道を歩き三股へと向かった。途中で、帰りの登山客と擦れ違うと、「こんにちは!」と、挨拶を交わす。山では常識である。始めのうちは皆も戸惑ったが、何度か交わすうちに慣れてきた。すれ違う登山客と大きな声で、「こんにちは!」と交わしていた。そして、直に三又に着いた。

ここで一班の連中は先へとは進まず、引き返すことになった。尾瀬ハイキングに参加したのも、全工程を踏破するつもりは最初からなかったようだ。それはそれでいい。一時間ちょい歩けば、山行の雰囲気を充分楽しめる。そう考えれば、彼らにとって目的を果たせたことになる。けれど俺は、最初から竜宮小屋まで行くつもりでいたので、九班の連中と一緒に歩を進めた。久々に来たのだから、少しでも昔取ったきねづかの山行気分を味わいたかったからだ。

三又から竜宮小屋までの一時間程の行程をゆっくりと歩き、すれ違う登山客と挨拶を交わす。こうしていると、昔の光景が甦ってくる。尾瀬には何度か訪れた。勿論コースとしては、鳩待峠から尾瀬ヶ原を抜け尾瀬沼方面へと向かい、三瓶峠までの行程だ。今回のハイキングの三倍強の木道、山道を歩くものである。これは日帰りハイキングではなく一泊二日の山行で、途中山小屋泊まりで自炊するための食料、燃料、さらには自炊道具持参となる本格的なものだった。

木道を一歩一歩歩くごとに、当時の景観が甦って来た。木道も今日ほど整備されてなく、朽ちかけた木道を歩いた記憶が甦る。ふたたび来ようとは思いもよらず、昔の登山で尾瀬の他に、丹沢、大菩薩峠、雲取山、さらには北アルプスの白馬岳、槍ヶ岳、立山連峰と剣岳、八ヶ岳連峰の山行が、走馬灯のように思い出されてきた。

とにかく懐かしい景色、感動した景観、疲れ果てた行程。まあ、よく登ったもんだ。あの頃の山行の軌跡が、足の裏から感じ取れてくる。やっぱりいいもんだ。これぞシニアになった俺の身体に、若き頃に味わった汗が甦り、ほんのりと汗ばんだ背中に感じ取れていた。こんな感情を感じて歩いていると、直に十文字の竜宮小屋へと着いた。

早速、九班の仲間と昼食をとる。コンビニで買ってきたおにぎりを頬張る。じつに美味い。皆と談笑し食う飯は格別だった。関口が松下に話しかけた。

「いい気分ですね。結局、一班は途中で引き返したので、私一人しか皆さんとここまで来ることが出来ませんでしたね。もう二、三人は竜宮小屋まで来ると思っていたんですが残念です」

「そうですね、我ら九班の連中は、今日までに結構皆歩いたりして訓練してきましたからね」

「そうですか、我らと意気込みが違いますね。今日参加した連中なんか、そんなことしませんでしたし、端から全工程踏破する気はなかったようです」

「それはそれでいいんじゃないですか。初めてのハイキングで、無理をすれば山歩きが嫌いになっても困りますからね。やはり、また来て楽しみたいと思えば、今回の企画も成功ですから。それを、もう二度と参加したくないとなれば、この素晴らしさを味わえなくなります」

「そうですね。そう言っていただくと、九班からのお誘いに、皆を説得した甲斐がありますよ。なんせ、初体験者もいますから」

 そんな雑談をしていると、清水から持参の漬物をいただいた。「有り難う」と返す。昼食を終えた頃を見計らい、関口が告げた。

「皆さん、記念に写真を撮りますから」と言って、カメラを構えると、一斉にポーズをとる。撮り終えた後、遠慮気味にお願いした。

「どなたか、私の入っている写真を撮っていただけませんか。たしかに竜宮小屋まで来たという証拠になりませんから。お願いします」

「いいですよ、カメラを貸してください。撮りますから」

田所が声を上げ、二枚ほど撮った。

「有り難うございます。これで一班の連中に証明できますからね。『関口さん、途中で引き返して来たんでしょ』なんて言わせませんよ」

皆の笑いが起きたところで、松下が声をかけた。

「それじゃ、昼飯も食ったことだし、時間だから出発しましょうか」

そう促され支度をし、もと来た木道を戻り始めた。竜宮小屋へ来る間や戻る途中で、景観をカメラに収めた。若干咲き終わった水芭蕉の群生や木道沿いに咲いているリュウキンカ、シラネアオイや木道の間に顔を覗かせるエンレイソウなど、やはり尾瀬ヶ原の高山植物は美しい限りだ。遠方にそびえるひうちが岳山頂付近には残雪が残り、これまた素晴らしい。この絶景を見ながら立ち止まり、大きく息を吸い込むと、山の空気が胸いっぱいに広がっていた。

尾瀬ヶ原の入り口である山の鼻小屋へと戻ってきて、一服する。ベンチに腰掛け休憩を取る皆の顔が、満足気に揺れていた。少し経ち、そこから出発点の鳩待峠へと向かう。今度は登りである。ゆっくりと歩を稼ぐ。またまた昔の山行が甦って来た。

そうだ、こんな感じだったな……。

足場を確保しながら一歩ずつ登る。直に息が切れてきた。汗が背中に滲み出してきた。

やあ、いいな。やっぱり山はいい……。そんな思いを胸に抱きながら、歩きを楽しんだ。途中休憩を挟んで、一時間ほどで一班の連中が待つ鳩待峠へと戻ってきた、皆の出迎えを受ける。拍手の中に笑顔がこぼれ、「お疲れ様でした。ご苦労さん!」の声が、ひんやりする天空に向かって飛んでいた。

一班、九班のシニア仲間が、一日充実した尾瀬ハイキング。九班の牧田さんが誘ってくれたことに、深く感謝する。大きな満足感と少しばかりの名残を残して、マイクロバスがゆっくりと鳩待峠を後にし、一路川越へと戻って行った。川越駅へは時間通りの帰還である。示し合わせたように打ち上げを行なったが、腹に沁み渡る生ビールが、青春の頃を思い出させるほど美味かった。打ち上げを行なった新規オープンしたばかりのイタリアン居酒屋は混んでいたが、前もって牧田さんが連絡しておいてくれたおかげで、スムーズに席に就け気持ちよく過ごすことが出来た。但し、一部のメンバーは食事だけと別れたが、残りのメンバーが無事帰ってこられたことを祝った。勿論、一班の連中もこの輪に加わった。生ビールで乾杯する。

牧田が一声を発した。

「皆さん、今日は尾瀬ハイキングお疲れ様でした。無事帰れたことに乾杯!」

 佐々木が奇声を発する。「美味えな、やっぱり無事帰れたんで尚更だ。美味い!」

「そうよね。尾瀬ハイキングよかったわ。水芭蕉の群生が綺麗で最高だった。また行きたいな。ねえ、関口さん」

 石田が目を輝かせた。すると瀬川も同調した。

「そうよね。私、ハイキングなんて初めてだったけれど、すごく良かった。それに帰って来た後のビール美味いわね。途中までだったけれど、最高の気分を味わえ幸せだわ。関口さん、誘ってくれて有り難う」

「如何致しまして。まあ、山の雰囲気を味わえたんでよかったね。俺には昔登った時の感触が甦ってきて満足したよ。若い頃だったから、もう山へ入ることなど考えもしなかった。それが経験できたんでよかったぜ。これじゃ、また行きたくなっちゃうよ。昔のようにはいかないが、コース取りを上手くやれば行ける気がするな。八ヶ岳、剣岳、白馬岳などが目に浮かんでくるよ。ああ、行きてえな……」

「すごいわね、関口さんは若い頃そんなことやっていたの。だから忍耐強いのね」

小倉が感激した。すると、平然と関口が告げた。

「そうさ、こう見えても昔は山男だったんだ。しかし、いいな丹沢の沢登り、最高だったからな」

「なに、その沢登りって。今日行った尾瀬ハイキングと違うの?」と、戸惑い気味に小倉が尋ねた。すると、関口が得意満面に応える。

「そうさ、根本的に違うんだ。普通、登山というと尾根道を歩くものだが、沢登りは、沢を遡行するのさ」

「なによ、沢を遡行するって。教えてよ」

「ああ、それはな沢があるだろ。それを流れに遡って登って行くことなんだ」

「へえっ、そんなこと出来るの。と言うか、そんなおっかないことするの?」

「そうさ、丹沢山系の勘七の沢とか、源次郎沢、水無川沢を遡って行き、尾根道まで出る行程だよ。多少危険が伴うが病み付きになって入いたっけな。普通二、三人で沢に入るが、たまには一人で入山したこともあったよ」

「まあ、なんと無謀なことをしていたんでしょ。危険極まりないわね。もし途中で捻挫して登れなくなったらどうするのよ」

「そう言われれば危険だよな。滝をよじ登っている時に落下したら、ただでは済まないからな。でも、そんなこと考えたことなかったし、登るのに懸命だった。やはり沢登りの魅力と云えば、夏シーズンの涼しさだよな。尾根道と違って、沢の流れの中では天然クーラーだから。真夏でも流水の冷たさ。さらに激流の景観はなんとも素晴らしい。思わず立ち止まって、写真を撮った記憶がある」

「へえっ、そんなに水が冷たいの。信じられないわ。でも、一人で行くのはあまりにも無謀だし、危険じゃないかしら?」

「たしかに、そうかもしれん。でも当時は若かったから、沢登りの魅力に負けていたんだな。今じゃとてもそんなことはできないな。けれど、忘れられないよ。あの素晴らしさは。今度機会があったら、一度連れて行ってやろうか?多少危険が伴うがよ」

「冗談じゃないわ。そんな危ないこと、この歳で出来るわけないじゃない。まったくも」

「でもよ、恋の冒険よりいいんじゃないか。旦那がいる身だろ。そっちの方が危険じゃないかい」

「なに、馬鹿なこと言っているのよ。まったく、関口さんったら」

「いやいや、解ってくれないな。登山の危険も恋の危険も、言ってみれば同じようなもんだ。そうだろ、どっちも魅力が満載だからな。どうだ、俺と恋の冒険でも味わってみるかい?」

「いやらしいわね、関口さんって。いい歳こいて馬鹿なこと言ってんだから。止めてちょうだい。しかし、なんでそっちの方に話が進むのよ」

「おお、そうだった。どうしてそんな話になったのかな。そうか、皆さんも女性だ。やはりいい男がいると、どうしてもそっちの方へと進んじゃうんだろうな。そうだよ、瀬川さんのその甘く誘うような眼差しがそうさせるんだ」

「まったく、呆れ返っちゃうわ。勝手なこと言ってさ。でも、そんなに私の瞳って魅力的かしら?」

「ああ、素敵だね」

関口が持ち上げると、小倉が口を挟んだ。

「あら、関口さんって。瀬川さんに気があるのかしら」

「いやいや、小倉さんも。その情熱的な眼差しが素敵だし、他の皆さんもそれなりに魅力があるよ。海原さんの視線には、旦那さんが惚れた魔力があるし。石田さんの流し目は、他の男が放っておかない。まあ、そんなところかな」

 すると、石田が口を尖らせた。

「関口さん、私を含め、一束ひとからげみたいなこと言わないでくれる。まったく、減らず口ばかり叩いてさ」

「はいはい、すみませんね。とんだ話になって、皆私がいけないんです。しかし山はいい。登山の魅力はここにあると思うな。今日の尾瀬ハイキング、皆さんよかったでしょ。満足されましたか?」

 関口の問いに、石田が目を細め応えた。

「そうね、一班の私たちは途中の牛首分岐の三又までしか行かなかったけれど、それでも十分楽しかったわ。こんな幸せな気分というか、充実感っていいものね。山登りやハイキングって、こんな経験できるんだ。なんだか癖になりそうだわ」

 関口が満足気に応えた。

「そうでしょう、登山とはそういうものさ。恋の冒険と同じように、深みにはまると抜け出せなくなるのと同じさ。これは年齢に関係ないね」

「またそんなこと言って。まったく関口さんは元気よね」

呆れ返る口調で石田が漏らした。皆が満足気に頷いた。

イタリアン居酒屋の中は、人息と熱気でむせ返るような活況を呈していたが、我らの仲間も負けずに尾瀬帰りの話に花が咲き、団欒のひと時が皆の顔に満ちていた。満足気な顔の中に充足感が湧き、雑談はいろいろな話題へと飛ぶが、結局戻るところは、今日の尾瀬ハイキングでの出来事である。誰一人怪我や具合の悪くなった者がでず、無事に戻れたことがそうさせているのか、談笑の華やかさと酒の進み具合で分かる。居酒屋の混雑など気にならない。それ以上に得たものが多いからか、時を忘れてハイキングの魅力と酒の魔力に酔いしれていた。




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