44:はじまったばかり
施設の建造物に縁取られた空をぼんやりと見上げる。二日前の台風が嘘のような青空だ。
「ちょい、せっちゃん、せっちゃん! サボったらあかんでよ! まだまだはじまったばかりっちゃね!」
雪那は独特な喋り方をする狐の面を被った女に目を向ける。狐塚面白の一番弟子を名乗る彼女が、今日の『治療』の監督役だった。
「適度な休息は作業効率を上げるために必要だよ」
「うぇ? ほんとけ? ならよしっ! 休もう! せっちゃん!」
芝生に盛大に寝転ぶ女。かと思えば、即座に寝息を立てはじめた。その様子を見て雪那は頭を抱える。
「監督役がいないと『治療』できないんだけどな……」
「むにゃ!」むくっと体を起こす女。「んじゃんね! わてが寝とったら、いかんぜよ! さっすが天才せっちゃんやで!」
「……あの、ひとつ聞いてもいいかい? 君が僕のことをなんて呼んでも構わないんだけどね。そろそろ名前を教えてもらってもいいかな? 今朝から一緒にいるのに、僕は君のことをなんと呼べばいいのか考えあぐねているんだ」
狐塚もなかなか名乗らなかった。雪那への情報を制限しているという意味合いもあるのかもしれないが、そもそもそういった礼儀を知らない一門なのだろうかと疑ってしまう。
「ありぇ? あちきの名前すか? むーん……名前」
女は握りこぶしをこめかみ辺りにぐりぐりと当てがって悩みはじめた。お面で表情が見えないのがいやに不気味だ。
お面の中で女が唇をポッと鳴らした。「タマとでも呼んでくだせえな、せっちゃん」
「本名を名乗れない事情があるってことでいいのかい?」
「いんや! ちゃうねん、面白の
「なるほど。じゃあ、タマさん。『治療』の続きをしよう」
「むむ? なんでせっちゃんが上からなん? どりゃあ偉い学者さんでも、ここではあちきが先生なりよ」
「……はい、タマ先生。続き、よろしくお願いします」
この独特な感じに一日を通して接していくのかと思うと、先が思いやられる。次回は彼女以外の監督役を狐塚に頼んでみようか。
「むむむっ! ちょい、せっちゃん! なんかいま、わちきのこと、悪く思っとるでしょ?」
狐の面がずんずんと眼前に迫ってくる。
「そーゆの、わかるんよ、タマは。あーあ、お手紙届けてあげたの、誰だと思っちょるん? あの子がわてらのこと探れんようにすることも、あの場でやろうと思えばできたんよ、タマは。え? え?」
「いや、その件は感謝してるよ、タマ先生、ありがとう」
「んにゃっはー」タマが肩を組んできて、ばしばしと頭を叩いてくる。「じょーだん、じょーだん! じょーだんじゃん、もう、せっちゃんったら、そんなにかしこまらんでええのに。あちきとて、好んで人の首を掻っ斬ったりせんけん。見くびらんといてよ」
「は、はあ……」
とても疲労を感じる。若返りに合わせて、人付き合いを嫌う心も戻ってきたかのように錯覚してしまう。
タマは永遠へ手紙を届けてくれたということに合わせ、二日前の戯画高校での事件に永遠が巻き込まれていたこと、それでいて無事だということを伝えてくれた。それらが今朝、初対面の彼女への親近感を与えてくれた。しかしどうだろう、永遠が絡んでいたからという安易な印象だったのかもしれない。正直、苦手だ。
「んじゃ、せっちゃん。『治療』を再開しようか。まだまだ、はじまったばかりだけんね」
いずれ慣れるかもしれない。教えを乞う立場だ。こちらから切れるものでもない。とことん付き合ってみよう。タマの言葉を借りれば、この縁もまた、はじまったばかりなのだから。
『永遠へ
まずはごめんよ。永遠は当然気が付いているだろうと思うけど、僕は科学者として道を踏み外してしまった。後悔先に立たずを痛感しているよ。ほんとうに、すまない。手紙もこの紙一枚分しか許されていないんだ。短くなってしまうことも重ねて謝るよ。
僕はひとまず安全な状態にあるから、心配しないでほしい。僕がいないだけで、永遠にはこれまでと同じ生活をしてほしいんだ。長期の調査に出ていると思ってくれればいい。僕に発端があるのに、偉そうかな? ごめんよ。
サバゲーの約束は必ず果たすよ。
雪那』
雪那の直筆の手紙は便箋ですらなかった。デスクメモを思わせる。かなり制限があるなかで書かれたことは、内容と合わせて大いに想像できる。
「これまで通りの生活……できるかな」
永遠は病室の窓辺に立って外を見る。三階の病室からは伝統と革新の街と、台風が去ったあとの抜けるような青空が見渡せた。
キョー都の街は日常のなかにある。しかしと、永遠は自分自身のことを思う。雪那の言うような、これまで通りの生活が果たして送れるのだろうか。
雪那がいないということや、今回のことでの怪我もそうだが、それよりも、知ってしまったことによる科学者としての使命感が、雪那の希望するものから掛け離れてしまう気がしていた。
悪用される科学を止めなければならない。陰陽師の科学に関する研究は、以前狐塚に説明したように続けていくつもりだ。
そうなると、阻止する動きを見せる永遠を邪魔をしてくる存在は必ず現れる。そういったときのために、自分の身を守るために護身術の鍛錬を積んでいる。しかし降りかかる火の粉を払うだけでは充分ではない。自ら危険に踏み込まなければいけない場面が必ず訪れるだろう。
今回の戯画高校ではほとんど自らの意思ではなかったが、戦いの場に足を向けていた。雪那とは危険に飛び込まないという自問を続けると約束したが、それすらもできなかった。異常な状態を言い訳にはできない。あの現象も永遠にとって今後の課題になるだろう。
「わたしが約束破ったとしても、一個くらいはお相子ですよね、博士?」
背後で扉を叩く音がした。永遠が返事をすると、ラビが快活な足取りで入室した。
「永遠、元気ー?」
戯画高校での事件から二日、ラビの顔の怪我はほとんど目立たなくなっていた。本人は全部浅かったからだと豪語していたが、さすがにありえない。永遠は手紙を畳んで、ラビに問いかける。
「ねえ、ラビ。本当に大丈夫なの?」
「え? また怪我の話?」ラビは永遠のベッドに腰掛けた。「へーきへーき。ちゃんと治ってるじゃん」
「あのね」永遠はラビの隣に座る。「わたしとしては、治ってることに驚いてるんだよ。診てくれた先生だってそうだったでしょ」
「だから浅かったからで……おぉ」
永遠はラビを遮って彼女の右腕を手に取った。不忍装束と襦袢をめくりあげてきれいな肌を露わにする。ラビの体になにか起こっていると仮定して、原因として考えられるものはひとつしかない。
「霊利に噛まれたでしょ? なにか体に変なとこない?」
ラビは笑いながら答える。「ないよー。傷の治りだって、霊利みたいに血を吸ったわけじゃないしさ。考えすぎだって。それよりさ、狐のお面! 昨日帰ってからお父さんにも確認したけど、使ってる不忍の家はやっぱりないって。永遠が見たのって本当に狐だったの?」
「あれが狐じゃなかったら、他に思い当たる動物はないかな」
昨日、ラビに頼んで、各不忍家が活動するために登録しているお面の一覧を見せてもらった。そこに永遠の前に現れた女の被っていた狐のお面はなかった。なにかの理由で登録から漏れていたり、いまは活動しておらず登録から削除されていることも考えた。その辺を善治に確認してもらったわけだが、やはり情報は秘匿されていると考えるべきだろう。
「狐塚さんってラビから連絡できたりする?」
「面白くん? ううん。不忍の情報屋は当主しか連絡できない決まりだから。面白くんの苗字に狐が入ってるからって、それも考えすぎだよ、永遠」
狐塚が所属している組織は、社会へ大きな影響力を持っている。ただ、キョー都を護ろうとする意思があることは、狐塚と話していて感じ取れる部分があった。
兎束家の玄関でのやり取りや雪那の手紙から、詮索を拒んでいることは明らかだ。雪那の安否が明確に示された、いまはそれを素直に受け取るだけに留めるべきなのだろう。
しばらく沈黙していると、ラビがうなるように言った。「そんなに気になる?」
「まあね。いろいろ気にして考えるのが科学者だから」
「博士の手紙届けてくれたんだから、きっといい人でしょ? それでいいんじゃない?」
「そうなんだけどね……」
あの日、台風による電波障害は戯画高校一帯を除いてなかった。憶測ではあるが、都合のいい電波障害は彼らの手によるものだったという可能性が高い。狐面の不忍は永遠に手紙を渡すだけが目的ではなかったのだろう。
ただ、事件自体は歪められることなく報じられた。配信での映像も霊利が階段を落ちた辺りで止まるまで、モザイク交じりではあったがしっかりとニュースなどでも使われていた。
少しばかり現実離れした映像が世の中に広まってしまったが、不忍と極道の本気の戦いはそういうものだろうと捉える人が大半を占めたようだ。あまりにも非日常すぎて、陰謀論や都市伝説といったものに落ち着いていくのだろう。
危険を知るという意味では、人間離れした力が存在するという真実が定着するべきなのかもしれない、そういう想いも永遠のなかにあった。しかし急激な変化は人にとって大きなストレスになる。徐々に慣らしていく、それも知る者としての務めなのかもしれない。
「とーわっ! 考えるの終わり! そんなに考えてばっかだから、怪我の治りも遅いんだよ!」
「え?」あまりの論に思わず吹き出してしまう。「ふふっ、なにそれ? でも、そうだね。休むときはしっかり休まないとね」
「うんうん! そういうこと……あ! 待って待って、あれはちゃんと考えて、永遠。不忍装束! もっとすごいやつ!」
「もちろん、言われなくても。キョー都の守護者といったらってものに仕上げるから、期待してて」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます