43:決着
「おらおらどーした!」
霊利の猛攻を防ぐ。そのなかにときどき反撃を織り交ぜる。ラビのほうから攻撃を仕掛けることはほとんどできない。ただそれでもやられないのは、やっぱり戦いの経験の差だと思う。
どうにかして夏穂の手にある注射器を手に入れたい。霊利を床に倒す方法はもう思いついている。霊利を倒した隙に取りに行ってもいいが、それだとさすがに注射するまでの時間はない。もう一度転ばせるにしても、さすがに警戒されて難しくなる。だから一回の転倒で決めたい。
「おめえがなに考えてるかわかるぞ。あの女の注射器狙ってんだろ? させるかよ!」
霊利にバレているのは当然だ。別に動揺したりしない。転倒を狙ってることまで知られてないなら問題ない。
「注射器壊しにでも行くの?」
「ざけんな。向こうに誘導しようとしても無駄だ」
「んぱっ。バレたか……でも、壊しとけば誰かが来ても安心じゃない?」
「何人来ようが、血祭だ」
「お祭りは好きだけど、それはいやかな」
霊利の思惑通り、なかなか夏穂のもとへ行けない。さっきから割れた窓の近くを行ったり来たりだ。廊下はかなり水浸しになっている。革靴を滑らせて霊利を転ばせるには好都合ではあるが、ここまでくると、ラビの思ったタイミングで転倒させることができないかもしれない。なにかの拍子に霊利が床が滑りやすくなっていることに気付いたら、それもまたラビの狙いが通りづらくなることになるだろう。
ラビのなかに焦りが生まれはじめる。それが小さな隙を生んで、急所こそ外させているが、霊利の攻撃がよく当たるようになっていた。どうにかしないと。
「そろそろだりぃぞ」
言葉通り面倒くさそうな顔で、霊利が足元の水たまりを蹴り上げた。飛んでくる水滴から反射的に顔を背ける。しまったと思った瞬間には、床に殴り倒されていた。すぐに腕の力で上体を起こすが、頭がくらくらする。鼻のなかがくすぐったくなって、すぐに床に血が垂れたのを見た。
「もうくたばりやがれよ。なあ?」
霊利を見ると、蓮真を蹴ったときのように足を上げていた。まずい。どうにかして避けないと、ラビがそう思い至ったとき渡り廊下に声が響き渡った。
「麝香霊利っ!」
後方から聞こえてきたのは永遠の声だった。ラビは永遠が近づいてくる音が聞こえないほど自分に疲れとダメージが溜まっていたことを知った。いいやそれだけじゃない。霊利も全く気にする素振りを見せなかった。永遠がなにかしているのか、それともやっぱり霊利も弱っているのか。
「……てめぇ」霊利の意識がラビから永遠に移った。それもかなり動揺して見える。「なんで生きてやがる!」
永遠がわずかに首を傾げた。泥のついた髪がゆっくりと揺れた。
「殺しなんて専門じゃないけど、確認が重要なのはどんな分野だって一緒」
永遠は左手に高濃度四季澱のスプレー缶を持っていた。髪をほどいていると思ったら、スプレー缶にヘアゴムを巻き付けていた。どんな意味があるんだろう。
永遠がスプレー缶を投げる動作に入った。
ヘアゴムをきつく巻き付けたスプレー缶。噴出部の上部に這わせていた人差し指を外して、霊利に向けて投げつけた。永遠の手を離れた途端、スプレー缶は中身を噴霧しはじめた。うまくいった。
ゴムの伸縮を利用して噴霧のボタンが押下されるようにした。これで霊利に近づくことなく、四季澱の濃度の高い空気を一定の範囲に漂わせることができる。これで霊利の動きが止まればラビの助けになる。
もう少し遅れていたら危なかった。霊利は足元のラビにとどめを刺す気でいた。渡り廊下を見上げた時点で姿を確認できなかった夏穂に関しては、すでに壁際で気を失っているようだった。申し訳なさが募る。きっとわたしに気を取られたせいだ。
永遠は夏穂の手に注射器を見た。ここにある注射器はあれだけだ。さっきの異常な計算能力によって把握していた。だからあの時もラビではなく夏穂に注射の指示をしたのだ。
あの注射器が必要になる。
永遠によって投げられたスプレー缶は、ぷしゅーという音を立ててこっちに飛んできた。
危険を感じ取ったのか、霊利がスプレー缶から遠ざかろうと、ラビがすぐ足元にいるにもかかわらず後退りしはじめた。そのまま体の向きを変えて、走り出す気だ。ラビはタイミングを合わせるべきはここだと思った。
ラビは急いで床に手を這わせた。目的のものをいくつか手のなかに入れてから、床から倒れるようにして跳躍した。狙うのは霊利の脚。
霊利がラビの動きにもしっかりと反応する。腕を避けるように高く上がる霊利の脚。ラビの腕は空を掻いた。それでもいい、ラビは手のなかのものを床にばら撒いた。
永遠がさっき撃ちまくったゴム弾だ。
「なんっだ!?」
霊利が降ろしはじめた足の勢いは止まらず、ゴム弾の一部を踏みつけた。歪むゴム弾が革靴の底から弾け飛ぶ。霊利の体勢が崩れた。けど足りない。まだ立て直せる範囲だ。もう一押し。
ラビは床に手をつき、高々と脚を振り上げた。水飛沫とともにスニーカーの底は霊利の顔に伸びていく。反応を見せた霊利の体が大きく傾いた。革靴が踏ん張りの限界を超えた。
倒れはじめた霊利は床に手を着いた。また無理やりに立て直そうとする気だ。ラビはそれを見ると、振り上げた脚を体に引き付けるようにして急降下させた。勢いをそのままに体を大きく回しながら、霊利の腕の関節を蹴り抜いた。
あらぬ方向に腕を曲げた霊利が悲鳴を上げながら床に落ちた。これでもきっと、霊利はまだ抵抗してこようとするはずだ。
空気の抜ける音がすぐ近くで鳴っている。タイミングはばっちり。ラビは体を伸ばしてスプレー缶をキャッチした。それから素早く身を屈めて霊利の顔のそばに缶を持っていき、自分は霊利にのしかかるようにして取り押さえる。
霊利が苦しそうに暴れはじめた。絶対に離さない。その最中、ラビの右腕に痛みが走った。
「いたっ……!?」
見ると霊利にかみつかれていた。ジャージに血が滲みはじめていた。やばい。血を吸われて回復されたら、勝ち目はない。急いで永遠に注射器を持ってきてもらわないと。
ラビが叫ぼうとしたとき、霊利が吐息を漏らして、噛む力が弱まった。霊利を抑えることに必死でさすがに聞こえていなかった。ラビは唇を鳴らして、永遠が霊利の首筋に針を刺すのを見た。
「ラビ、ちゃんと効くまで抑え続けて!」
シリンダーから霊利の体内に消えていく薬。即効性はあるが、最後までなにをしでかすかわからない。永遠も薬を打ち終えた注射器を投げ捨てて、わずかながらラビに協力する。
「うん!」
「なにっ、し、やがった……! ぐぬぁあああ!」
もがき苦しむ霊利の力が徐々に弱まっていく。 叫び声もいつの間にか消えて、最後には気を失って脱力した。永遠は霊利から離れ、床にへたり込んだ。ラビも霊利の上から転がり降りて天井を見上げていた。
しばらくして永遠ははっとして、霊利のスーツの胸ポケットからスマホを取り出した。科学が間違った形で広まってしまった。どれだけの人が霊利の異常な力を目にしただろうか。
思わず声が漏れた。「え……?」
ラビが反応して、上体を起こしてこちらに視線を送ってくる。「どーしたの?」
「配信が止まってる……。ネット自体が繋がってない」
念のため自分のスマホをズボンのポケットから取り出して確認する。圏外。やはり霊利のスマホだけに起きていることではない。
「台風で電波障害、かも……」
自分で言いながら、あまりにもできすぎていると思ってしまう。まさか狐塚が関わっているのだろうか。だとしたらどれほどの……。
「ねえ、なにか落ちたよ」
ラビが永遠のすぐわきを指さす。スマホを取り出したときに落ちたのだろうか、狐の顔の形に折られた紙が落ちていた。拾い上げる。水に濡れてしまっている。裏側を見て永遠は目を瞠った。
「手紙……?」
裏面にはボールペンで『永遠へ』と書かれていた。見慣れた筆跡だとすぐ判断できた。雪那の字だ。
永遠は鼓動が早まるのを感じた。「ごめん、ラビ。ちょっと行ってくる!」
「え? 永遠? どこにー!」
走り出した背にラビの問いが聞こえたが、答えている余裕はなかった。体は痛むが構っていられない。
戯画高校に来る前にポケットにはスマホしか入っていなかった。誰かが入れたのは明白。永遠のなかで答えはもう出ていた。狐の形が狐のお面と重なる。昇降口で体を支えてくれた狐面の不忍だ。
昇降口を出て、考えもなく動き出した自分にいまさらながら呆れる。彼女がこの場に留まっているわけがない。救護班と言っていたが、手紙の渡し方、狐の面、雪那との繋がりの奥に見える狐塚の存在を考えると、彼女が本当にどこかの不忍であるかさえ疑わしい。
手紙をすぐにでも読みたいが、水に濡れているせいで破けやすくなっている。乾燥させてから開くべきだろう。
永遠はひとりしばらく雨風に打たれた。風雨が弱まった一瞬に校舎から人々の喧騒が聞こえてくる。危機を感じさせる騒がしさではない。戯画高校で起こった惨事が終わりに向かっていく。
ただこの終わりは新たなはじまりでもあった。鹿威会が鬼を生む蚊の研究に成功した事実はなくならない。研究施設が焼失したというが、鹿威会が施設を一か所しか持っていないとは考えづらい。これから先、第二の麝香霊利が生まれる可能性がある。
鹿威会の動きは永遠にはわからない。急を要した麝香霊利とは違い、今度は準備の時間があると考えたい。人間離れした脅威に対抗する手段を用意しないといけない。それを活用できる友人が、このキョー都にはいる。
悪用された科学を正すのもまた科学なのだから。
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