37:飄々

「それじゃあ、また改めて聴取をさせてもらうかもしれませんが、そのときはよろしくお願いします」

 ガタイのいい七三分けの男性刑事が、ゆっくりとした足取りで兎束家の門からのびる階段を降りていく。永遠はラビと、帰ってきた善治とともに見送る。あまりにのっそりとしていて、永遠は思わずラビに聞く。

「あの刑事さん、足を怪我してるのかな?」

 ラビが笑う。「ううん、あの人はいつもああだよ」

「……そうなんだ」

 階段下には覆面パトカーが一台、刑事を待っている。すでにほかの警察車両は出発している。侵入者の男は洗井孝通たかみちといって、鹿威会の幹部だった。暴れる様子もなく移送車に乗り込んでいくのを見ながら、永遠はやはり鹿威会だったかと思った。

 能呂にノートを盗み取られてすぐに、研究の申し出をしてくる極道。そうではないかと予想していたが、まさにだった。

 善治とラビにはノートの盗難のことは話していなかった。狐塚から聞いた話を含んでいたために、明かしていいものかと伏せていたが、この状況では話さないわけにはいかないだろう。しかし永遠にはなにが狐塚にとっての機密事項なのかがわからない。

 しばらくして車のドアが閉まる音がした。七三分けの刑事が助手席に収まっているのが見えた。刑事の動きと打って変わって、車は時間を要することなく出発し去っていった。

 善治の唸るような声を上げた。「まさか鹿威会の幹部が直々に動くとはな」

「ねえお父さん、本当にあの人って鹿威会だったの? 麝香組じゃなくて?」

「ラビ、さすがにそこまで情報は伏せてないぞ。トシと永遠ちゃんを救出したあとにもっと上の関与の可能性は話しただろ」

「あー、そうだった? でも、そっか。どーりで麝香霊利のこと馬鹿にしてたわけだ。それに強いわけだよね。納得!」

「ラビ、不忍の仕事云々言うんだったらな、もっと情報を頭に入れておく努力をしなさい。正確な情報を持っているのといないのとでは、結果が変わってくる場合だってあるんだぞ」

「それはごめんなさいだけど、でもさ、今回はそうじゃなかったでしょ? 別に相手がどこの誰でも、不法侵入の極道を退治した」

「結果論だ。鹿威会の洗井はかなり武芸に秀でてる。母さんでも苦戦するほどだった」

「でも、あの人お母さんには勝ったことないって」

「母さんでも捕まえるところまでいっていないとみるべきだ。母さんは兎束家の戦い方を体現する人だった。ラビも動画で見てるからわかるだろ?」

「わかるけど、あたしだってお母さんと同じくらい動けてるよ。だからあの人にも勝てたんじゃん」

「別に不忍襦袢や新しく作った装束を貶めるつもりはないけどな、母さんのときはどっちもなかった」

「わかってるよ、それだって。でもさ、あたしだって、ちゃんと自分の力だってつけてるじゃん」

「もちろん俺もそれは理解してるさ。お前の努力とそれに伴った成長は親心をなしにしても、頼もしくうれしいものだ。しかしだな――」

「あの」永遠は横で繰り広げられる兎束親子の会話に割って入った。「善治さん、狐塚さんを呼ぶことってできますか?」

 自分だけでは判断がつかない。狐塚本人に来てもらえるのなら、それが一番話が早い。


 ワンボックスカーの後部座席、洗井は手錠をかけられ、両脇を警官に挟まれながら揺れる。容疑者の逮捕、移送のニュースでよく見る図のなかに自分が収まるとは思わなかった。ただし、洗井はまだフラッシュは浴びていない。報道陣が兎束家に押し掛けることはなかった。そこまで情報がいっていないのか、それとも留置場の前で待機しているのか。

 どうでもいい。考えたところで、洗井の運命は決まっている。

 人夢永遠を求め兎束家に向かうことは、その理由も含めて灰熊に報告してある。状況を把握するために、遠くから見ている者を用意するのが鹿威会のやり方だ。洗井の行動にも例外なくついている。すでにこの状況は伝えられているだろう。

 この失態は許されるものではない。最後通牒一歩手前であったが、一気に限度を超えた。せめて粛清される前に、知り得た情報だけは灰熊に伝えたい。最後まで役に立って幕を下ろしたい。洗井の望みはそれだけだった。

 車が大きく縦に揺れた。直後、洗井は浮遊感のなかにいた。なにもかもがスローモーションに見える。体が傾きはじめ、車が横転していることを知る。衝撃を受け、側頭部を強かに打った。

 意識を失うことはなかった。両隣の警官も気を失ってはいないようだったが、声にならない声を漏らして朦朧としている。鍛え方が足りない。不忍に頼り切ったキョー都の警察らしい。

 洗井は自らシートベルトを外し、体勢を整えると、倒れて天井となったドアを押し開けた。警官を足場に車外に出る。車体の側面に立ち、周囲を見渡す。寂しく一本だけ立った街灯と熱を持った光が照らすのは、畑に隣接した舗装された道。

 熱の正体は、移送車の前後についていたパトカーだった。ごうごうと燃え上がっている。爆撃されたか。

 道にはもう一台、車があった。無傷の外車。見慣れた灰熊の私用車だ。洗井は驚きを禁じ得なかった。まさか灰熊自ら粛清に来たのか。

 外車の後部のドアが開き、巨体が姿を見せる。

 洗井は頭を下げた。「お頭……甘んじて受け入れます」

「当然のことだね」

 頭を下げたまま洗井は告げる。

「ですがその前に、兎束ラビから得た情報をお伝えさせていただきます」

「挽回はできないよ」

「もちろん、望んでいません」

 視界に洗井の足を掴もうとする警官の手が見えた。洗井はその手を蹴り、車体から降りる。灰熊の前に出向き、膝をつく。

「不忍は若返りの薬を完成させた人夢永遠の開発した衣服を着ています。相対して受けた印象ですが、鬼と化した麝香のガキには及ばないまでも、戦力アップとしては充分。並の極道では力負けするでしょう」

「お前は並か? 洗井、お前の実力をもってしても制圧されるんだな?」

「恥ずかしながら……」

「なるほどね。報告はそれだけかな?」

「はい」

「じゃあ、これでお別れだ。……そう、普段であればね」

 洗井は不思議に思って顔を上げ、灰熊の真意を問うべく視線を合わせる。

「資材置き場の地下研究所で火事が起きた。全焼だ。設備の損失も大きいが、それ以上に、詰めていた多くの兵が失われた。有能な兵はいなかった。いればこうはならなかったろうからね。だとしても、これはかなりの痛手だよ、洗井」

 あの地下研究所の監督者は洗井だ。つまりそこで起こった損失は洗井の責任。まさか最後の最後に失態を重ねてしまうとは。

「それもまた」洗井は再び頭を下げた。「監督すべき俺の失態ですね」

「そうだ。だがいま言ったようにね、今回はこれでお別れにはならないよ、洗井」

「しかしお頭、それでは多くの組員に示しがつきません。お頭の粛清は誰であろうと公平に行われるべきです。なぜ、俺は生かされるんですか」

「まだ生きると決まったわけではないよ」灰熊が踵を返し、外車へと向かいだす。「とりあえず、ここを離れようか」

 呆気にとられる洗井の脇を、一本の筒がまっすぐ移送車の方へ転がりすぎていった。移送車にこつんとぶつかって止まった。次の瞬間、筒は眩い火炎を吹き上げた。

 眩い光と熱にはっとする。洗井は改めて灰熊の方を見た。すでに後部座席に収まり、開けた窓から洗井に目を向けていた。

「洗井、早く乗りなさい」

 その声に怒りはないように思える。今回に限っては灰熊の考えが全くわからなかった。どういう意図で粛清を決めた洗井を同乗させるのか。なにを求められているのか。

 考えてもわかるものではない。ただお頭のためになるのなら、なんでも受け入れよう。洗井は灰熊に言われたまま、彼の外車へと足を向けた。


 永遠の申し出は受け入れられ、善治はすぐに狐塚に連絡をしてくれた。

 永遠はラビとともに、土足で上がって汚してしまった箇所を掃除して狐塚の到着を待った。狐塚は三十分もしないうちに兎束家の戸を叩いた。永遠はひとり玄関に出向いた。

「狐塚さん。すいません。こんな時間に」

「気にしないで、俺の仕事のこと気にかけてくれて、むしろ感謝してるよ。それに俺も人夢さんに話すことがあるから」

「えっと、もしかしてノートの件ですか?」

「さすが、ご名答。明日の朝にはニュースにもなると思うんだけど、ニュースでは出ない情報もあるから、それを」

「ニュース? そんな大事になることが?」

「火事になったんだ。鹿威会の研究施設が。俺が連絡した不忍たちが作戦を整えて向かうちょっと前に。それで、ノートなんだけど、燃えちゃったって連絡が」

 そんなことはどうでもいい。永遠はそう思って首を横に振って狐塚に問いかける。

「ノートはいいです。もう頭に入ってますから。それより、能呂教授はっ?」

 狐塚が小さく目を伏せた。コミュニケーションがいくら苦手であっても、それが答えなことくらい永遠にもわかる。能呂は亡くなった。

「これはニュースには出ないことだから、心の内だけに留めてほしい。現場が現場だけに、今回の火事での死者はいなかったことになる」

 その言葉の意味は理解できる。極道との関係が世に出ないようにするのは、当人たちの関係者への配慮なのだろう。

「能呂教授は世間では行方不明者ってことになる」

 単純に受け入れて終わりの話ではない。狐塚が続けた言葉に、永遠は明確に恐ろしさを覚えた。

 公に死を悼むことができないことにではない。いまは行方不明者となっていても、時が経てば失踪宣告され、法律上の死亡となる。雪那の失踪に直面し調べたことで記憶に新しい知識だった。

 いまはずれが生じていても、時が経てば真実と事象が重なり合う。そのようなことは世の中でも往々にして起こり得ることだろう。しかし今回の場合は少し毛色が違う。

 事実が故意に捻じ曲げられた。

 狐塚がどこまで関与しているかは定かではない。ただ彼はすでにニュースになるか否かまで把握している。全く関与がないとは考えられない。彼の背後に、社会に対して大きな影響を持つ存在が見え隠れしている。

 科学者、不忍の情報屋、探偵。それだけなのか。永遠には狐塚という男が計り知れなくなっていた。

 きっと答えが返ってくるわけがないと思いながら、狐塚に確認したいことが永遠の口をついて出た。本当はその情報を持っているのではないかと。

「博士は、行方不明者ですか?」

 永遠の問いかけに、狐塚の視線が鋭くなって見返してきたように思える。ただそれも一瞬で、狐塚は上がり框に腰掛けて靴を脱ぎはじめた。

「僕からの話は終わったし、早くなかに入ろう」

 靴を脱ぎ終え立ち上がった狐塚が、永遠の耳元に顔を寄せてきて囁く。

「深入りはよしなさいな」

 恐怖を煽るというより、諭すような大人びた声だった。狐塚はそれだけ言うと、廊下を進みはじめた。

 永遠は振り返り、狐塚の背を見送る。追って問いただすことが許されるのならそうしたい。さっきの声といい、醸し出す空気感が、それをすべきではないと言外に語っている。こちらを慮るような優しい拒絶だった。

「ほら、人夢さん」

 狐塚からの何事もなかったような呼びかけ。永遠は強張りを自覚しながら返事を返した。

「いま、行きます」

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