40:死闘

 ラビの鼓膜を男性のうめき声が微弱に揺らす。間に合わなかった。ラビは走りながらジャージの上着のポケットに手を突っ込んだ。そこに注射器を入れてある。

 霊利に辿り着く寸前に取り出して、がむしゃらに霊利の左腕を目掛けて振りかぶった。

「邪魔すんなっ!」

 簡単に弾かれた。そのせいで注射器を手放してしまった。拾える暇はない。ラビは霊利のほうから聞こえる金属の擦れる音にすぐに注意を向けた。銃口がラビの脚に向けられている。

「先に脚だけ使えないようにしてやるよ! 誰も救えない絶望を味わいやがれっ!」

 発砲音が耳を突く。床が砕ける。ラビは発砲より早く、霊利の肩に手をついて跳び上がり、頭上を膝を抱え込んで飛び越えた。

 着地とともに反転。霊利もすでに反応していて、取っ組み合いになった。不忍装束の力を実感する。襦袢だけでは、簡単に跳ね除けられていたと思う。

 ラビは叫ぶ。「誰か! その人を安全な場所に! 止血して! それから、廊下に出てこないで!」

「人のこと心配してる余裕があるのかよ?」

 さすがに押し負ける。身長差も手伝って、ラビは膝をつかされる形になった。幸い銃口は外を向いているし、霊利の指は引き金にかかっていない。

「ここにいるの、あたしだけじゃ……ないし……」

「そうかよっ!」

 体がふわりと浮き上がった。霊利が体を捻り、後方へと投げ飛ばされた。廊下を滑る。体勢を立て直そうとしたが、なかなか止まれずに逆に体が何度も回転してしまう。

 ようやく止まれたのは、誰かに受け止められたからだった。見上げると兎のお面を軽く上にあげて、梓馬蓮真が顔を見せていた。渡り廊下の手前、階段の前。ちょうど二階に着いたところなのだろう。

「ラビ、平気か?」

「うん。蓮真兄、ありがとう」

 蓮真に支えられながら立ち上がる。霊利のほうを見る。かなり離されてしまっていた。すでにラビたちに背を向けて、逆方向へと進んでいた。

「二人でやるぞ、薬は持ってるな?」

「ごめん。カートリッジは一個あるけど、注射器がない。向こうに落ちてると思うけど」

「わかった。じゃあ俺が注射する。サポート頼んだ」

「うん」

 蓮真はゴム弾の入ったハンドガンを手にする。「まずは足止めだな」

 構えると、蓮真は警告なしに発砲した。しかし霊利はこっちを見ることなく、ゴム弾を躱してみせた。

「マジか。行くぞラビ!」

 ラビは蓮真とともに走り出した。霊利のもとへ辿り着く寸前で、ラビは姿勢を低くして、スライディングした。霊利の脚をすくうつもりだ。

 霊利が寸前で振り返り、銃をラビに向けた。ラビは臆せずそのまま霊利の脚に腕をかけた。霊利の指先が引き金を押し込みはじめるより早く、蓮真がうしろから発砲した。走りながらで狙いが定まりにくいはずなのに、さすがだとラビは思った。蓮真の放ったゴム弾は見事に霊利の銃の先端を打ち抜いた。銃口がラビから逸れて、銃弾が壁を打ち砕いた。

 どれだけ肉体が強かろうと、積んできた鍛錬はラビたちのほうが上だ。鬼になる前の霊利は、ただ銃をちらつかせて威張っているだけのチンピラだった。極道の本質である傭兵の気配は全く感じない。あたしたちが勝てないわけがない。

 ラビは腕に目一杯の力を込めて霊利の足を浮かせた。倒れていく霊利とは反対に、ラビはすぐに膝を立てて起き上がる。ここで抑え込んで、蓮真に薬を打ってもらう。

 霊利に覆いかぶさるように飛び掛かる。小路では最後には跳ね除けられたが、いまは永遠がくれた装束がある。これで終わりにする。

 すべてがゆっくりに見える。フードを被っているのに、視界がかなり広く感じられる。蓮真がすぐそばまで来て、注射の準備をしている。霊利の体が勢いで上向きに回転していく。そんな霊利がラビを睨んでくる。霊利の銃が宙を舞っている。ラビと霊利の間。

 銃に視界の多くを隠された瞬間、ラビの思考は一つに固定された。

 なんで銃が飛んでるの? 手放した音を聞き逃した。

 急に銃が顔面に迫ってきた。次の瞬間、ラビは鼻に強い衝撃を受けた。顔がのけぞる。それでも状況から目を離さない。

 ラビに当たって反射した銃を、霊利が腕を振ってさらに弾いた。狙いは蓮真だった。蓮真の驚きの吐息を聞いた。しかし蓮真は飛んできた銃をしっかりと避けた。

 霊利が無理な体勢のまま床に手をついて、無理やりに体を跳ね上げた。それはそのままラビへの体当たりになって、ラビは盛大に尻もちをついた。追撃をもらう覚悟をしたが、霊利はすでに床に足を着け、向きを変えて蓮真に殴りかかっていた。

 蓮真が注射器を手にしながら応戦する。防戦一方だ。ラビは加勢するために急いで立ち上がる。霊利の動きを邪魔するためにスーツの襟に手をかけた。引っ張ろうとしたら、霊利が体を回した。その勢いに体を持っていかれて、蓮真とぶつかった。今度は二人して床に倒れる。

 霊利がスーツの襟を正しながら、蓮真の握る注射器を見下ろした。「揃いも揃って、なんで注射器持ってやがる?」

「さあね?」蓮真が挑発するように鼻を鳴らした。「ない頭で考えてみたらどうだ?」

 霊利が膝を曲げて足を上げた。尖った靴の底を蓮真の顔に振り下ろす。苦悶の声とともに、蓮真のお面が飛ぶ。ただ、蓮真はただ怯んで終わりにはさせない。戻っていく霊利の脚を抱くように掴んだ。

「ラビ、注射!」

 霊利の脚に巻き付く蓮真の腕。霊利の抵抗に動き回る手先で、蓮真は注目を集めるように注射器を動かしていた。ラビはそれにすぐに気づいて、蓮真の手から注射器を受け取る。永遠から習った方法を思い返す。

「えっと、まず、空打ち……」

 注射器のおしりを押そうとしたところで、ラビは衣擦れの音が変わったことを察知した。暴れる霊利が出していた音がぴたりと止まった。次の瞬間、勢いのある音がした。顔を上げると、霊利の拳が蓮真の顔を打っていた。

「蓮真兄っ!」

 蓮真が張り倒された床に血が飛び散った。蓮真を見ると、頬から鼻にかけて血がついていた。顔は苦痛に歪んでいるが、意識は残っている。と、ラビの視界が遮られた。霊利の脚だ。そう判断した瞬間、ラビは腕を顔の前に構えた。

 強い衝撃を受けて床を転がる。最後には廊下の壁に後頭部を打つことになった。しかし、思ったより頭は痛まなかった。フードを被っていたおかげだろう。

「俺を殺す毒でも作ったか?」霊利がラビの方に向かってくる。「無駄なことだな。お前らじゃ俺に針を刺すなんて無理だろ」

 ラビは右手で注射器の準備をしながら、左手をジャージの上着のポケットに入れた。指先に薬のカートリッジが当たるが、いま取り出したいのはこれではない。

 目当てのものに手が触れた。向きを確認して準備を整える。背中を壁に預けながら立ち上がり、迫る霊利を見据える。

「なにをしようたって無駄だ。前に言ったろ、体中でちょっとした動きを感じられる」

「でも、なんでもかんでも対処できるわけじゃないじゃん。さっきも足払いできたし」

 霊利をじっくり引き付けて、ラビはついに左手をポケットから出した。すぐに霊利がラビの手首を掴み上げた。別に問題ない。ラビが手にしているのは、四季澱濃度の高い空気が入ったスプレー缶だ。指先が動けば目的は果たせる。

 ラビはスプレー缶から空気を噴出させた。勢いのある空気の抜ける音がして、すぐに霊利が表情を険しくした。

 少しがさついた声で霊利が怒鳴る。「ちくしょうがっ!」

「いった……い……」

 ラビの左手首を掴む霊利の手の力が強まった。骨まで潰されそうな力だった。ラビは痛みに耐えながら、右手に持った注射器で霊利の首元を狙った。しかし針が霊利の肌に届く前に、ラビの左手は解放され、霊利の拳がフード越しにラビの頬を打った。

「舐めた真似しやがってっ!」

 口の中に血の味が広がった。体が壁にぶつかったかと思ったら、衝撃は意外と弱かった。どうしてかは考えるより早く、視界に破片が飛び散っていることと、いろんな人の悲鳴でわかった。ラビの体は壁を突き破ったのだ。

 教室の床に落ち、コンクリート片や粉塵が降りかかるのを感じる。倒れてる場合じゃない。避難してきた人たちがいる場所で戦うわけにはいかない。

 立ち上がると、頭がくらくらする。とにかくここを離れないと。ラビは空いた穴の方へ向かいはじめた。

「みんな、心配しないで……絶対に外に出な――!」

 避難者たちに笑いかけていると、ラビの頭は危機感でいっぱいになった。思わず言葉が止まり、早足になる。穴から霊利の姿が見えない。まずい。逃げられた。急いで見つけないと。

 穴から廊下に出る。耳が気色の悪い水気を含んだ音を捉えた。音のほうを見ると、霊利がこちらに背を向けて、床に顔をつけていた。床にはさっき撃たれた男の人の血が溜まっていて、霊利はそれをすすっているようだった。

「ラビ」

 呼びかけてきたのは、廊下の反対側の壁にもたれかかった蓮真だった。息苦しそうな声だ。

「動けるなら、注射を……」

「うん……あ」

 蓮真に力強く頷いたがいいが、ラビは自分が注射器を持っていないことに気付く。

「あそこに……一本、ラビのだろ……?」

 ラビは蓮真が顎で小さく示した先を見た。霊利が血をすする横、廊下の端に注射器を見つけた。

「ほんとだっ!」

 すぐさま駆け出す。ラビが動いても、霊利は血に夢中になったままだ。このチャンスを逃すわけにはいかない。どうか、気付かないで。

 そんなラビの願いも束の間、霊利は床から顔を上げ、急に走り出した。覚束ない足取りから、まだ苦しんでいることはわかる。逃がすか。ラビもまだふらつくが、いま出せる全速力で追いかける。

 スピードを殺さないように注射器をすくい取ろうとしたが、足がもつれた。転びそうになるのをなんとかこらえて、注射器を手に再びスピードを上げていく。

 前方に女の人の悲鳴を聞いた。渡り廊下手前の階段から降りてきたんだろう、霊利に壁に押し付けられて、いまにも首を噛まれそうになっていた。

 間に合わない。ラビがそう思ったとき、渡り廊下の方から発砲音がした。少しだけ遅れて連続した短い音がした。なんだろう?

 霊利がわずかに振り返り、腕を振るった。なにかを弾いたようだ。いまは考えてる暇はない。生まれた時間を無駄にはできない。ラビは霊利を羽交い絞めにして、女の人から引きはがすように後ろに体重をかけた。

 霊利も万全じゃなかったおかげで、簡単に女の人を解放できた。「逃げてっ!」

 階段を慌てて登っていく女の人の背中を見送ると、意識を霊利に向ける。ラビの拘束から逃れようと暴れる霊利の呼吸は荒い。まだ回復できていない。

「くそがっ!……こうなったら、てめえでいいっ!」

 振り返ろうとする霊利。その抵抗に合わせて動かした足が、なにかを踏んだ。わずかに弾力を感じたあと、ラビの足は床の支えを失った。

 霊利の下敷きになるように転んだ。まずい。霊利が優位になった。霊利はすぐに反転して、馬乗りになってラビの頭を片手で床に押さえつけてきた。そのまま血に汚れた顔を近づけてくる。

「邪魔だなくそが!」

 ふと頭への押さえつけがなくなった。次の瞬間、ラビのフードが破り捨てられた。改めて近づいてくる霊利の顔。近づいてくるなら、好都合だと思った。ラビは横目で手に持った注射器を見た。

「あっ」

 思わず声が漏れた。注射器の針が折れ曲がっていた。転んだせいだ。拾い上げたときには折れてなかったのに。これでは注射できない。

「俺は血を飲めば治る。どのみちてめえらに勝ち目なんてねえんだよっ!」

 霊利がラビの首元目掛けて大きく口を開けた。そのとき、また渡り廊下のほうから発砲音がした。さっきと同じようにそのあとに続けて連続した短い音も一緒だ。直後、ラビから霊利の顔が離れた。なにかを避けた。そこまで思い至って、なにが飛んできたのかようやくわかった。

 ゴム弾だ。発砲音は兎束家のゴム銃のものだった。

 でも、見える範囲には誰もいない。渡り廊下の向こう、体育館の前には夏穂がいるだろうが、あそこからじゃこの場所は見えないし、ゴム弾が届くはずない。わけがわからない。

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