41:異質
なにが起きているのか。状況は理解できている。しかしわからない。なぜ自分にこんなことができるのか。
感覚としては、麝香組に拉致されたのちに急に冷静になったときに似ている。まるで自分が自分ではないような感覚。
ラビが壁を突き破るほどの勢いで殴られた。それを配信画面で見たのをきっかけに鼓動が早まった。体は熱いのに、血の気が引いてきて、指先が冷たくなっていた。霊利が避難者の女性を襲ったのがトリガーになった。
ラビが飛び出してすぐ、夏穂に促され避難者たちとともに体育館のなかにいた永遠だったが、いまはまた受付のある体育館の入り口前にいた。夏穂から借りたゴム銃を、渡り廊下に向けて構えている。
隣には徹が立っていて、神妙な面持ちでスマホの画面を永遠に向けている。永遠は麝香霊利の配信を横目で見ながら、ゴム銃を構える角度を調整する。跳弾によって霊利を狙う。
被弾させることはできなかったが、二度とも正確な計算だった。霊利が相手ではなかったら確実に当てることができていただろう。偶然ではない。次も正確に狙うことができる。そう思える。
つくづくありえないと思う。数多の状況や事象を読み解き、ゴム弾に及ぶ力学的影響を計算できれば、可能なことではある。しかしそれを頭で処理してしまうことなんて、人間のできることではない。自分を俯瞰して分析すると、恐ろしさの塊のように思えてくる。霊利の人間離れした変化を他人事だと思えなくなってくる。わたしになにが起きているのか。自分ではない自分は誰なのか。
巡る思考とは裏腹に、状況を冷静に把握している自分がいる。まだ配信に映っているラビの顔はカメラから離れていない。もう一発。ラビの援護をしなければ。
「人夢さんっ!」
横目で見ていた徹のスマホが視界から外れた。徹が慌てた様子で永遠のことを見つめていた。
「なに、徹くん」自分でも嫌になるような冷たい声を徹に放つ。「ラビを助けないといけないの。邪魔しないで」
「もう夏穂さんが着くよ」
「夏穂さんにだって助けがいる」
「でも、人夢さん、鼻血が……!」
言われて手の甲を鼻に押し当てる。離してみると、真っ赤だった。たしかに鼻血が出ている。しかしそれがどうだというのだろう。ラビや夏穂の援護をしない理由にはならない。
「徹くん、スマホを見せて」
「だめだ」徹はスマホを隠すように胸に押し当てる。「色々とおかしい状況じゃないか。なかに戻って休むべきだ」
「見せてくれないなら、わたしも向こうに行くだけ」
「そんなのもっと駄目に決まってる」
永遠は徹から目を逸らし、渡り廊下へと歩を進めた。「押し問答する気はないの」
「ちょっと人夢さん!」
肩を掴まれた。永遠は左手に握ったゴム銃を振り上げながら振り返った。驚愕する徹の顔が目に入った途端、我に返る。振り下ろしていた銃尻を慌てて止める。徹の頭を打つことはなかった。よかったと思う反面、どうしていいかわからなくなった。
「……ごめん」
この場にいるのが怖くなって、永遠は踵を返して駆け出した。呼び止める徹の声を聞いたが、振り返れない。渡り廊下の角をすぐに曲がった。
渡り廊下のほうから足音が聞こえて、ラビはゴム弾について考えるのをやめた。いまはあれこれ考えてる場合じゃない。
霊利を蹴り飛ばそうと、霊利との間に脚をねじ込む。その時、渡り廊下のほうから夏穂の声がした。足音の正体は夏穂だった。
「ラビ!」
夏穂はすぐそこまで来ていて、ついにラビの視界の端に入った。ラビは蹴り飛ばすのをやめにして、逆に霊利のスーツの襟を掴んで引き付けた。これで逃がさない。あとは手を放すタイミングだ。
霊利もさすがにどうしてラビがそんなことをするのか気が付いているらしい。ラビから離れようともがきはじめた。ついには殴りかかってきた。ラビは顔を逸らして拳を躱すが、さすがにすべてを避けきることはできない。数回、まともに顔を打たれて意識が飛びそうになる。
夏穂の接近を音で知る。それに合わせて、ラビはスーツを掴む手から力を抜いた。タイミングはばっちりだ。夏穂の強烈な蹴りが霊利の脇腹に刺さった。霊利はそのまま下の踊り場まで転げ落ちた。
「ラビっ……!」
夏穂に支えられるようにしてラビは立ち上がった。「ありがと、夏穂姉」
「いや……ごめん。注射のチャンスだったよね」
ラビは唇を鳴らす。やっぱり咄嗟のときは訓練を積んだ動きが出る。「確かに……」
「それよりさ、どこから撃ってたの、さっきの二発」
「あれは永遠ちゃん」
「永遠が? 銃の使い方なんて教えてたっけ?」
「ううん。ちょっと引くレベルで驚いたよ。まるで機械みたいだった」
「そっか……ノートのやつかな?」
「さあね。それより、ラビ。注射器は?」
ラビは手に持った針の折れた注射器を見せる。
「針が曲がっちゃって。蓮真兄のは向こうの教室でなくした」
「マジ? じゃあ失敗できないね」
夏穂が階段の下を睨む。ラビも目を向けると、怒りに震えた霊利が二人を見上げていた。
「次から次へと邪魔な奴らだな!」
「ウチらじゃ太刀打ちできないみたいに聞いてたけど」夏穂が鼻で笑った。「ウチらでも簡単に邪魔できるくらいにはただの人じゃん」
「ざけんなっ! くそアマがぁ!」
霊利がものすごいスピードで階段を駆け上がってくる。
「あーあ、いまどき女も男もないでしょ。しょーもな」
「ちょっと夏穂姉」さすがにラビは焦った。「怒らせたらなにするかわかんないよ」
「そお? ちゃんとウチらのこと標的にしてくれたじゃん。単純なやつ。ほかの誰にも手出しなんてさせないよ、いい、ラビ?」
ラビは思わず笑う。「わかった!」
夏穂はラビの返事を聞くと、行くよと後退りながら階段から離れた。ラビも夏穂に倣う。夏穂がやりたいことは手に取るようにわかる。夏穂が渡り廊下側に、ラビは昇降口側に、二手にわかれた。霊利の到着に備え、二人とも階段からの出口に向いて構える。これで霊利がどっちに攻撃を仕掛けてきても、挟み撃ちできる。
階段を昇り終えた霊利が出てきた。夏穂に狙いをつけたようだ。「まずはテメェからだ! 舐めたクチ聞けねえようにしてやる!」
夏穂はなにも言い返さない。鋭い表情で霊利との間合いを見定めている。どれだけ煽っても、実際は霊利を軽く見ていない。手を抜いて相手をできるとは思っていないのはラビだって同じだ。
夏穂の動きに合わせて援護する。その気でいたラビだったが、渡り廊下の先にわずかに意識を持っていかれた。足音を耳で捉えたそのすぐ後に、角を折れてきた永遠の姿を目で捉えた。
渡り廊下の角を折れると、こちらを向いていたラビと目が合った。歩みを緩めて、それから止まる。ラビの驚きに満ちた表情が、自身がこの場にいることの異質さを物語っていると永遠は思う。
徹を殴りそうになったのち、正気に戻ったように感じたのは束の間だった。徹の前から去るだけなら、体育館にひとり逃げ帰ることだってできた。それなのに永遠の足は、一瞬だけ戻った正気とは裏腹に、自然と戦闘の場へと向かった。
どこから湧き上がるのかわからない、自制の効かない闘争心や、麝香霊利を止めることへの執着心。そういった自分が自分ではないような感覚のなか、永遠が自身の感情として認識しているのは、そのことへの恐怖や不安だけだった。
霊利に目を向ける。霊利はいま、夏穂に殴りかかっている最中だった。さっき怒鳴り声が聞こえたが、かなり激昂しているようだ。
永遠は霊利を見据えながらゆっくりと足を進めた。走ってきたが息切れはなかった。体が異様に軽く感じる。きっと訓練の成果だけが理由ではない。まるで糸で操られている人形のように、外的要因によって動いている。そう感じる。
左手に持ったゴム銃を軽く持ち上げて、渡り廊下の左側の壁に向けて発砲した。それから間髪入れずに少し角度を変えて床に発砲。さらに天井や右側の壁にも発砲した。
体育館の前では感じなかったが、今回は鼻血が流れてくるのを感じる。構っていられない。ここでは麝香霊利を止めることだけが成すべきことだ。
霊利が動きを止めたのが見える。ゴム弾の初撃が躱された。なんの感情も湧かない。計算に狂いはない。次弾以降が絶え間なく霊利を襲った。ダメージはさほどないだろう。しかし身動きを封じるには充分だ。
「夏穂さん! 注射の準備を!」永遠は冷たい指示を飛ばす。「ラビ! スリーカウントで取り押さえて!」
「えっ!?……んっぱ! うん!」
ラビがワンテンポ遅れて構えた。夏穂も一度振り返って永遠の存在を認めてから、準備をはじめた。二人が戸惑いを見せるのも織り込み済みだ。予想ではない。ありえないが、本当に手に取るようになにが起こるのか予測できている。
物の仕組みが理解できる能力。いまわたしに起こっていることは、その延長線上にあるものなのだろうか。それにしても、解釈が拡大されすぎている。校舎という建造物が能力の範疇であることは、人工物である以上、いままでにはなかったことだが受け入れられないものではない。しかしいまの永遠の状況はそこに留まっていない。人の動きまで理解し、計算に組み込んでいる。いま永遠自身が戦闘中にもかかわらず、こうして思案していることも含めて。
永遠は意識を目の前の状況に引き戻す。本当に操られているみたいだ。口が動いて、冷たい号令が発せられる。
「3、2、1、いま!」
ゴム弾の雨が一斉に止む。それぞれが床で軽く弾む音を奏でるなか、ラビが霊利の腕を絡めとりながらうつ伏せに押し倒す。夏穂が霊利の首筋に注射する。霊利の鬼の症状が消える。それですべてが解決する。
「足りないな……え? あぁっ!!」
不意につぶやいた自分の声を聞いた。その瞬間、頭が焼けるように痛み出した。耐えきれなくなって、頭を抱えて床に転げる。視界が小刻みに揺れる。呼吸が苦しくなってきて、声も上げられない。
ここまでの苦痛はノートの能力を使ったときにも味わったことがない。幼いころ、円の病気の治療法を知ろうとしたとき以上だ。
「永遠っ!」
霞む視界のなか、声でラビがこちらに気を取られたのを知る。きっと夏穂も霊利へ向けていた意識が永遠の方に向いただろう。それでは駄目だ。わたしのことを気にすることは計算に入っていない。
霊利を止めることに集中してほしい。声を出そうとしたが、やはりだめだった。意識が保てない。思考がそこに至ったと同時に、視界は暗闇に囚われた。
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