42:ノイズ
視界が開けると、ノイズの嵐のなかに立っていた。足元から四方八方に至るまで、無秩序な空間。まるで抽象画のなかにでも入り込んでいるようだと永遠は思った。荒々しい視覚ノイズのわりに、音は静かだと思える。雨音に似た音が途切れることなく続くホワイトノイズ。
戯画高校の渡り廊下で意識を失ったはずだが、夢かなにかだろうか。空間のノイズは混濁した意識の現れ、音のノイズは台風の影響による雨音を耳が捉えている、といったところだろうか。
思わず笑ってしまう。分析するような状況ではない。
「……わ…………」
不意に前方から声が聞こえてきた。ノイズ交じりで、声と判別できる限界。人物はおろか、性別すら特定できるようなものではなかった。
「と……………………」
永遠。自分のことを呼んでいる気がして、永遠は声の方へ歩きはじめた。歩みに合わせて水面に広がる波紋のように、新しいノイズが生まれていく。
「……ない…………わ……」
ラビたちはどうなったのだろう。霊利への注射は成功しただろうか。そうであってほしい。意識を取り戻したらすべてが終わっていてほしい。
病院のベッドの上で目覚め、ラビたちに囲まれている。そこには雪那もいて、永遠の回復ののちに、ともにトーキョーに帰る。
そうして日常に戻っていくことを想像して、鼻の奥がつんと痛んだ。そうはありたくないのにどこかで、これまでの日常は戻らないのだと思っている自分がいる。
涙が溜まるのを感じて、永遠は足を止めた。長い呼吸とともにノイズの空を見上げる。数度の瞬きののち、ノイズが弱まった気がした。視線を下ろす。
「ぇ……?」
目の前に手のひらに収まるサイズの黒い立方体が浮かんでいた。大きさだけみれば馴染み深いインフィニティキューブを思わせる。だがこの立方体には継ぎ目がなく、可動部はない。
この物体はなんだろうか。仕組みがわかる能力が、機能していない。人工物のように見えるが、違うのだろうか。
ただ、わからない一方で、物が壊れているときの違和感を覚えていた。仕組みがわからないぶん、どう壊れているかは判然としないが、たしかに壊れている。
こんなことは初めてだった。仕組みがわからないのに、壊れているということがわかるなんてことがありえるのだろうか。
永遠は好奇心とともに、立方体に手を伸ばす。
「……かない……とわ!」
さっきまでに比べ明瞭な声がした。永遠はため息を漏らす。まさか自分を呼ぶ声が、親しい人ではないとは。つくづく思う、これが現実での苦しい状況を表した悪夢なのだと。
ノイズの世界が薄らいでいく。黒い立方体の謎を探りたかったが、目覚めてしまうのでは仕方がない。結局触れずじまいになった名残り惜しさとともに、夢は醒めていく。
「人夢永遠っ!」
兎束ラビともう一人の不忍を蹴散らし、霊利は人夢永遠の細い首を掴んで持ち上げていた。この首は簡単に折れる。こいつの命は俺次第だ。そのはずなのに、恐怖が拭えない。
本能がこの女を遠ざけたいと思わせている。一刻も早くこの脅威を取り除きたい。
人夢永遠がぼんやりと目を開けた。やっぱり、弱々しい。なんでこんなやつを恐れている。得体が知れない、やばいやつだ。
「……呼んでたのが、あなたなんて、最悪」
頭に血がのぼるのを感じる。霊利は腕を振るって、永遠を渡り廊下の窓に向けて投げつけた。ガラスを突き破り、視界から消えた。安心感に長い息を吐く。
「永遠ぁーっ!」
うしろで兎束ラビが叫んだ。俺のことも気にせず、すぐそばの窓に駆け寄って外を見る。まだ動けるのか。もう一人の不忍は壁に寄りかかって、気を失っている。ふたりともそれくらいには強く払いのけたはずだった。打ち所の問題かにも思えたが、違うと霊利は思い直す。
そもそもこの不忍のガキは、壁を突き破るほどの力で殴ったあともすぐに追いかけてきた。全く効いていないわけではないが、ある程度、俺の力に耐えているんだ。
それでも、人夢永遠に比べたらなんの脅威も感じない。もう邪魔されるのもうんざりだ。友が死ぬところを見て絶望もしてるだろう。ここで終わらせてやる。手元に銃がないのが残念だ。
兎束ラビのほうへ向かう。足音で気づいたか、涙目が睨んできた。
ラビは霊利がこちらに向かってくる音をかろうじて聞き取って振り返った。
打ち付けていた雨も大きな音だと思っていたが、割れた窓から入ってくる雨音は想像以上に耳障りだ。疲労やこれまでのダメージも影響しているのかもしれない。
軽く目元を拭った。泣いてる場合じゃない。夏穂は霊利に飛ばされた衝撃で気を失っている。いまラビが戦意を失っていては、戯画高校にいるみんなが危険な目に遭う。
それに永遠はきっと大丈夫だ。そう信じたいという気持ちもあるが、永遠が落ちたのは花壇のなかだった。訓練の中で受身の練習もしているし、いまは不忍襦袢も着ている。だから、大丈夫だ。
霊利が次第に距離を詰めてくる。ラビは後方の夏穂に視線を向けた。壁際で倒れている夏穂の手には注射器が握られている。針も折れていない。なんとか霊利に隙を作って、薬を打たないと。
ラビはジャージの上着のポケットに手を入れた。入っているのは薬のカートリッジだけ。スプレーは教室の壁を突き破ったときに注射器と一緒に失くしていた。アレルギー反応で隙を作るのは無理そうだ。
霊利はスプレーを吹きかけた直後より、いくらか平常に戻っているように見える。血を飲めば治ると言っていた霊利だが、まだ誰の血も飲めていない。万全じゃないことを祈ろう。
ラビは霊利をしっかりと見据えて身構える。どれだけ排除しようとしても意識に入り込んでくる雨音。霊利の音に集中しないと。
「お前もすぐにあの女のとこへ送ってやるよ!」
霊利が仕掛けてきた。単調に間合いを詰めてくるだけでも、霊利の場合は脅威になる。拳を引く霊利。踏み込んだ足音に水の音が混じっていた。割れた窓から入ってきた雨で廊下が濡れているんだ。
ラビは霊利の拳をくぐるように避けながら、その足元を見た。革靴が濡れている。外から来ているのだから濡れているのは当然といえば当然だった。けれどと、ラビは記憶を辿る。蓮真を蹴ったとき、ここまで気になるほど濡れていなかった。音だっていまはじめて、水の音を含んでた。
反撃として、ラビは霊利の顎に向けて掌底を繰り出す。やはりすごい反応速度で、簡単に躱される。ただそれは経験から来る回避じゃない。危険から逃れるために反射的に動いているだけなんだ。
ラビは自分が勝つイメージを作りはじめた。霊利の異常な力には敵わない。わたしが勝てるのは、積み上げてきた鍛錬と戦いへの慣れだ。
体中に冷たさを感じる。心地いいと思った。頭の焼けるような痛みが、徐々に去っていく。代わりに、打ち付けられた体が痛む。おぼろげな意識のなか、咄嗟に受身を取ろうとしたが、しっかりとできた気がしない。ぬかるみに落ちたのが幸いだった。
しばらく雨に打たれ続け、それから永遠はゆっくりと動き出した。なんとか起き上がれそうだ。
周りを見回すと、ここが花壇だということがわかった。校舎と体育館に挟まれている場所だが、日当たりは充分なのだろうかと考えてしまう。校舎や渡り廊下からの景観のために用意されているのだろうか。
余計なことだな。永遠は花壇を出た。スリッパはどこかへ飛んでいってしまったらしい、泥の感触が靴下越しに伝わってきた。体も泥だらけ、髪にも大量の泥が付着していて重たかった。ヘアゴムを取って梳くようにして泥を落としていく。体も怪我をしていないか確認する意味も込めて、同じように泥を払っていく。
触ってみて、体の右側が強く痛むことを知る。見た感じ出血は確認できない。全部終わったら、病院に直行だろう。まさかキョー都に来て二回も病院で検査を受けることになるとは。
渡り廊下を見上げる。窓枠に縁取られたラビと霊利の姿が見える。霊利のほうが余裕に見える。急がないと。
永遠は昇降口を目指して歩きはじめる。頭はだいぶ冷えた。体も自分の思ったように動く。代わりに人間離れした計算能力はない。こんな状態でラビの助けになるだろうか。そこまで考えて永遠は頭を振った。あれはわたしじゃない。わたしにもできることはある。いくつだってある。
「ちょっと君!」
昇降口への階段の前まで来ると、上から声を掛けられた。目を向けると、狐のお面を被った女が駆け下りてきていた。どこかの不忍だろう。
女は永遠のもとに駆け寄ると、体を支えてくれた。「さっき窓から落ちた子でしょ? なんで動いてん? 安静にせなあかんじゃんよ!」
女に支えられたまま階段を昇っていく。「わたしは大丈夫ですから……。それより、兎束家から配られたスプレー持ってますか? それから、できればゴム銃も」
「え、スプレーは持っとるけんが……銃はなかとよ」
「……」だいぶおかしな喋り方をする。「そうですか。じゃあスプレーだけでいいんで、頂けますか?」
「なんや? まさか戦いの場に戻る気け? だめさぁ!」女は永遠を止めたいようだったが、ここが階段ということもあってかその力は弱い。「あちきはおまんさんを救護するために外まで来たっちゃよ。そんなことさせへんでぇ!」
「救護の必要はないですから、ラビのところへ行かないと」
「おまんさん……」
「止めないでください。時間の無駄ですから」
「いんや! わてはもう止めんでぇ! あっつい友情感じたっちゃよ!」
女は腰のポーチからスプレー缶を取り出して、永遠に差し出してきた。正直言って彼女の行動を理解できない。ただ悪意はないようだ。永遠は少々戸惑いながらもスプレー缶を受け取った。
「……ありがとうございます」
「ええて、ええて。しっかりやってきい!」
永遠は女に背中を押されて昇降口をくぐった。振り返ると、女は親指を上げてその場に留まっていた。
「あの、一緒に来ないんですか?」
「行かんよ? だって救護班やもん、わて」
「そうなんですか……」
「そやで。ほら、行った行った。はよせんと、ウサギちゃん大変なことなっちゃうで」
不忍だからといって全員が戦闘員というわけではない。考えてみれば当然のことかもしれない。兎束家との関りのなかで、救護班の存在を意識したことはなかったが、思えば麝香組から救出されたとき、病院へ送ってくれた不忍がそうだったのかもしれない。
永遠は狐面の女に軽く会釈して、渡り廊下へ足を向けた。歩きだして少しして、水と泥を含んだ靴下を脱ぎ捨てた。霊利にどこまで有効かわからないが、水気混じりの足音は消せるだろう。
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