38:避難

「本日午前二時ごろ、フシミ区の資材置き場で火災が発生しました。現場は建設会社が所有する資材置き場で、プレハブ小屋一棟が全焼、置かれていた資材にも燃え広がり、三時間後に消火されました。出火当時、従業員はおらず、死傷者は確認されていません。休憩所として使われているプレハブ小屋が出火元とも見て、警察などが火事の詳しい原因を調べています」

 第二段階の『治療』開始翌日の朝、施設に来てからはじめて外の情報を得た。朝食を施設の食堂でとることになったからだ。天井から吊るされた大型テレビには朝のニュース番組が映されている。

 未だにほかの施設利用者と会話をすることはできなかった。長いテーブル、雪那の周りは対面の席を除いて空席。ほかの利用者は雪那たちからかなり距離を置いて食事をしている。

 大学の食堂のように、家族や友人でもない人に囲まれながらともに食事をするというのは、そもそも不得手であるため、私的空間に近いこの状況はありがたいものになるはずだった。しかしどうにも落ち着かない。その理由は明らかだ。ほかの利用者たちが遠目にこちらを見ている。

 特別な待遇を受けている自身に向けられた好奇の目、雪那は当初そう思っていたが、どうやら違うようだ。視線の原因は、雪那の目の前でカツ丼を頬張る男にあるようだった。

 白衣を隣の席の背にかけて、アロハシャツ一枚になったことで目立っているわけではない。彼がこの場所に現れること自体に、周囲の利用者は驚きと羨望の眼差しを向けているのだ。

「狐塚くんは有名人なのかな?」

 白衣の彼は、今朝雪那のもとを訪ねてくると狐塚面白と名乗った。

「あなたに比べたら、路傍の石ですよ。雪那博士」

「えっと、どうして急に、一緒の朝食を? それに名前も。秘密が多いから名乗らなかったんだと思っていたんだけど」

「さっきも言ったじゃないですか、ただ忘れてただけって。タイミングがなかったんですよ。あ、朝ご飯をご一緒してる理由でしたっけ?」

 狐塚は言葉を止めてカツを口に運ぶ。それを飲み下してから再び口を開く。

「手紙を書いてもらおうと思って。その打診のためです」

「手紙?」

「ええ、あなたの娘さんに宛てたものを。もちろん、自由にとはいきませんが。無事を伝えつつ、無用な詮索はしないようにとね」

 それは雪那にとって、願ってもない提案だった。昨夜、まさに永遠に無事を伝えられないか相談したいと考えていたところだったのだから。ただ、狐塚の言葉には妙な引っ掛かりがある。

 永遠にくぎを刺すようなものを望まれている。

「実は無事を伝えられないか、改めて相談しようと思っていたんだけど。永遠が僕を捜すのをやめてほしいということなのかな?」

「普通に捜すぶんには構わないんですけどね。彼女は優秀すぎる。踏み込んではいけない領域を侵す前に、護ってあげるべきでしょう?」

「もし侵してしまったら、永遠はどうなるか聞いてもいいのかな?」

「悪意がないことは確認済みですから、我々と共に行動することになる、と言いたいんですけどね。最悪、消されますね。雪那博士、あなたが例外なだけで、部外者が我々とともに歩むことがそう何度も許されるはずないんですよ」

 穏やかな口調に反して、雪那の目を見つめる狐塚の目は鋭く刺すようだった。永遠に対する処遇に加えて、禁忌を犯した雪那への叱責の皮肉でもあるのだろう。自分のことを低く評価されようと割り切れるが、永遠に関しては引き下がれない。彼女に危険が及ぶことは許さない。

「なんの権利があって、君たちは――」

 狐塚が人差し指を立てて雪那を制した。

「それ以上はあなたも例外じゃないですよ。ここにいることを許されているからといって、こちらがすべてを語ると思わないことです」

 狐塚は立てた指を雪那の食べている生姜焼き定食に向けた。

「さ、まだ残ってます。朝ご飯は大事ですよ。雪那博士」

 またどんぶりに箸を差し込む狐塚。口いっぱいにカツと米を放り込んで咀嚼する。すべてを呑み込む前に、口元を隠しながらしゃべり出す。

「俺も脅したいわけじゃないんです。本当に、人夢さんを護りたいと思ってますから。我々に関わることがなければ、人類に許容された進歩をもたらす存在のままでいられる。彼女は若さのわりに科学者としての心がしっかりしていますからね。あなたの教えが良かったんですね」

「……その皮肉はきくね」

 永遠に無事を伝えられるだけでも感謝するべきか。雪那は狐塚に愛想笑いを返し、食事を再開した。


「――続いては台風情報です」

 兎束家の居間、永遠はテレビをじっと見つめたまま、息を飲んだ。ついさっきまで、資材置き場の火災が報じられていた。時間としては五分にも満たなかった。 

 キャスターが発信する台風情報が、淡々と耳に流れ込んでくる。

「太平洋上を進む台風は、お昼ごろにチューブ地方への上陸が予想されます」

 狐塚が言ったように、死傷者ゼロと伝えられた。これが世の中の本当の姿なのか。公になる情報が、あっさりと捻じ曲げられる。

「カンサイ地方ではすでに雨が降っていて、次第に強くなるでしょう」

 それとも極道と関わる事柄という、きわめて特殊なケースだからなのだろうか。

「警報が出ている地域では、高齢者等の避難がすでにはじまっています。お住まいの地域の避難情報を確認してください」

 不忍の活躍を伝えるニュースのなかには、極道の話題が付随していることもある。ただ永遠の記憶では、極道という言葉をニュースで聞くのはそういったときのみだった。不忍の関わっていない事件の報道では耳にしたことがない。

 いままで見聞きしてきた事件や事故のなかに、実は極道と関連するものもあったのかもしれない。今回のように捻じ曲げられていただけで。

 永遠は座卓に向かうラビを見る。

「ねえ、ラビ。極道が関わった事件って、ニュースでどこまで伝えられるものなの?」

「え?……ちょっと待って、ねえ、永遠、全然うまくいかないよ」

 ラビは太めのボールペンのような器具を難しい顔で弄っている。まさにボールペンのように末端にノックできる部分があるその器具は、麝香霊利を元の状態に戻すための薬を打ち出す注射器だ。カートリッジ式で、いまはそのなかにただの水が入っていて、ラビが注射の打ち方を練習しているところだった。

 座卓のうえには人間の肌を模したシリコンが置かれている。さっき永遠がそれに対して、説明しながら実践してみせたのだが、ラビはどうにもうまくできないらしい。

「永遠、もう一回教えて」

 質問したのは自分ほうだが、ラビにはしっかり注射器を使えるようになってもらわないといけない。ラビのほかに薬の入ったカートリッジと注射器を携帯しているのは蓮真と夏穂だけ。二人への信頼がないわけではないが、やはり不忍装束を着ているラビが麝香霊利と戦うのが一番安全だ。

 麝香霊利の情報は各不忍家に伝わっているが、薬についての詳細を知るのは善治とラビを除けば、兎束家でも永遠と関わりのある蓮真と夏穂だけ。ラビと二人がそれぞれが二本ずつ薬のカートリッジを持つことになった。

「そんなに難しいことじゃないと思うんだけど……」

 永遠は座卓ににじり寄り、ラビから注射器を受け取る。シリコンに針を刺す前に、軽くノック部分を押し込み空打ちする。そのまま親指を添え、注射器を握った手をシリコンに突き立てた。すぐにノック部分を押し込む。シリンダーが水を押し出していく。

「針を抜くまではちゃんと押したままににしておいてね」

 言いながら、水をすべて出し切ったのを確認して、ノック部分から手を離さないまま針を引き抜く。

 注射器からカートリッジを外して、水の入った新しいものに交換して、ラビに手渡す。

「はい、やってみて」

 頷いて注射器を受け取ったラビは、永遠がやったように空打ちをし、注射器をシリコンに向かって振り下ろす。針が刺さる寸前でその動きが止まる。かと思うと、ラビは恐る恐るといった感じで、注射器をシリコンにあてがった。針はシリコンをへこませて入るが、刺さっていない。

 ニュースを見ていてラビの練習を見ていなかったが、永遠は確信した。問題は器具の扱い方ではないようだ。

「ラビ、注射嫌い?」

「そんなことないよ? どうして?」

「だって、明らかに恐がってるから」

「え? あたしが?……ほんとに?」

「うん」

「えー、そんなつもりないのに……」

「無意識に傷つけるのを恐がってるのかも」

「そうなのかな?……でも、でも、相手は麝香霊利、極道だよ? いまさら、あたし、傷つけることが恐いってあるの?」

「ラビって、武器使わないよね。だからって言いきれないけど、道具を使って人を傷つけることに抵抗があるんじゃない?」

「うーん……」ラビは唸りながら自身のジャージをつまむ。「でも大きく見れば、不忍襦袢と装束も道具だよ?」

「認識の問題だね。普段は道具だと思ってないでしょ? いまは悩んで考えた末に襦袢と装束を道具の括りに入れた。注射器を使わなきゃいけないって、無意識に焦ってるんだよ、ラビ」

「そうなのかな?」

「無理はしなくて大丈夫。ラビが一番可能性があるっていっても、それをプレッシャーに思うことはないよ」

 ノートの力を使って生み出された薬だ。大量に作ることは好ましくない。最低限の数ですべてを終わりにしたい。だからラビがいざというときに薬を打ち損じてしまえば、麝香霊利を治す可能性は大きく下がることになる。

 しかしその状況がラビの精神的不安につながってしまうのなら、方法を変えるべきだろう。

「もし注射が無理そうなら、麝香霊示を制圧するだけでもいいんだよ、ラビ。その間に二人のどちっかが注射を打てば問題ない。わたしだって近くにいれば注射できるし」

「それじゃあ、みんなが危ないじゃん」

 永遠はラビの着ている不忍装束の肩の部分を指先でつつく。「そうならないために、これを着てるんでしょ?」

 ラビは難しい顔で口を結んで、唸るようにん-と音を出し続ける。しばらく待つと、彼女の唇が軽快な音を弾いた。

「うん! でも、練習はするよ!」

「うん、いい心がけだね。で、わたしの話なんだけど――」

 永遠が話題を極道のニュースに変えようとしたところで、廊下から善治が顔を覗かせた。

「ラビ。各不忍家に避難活動協力要請が出た。ラビは避難所になってる戯画きかく高校で、受け入れの手伝いをしてくれ。永遠ちゃんも、ここは避難の対象じゃないが、ラビと一緒に高校に」

「わかりました。いま準備します」

 永遠は立ち上がる。ニュースに関してはまたあとにしよう。ラビとともにラビの自室に向かう。

 ラビがリュックサックに着替えや兎の面を入れていくのを横目に、永遠はキョー都を訪れるにあたって持ってきたものを、キャリーケースに詰めていく。大して時間はかからない。そもそも最低限の荷物しか持参していないし、大抵のものは使うときに取り出すようにしていた。

 荷物を詰め終えると、永遠はシャツとジーンズを一度脱いで下着姿になった。ラビが不思議そうに声を掛けてきた。

「どうしたの、永遠?」

 永遠は四季澱繊維のアンダーウェアをラビに示す。発表会の時に着用していたものだ。

「避難所の手伝いだと力仕事もあるかもしれないでしょ。だから着ていこうと思って」

「そっか。でもさ、そういえばなんだけどさ、なんで永遠はいつも着てなかったの? 護身術の勉強のときとか」

 永遠は着替えながら答える。「わたしはずっとキョー都にいるわけじゃないから。アンダーウェアの補助なしでも動けないと、学ぶ意味がないじゃない」

「あー、そっかそっか、なるほど……。でも、トーキョーでも使えるやつ作るんでしょ?」

「そのうちはね」シャツとジーンズを改めて着て、髪もヘアゴムでまとめ上げた。普段使いのリュックを背負う。キャリーケースを手に廊下へと向かう。「行こう、ラビ」

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