36:誘い

 十亀家の居間、ラビは掘り炬燵におさまり水晶鍋を見つめる。前回は空だったが、いま目の前にある鍋にはたくさんの具材が入っていて、ぐつぐつと小刻みに揺れていた。音も匂いもおいしい。

 さっきまで永遠と徹の専門的な話をたくさん聞いていた。そろそろ耳がつまらないと思っていたところに、徹の母みどりから夕飯の誘いがあった。今日は善治がほかの不忍家との会議で家にいないのもあって、そもそも善治が頼んでいたそうだ。

 みどりが永遠ににこやかに言う。「遠慮しないで食べてね」

「はい。いただきます」

 隣でぎこちなくはにかむ永遠を見て、ラビは微笑ましく思う。みどりとは何度か顔を合わせていることもあってか、兎束家に来た当初のようなクールな雰囲気はない。それでもさっきまで徹と不忍装束のことで盛り上がっていたとは思えないよそよそしさだ。

 永遠がこっちを見て、目が合った。

「なに、ラビ……」

「ううん、なんでも」

「うそ、なんか笑ってた」

「そっかなぁ? 笑ってたならいいじゃん。ね、トールパパ」

 ラビと永遠の左側の面に座る徹の父、友陣ゆうじんに話を振る。永遠へのちょっとしたいいたずらだ。

「む?」友陣が表情を変えずにぽつりとつぶやく。「そうだな」

 ラビは間髪入れずに突っ込んだ。「いや、どの顔が言ってんの!」

 どうしようか悩んでいるのか、永遠は困った顔で徹やみどりに目を向けている。ただ、二人も食事の準備を続けながら笑っている。それが永遠を余計に困らせている。科学の話をしているときからは想像もできないあたふた具合。

「永遠、これも修行だよ? ほら、夏穂姉に最初に言われたでしょ、心の壁の、なんたらってやつ」

「心の壁の触り心地。さすがにラビのレベルでやられたら、厳しいから。わたしはわたしのやり方でちょっとずつやってくからさ」

「うふふ」みどりが楽しそうに笑う。「娘が増えたみたいで嬉しいわ」

「増えた?」友陣が眉をひそめた。「母さん、いつの間にうちに娘が? まさか別の男と……」

「いやね、あなた。ラビちゃんがいるじゃない。そこに永遠ちゃん。だから増えた。できたじゃなくてね」

「ああ、そうか」友禅が小さく頷く。かと思ったらみどりのことをガッと見た。それからラビと徹にかわるがわる視線を向ける。「二人は結婚してたのか! いつの間に!」

「なにいってるのよ、してないでしょ? 結婚式に参加した記憶、ある?」

「うむ。ないな」

「でしょ! あくまでもラビちゃんを娘のように思ってるって話よ、あなたったら、もお」みどりが徹に視線を送る。「あ、でも、どうかしら。ねぇ、徹」

「はぁ」徹がため息を零す。「人夢さん、全部、真面目そうに言ってる父さんも含めて、こういうボケだから、困らせてごめんね」

「はぁ……」

 徹がフォローしても永遠はぎこちない笑みを返すだけだった。


 善治はまだ留守にしている。護身術教室も終わっている時間。兎束家は庭の照明以外灯っていない。

 ラビは永遠とともに門を抜け、飛び石を玄関へと向かっていく。

「遅くなっちゃったね」玄関の前まで来ると永遠が言う。「ごめん、ラビ」

「いいよ、いいよ。次の不忍装束のためだもん。それにお父さんも帰ってきてないし、セーフセーフ」

 ラビは鍵を取り出し、引き戸の鍵穴に差し込む。そこで動きを止めた。鍵を差し込んだ時の音がいつもと違う気がした。いつもはないざらつきが雑音として混じっている感じだ。

「どうし――」永遠が不思議そうにラビの手元を覗き込んだかと思うと、眉をひそめた。「錠の中のピンが少し曲がってるみたい」

「永遠が言うなら、なんか音が変だと思ったの勘違いじゃないね。どうしたらこうなるかわかる?」

「無理な力が加わったとみるべき。空き巣とかが考えられるけど、ここが兎束家だっていうのにわざわざ入る? 極道かもしれない」

「永遠はここで待ってて」

「いや、一緒に行くよ。いまはわたしだって、自己防衛くらいはできるし。もし危ないって思ったらすぐに離れるから」

「わかった」ラビは頷いて鍵を回した。「いくよ?」

 永遠が無言で頷いたのを見て、ラビは引き戸を開ける。引き戸の立てる音が止むと、静寂が訪れる。異音を聞き逃さないように、意識を耳に向ける。

 ラビは永遠に向けて囁く。「靴は脱がないで、それから白衣も脱いでおいて。あと荷物は玄関に置いてこう。えっとスマホだけズボンのポケットかに入れといて」

 理由を話さなくても永遠はラビの指示にすぐに従ってくれた。なにが起こるかわからない。侵入者がいて襲ってきて外に逃げるとなったとき、いちいち靴を履き直す時間はない。白衣のような裾が長い服も機敏な動きの妨げになる。荷物も同じ理由だ。

 白衣をやバッグを身につけたまま、掴まれたときに脱ぎ捨てたりすることで逃れることもできるが、いまはそれを説明している場合じゃない。

 永遠が準備を整えている間も家の中に注意を向けていたが、いまのところ際立って変な音はしない。玄関に足を踏み入れる。土足のまま板間にあがる。靴底の砂が擦れてぱちぱちと音が鳴る。

 永遠も玄関に入ってきて、バッグと白衣をすぐわきに置いた。そのまま永遠が後ろに続くのを感じながら、ラビは廊下の角や部屋の入り口に注意を向けながら進む。それぞれの部屋の前まで来ると、警戒のまま戸を開けて中を確認した。居間、台所、客間、ラビや善治の自室も異常がなかった。物音はラビと永遠の足音と衣擦れ、それから耳慣れた家電の駆動音くらいだった。

 残るは浴室と洗面所、それから仏間。いや、誰かいるとしても、部屋に潜んでいるとは限らない。廊下の通っていない場所もあるし、縁側だってそうだ。

 仏間の前で止まる。永遠に目配せをしてから、ラビが戸に手をかけようとしたとき、中から声がした。

「だいぶ時間をかけて入ってきたな。わざと音を立てれば時短になったか?」

 声の主は戸から離れた場所にいる。音でそう判断したラビは、静かに戸を開けて仏間に入った。永遠は入らずに立ち止まったままだ。

 頭の上の髪を後ろに流したスーツ姿の男が、母コニーの仏壇の前に立って遺影をみつめていた。名前は知らないが、会ったことがある男だ。前回はボディアーマーとヘルメットで傭兵ぽかったが、スーツのいまは多くの人が想像する極道っぽさが増している。

「あの日、屋上で戦った人だよね? やっぱりあたしを殺しに来たの?」

「あのときも言っただろ」男がラビに目を向けた。「意味のない殺しはお頭の理念に背くと」

「じゃあなにしにきたの? てか、麝香霊利はあたしたちを殺したがってたけど? やっぱり若頭を馬鹿にしてるの?」

「まだ勘違いしてんだな、母親はもっと頭の回る不忍だったぞ。いろいろ教わる前に死んじまったからしょうがねえか。たしか次の八月で十年だったか、あの爆発事故から」

「なにか関係あるの?」

「事故には関係ねえよ」男はまたコニーの遺影を見た。「ただ、俺はお前の母親に勝つ機会を失っちまったてだけだ」

 小さく鼻を鳴らした男が、ラビではなく永遠のほうを見た。

「世間話は終わりだ。人夢永遠、俺と一緒に来てくれるか? お前に研究してほしいことがある」

「……」永遠が喉を鳴らしてから答える。「受け入れると思ってますか?」

「もっともだな。脅さなくてもいいなら、脅さずに協力させたいんだけどな」

「破綻した理論ですね」普段の永遠の声じゃない。ちょとだけ震えている。「それが脅しだってわかってないんですか?」

「挑発的だな。麝香のガキにもそうしてたのなら、たしかに手が出てもおかしくねえ」

「あなたもそんな結果にならなきゃいいですけど」

 男が挑発的と受け取った永遠の言葉たちは全部強がりだ。極道を前に平常心でいられる人は少ない。それに永遠の場合は一度極道から被害を受けたことがあるぶん、想像ではない実際の怖さを知っている。平静を装って変な力が入ってしまうのも無理はない。

 思い返すと、小路で霊利に襲われたときも、意識して強がった発言をしていたように思える。平気そうにしていても、永遠のなかには悪人に対しての恐怖がしっかりと根を張っている。

 ラビは永遠に向く男の視線を遮るように、永遠の前に割って入った。

「ほら、永遠は断ってるよ。帰ってよ」

「兎束ラビ。言っただろ、脅さなくてもいいなら、脅さずに協力させるって。裏を返せば、脅さなきゃならねえなら脅して協力させるってことだろ」

 男がファイティングポーズをとった。

「お前を痛めつけるのが効果的とみていいか?」

 ラビはジャージのフードを被って、永遠を振り返る。永遠の恐怖を少しでも取り除く方法をラビは知っている。

「不忍装束実戦実験? 名前はわかんないけど、ちゃんと観察してて、永遠」

「……う、うん」

 永遠の返事に笑顔を返し、ラビは男に対峙する。

「リボンを隠したくらいで勝率が上がるとは思えないが?」

「えーっと……」ラビは唇を鳴らす。「そう! 勝率は上がらないよ。だって最初から100%だもん!」

「どの口がほざいてるっ」

 男が素早いステップで間合いを詰めてきた。ボディアーマーを着こんでいても支障なく動いていたが、スーツのいまはより身軽になっているぶん戦いのテンポは速くなっている。

 右の革靴の底が顔向かって飛んできた。ラビは上体を反らして左に躱し、右膝を曲げながら胸に引き付けた。それから軽く跳ぶようにしながら膝を伸ばし、男の頭へ足の甲を放つ。

 ラビの攻撃に男がよろけて、壁に手をついた。驚いた顔でラビを見る。

「どうしたの?」

 勝ちに言い放ったラビの言葉に、男はなにも答えなかった。壁を押して反動をつけて、低い姿勢で鎌のようにした右腕を振るってきた。足をすくうつもりように見える。けど違うとラビは思った。男が即座に左手を畳につけたからだ。

 読みは正しかった。勢いを殺さないまま、男の脚が上がりはじめる。そのまま右手もついて、一気にラビの横っ腹に男の右脚が打ち付けてきた。待ち受けていたラビは、男の脚を左腕で抱え込んで、男の力が死なないうちに、体を捻りながら畳に倒れ込んだ。普通ならラビのほうが先に畳に着地するだろう。けどいまはそうならない。

 ラビは男の脚を強く引き込んで回転し、自らと畳の間に男を入れ込んだ。男の腹に右のすねをあてがい、そのまま畳に落ちる。

 男の口から息が吐き出される。息と体勢を整えられる前に制圧にかかる。抵抗する男をうつ伏せにさせ、馬乗りになる。両腕を背中に回させて掌握する。

 どうにか抜け出そうと暴れる男だが、ラビはうまく動きに合わせて抜けさせない。そうこうしていると、ついに男が止まった。

「諦めついた?」

 この男は極道の中でもかなりの手練れに入る。屋上で戦ったからわかる。男を畳みに落としたのも、制圧も、不忍装束の力があってこそだ。襦袢だけだったら、もう少し戦いが長引いただろう。

「お前ら不忍も肉体強化の薬を作ったのか?」

「なにそれ?」ラビは男の動きに注意を向けながら永遠に目を向けた。「永遠、お父さんと警察に電話して」

「うん」

 永遠がスマホを取り出すのを見てから、また男を見下ろす。

「薬って病気を治すものでしょ? あたしが強いのは日々の鍛錬と、永遠が作ってくれたこの服のおかげだよ」

「なんだ、結局外付けで自分の力じゃねえのか」

「違うよ! 言ったじゃん、日々の鍛錬が重要なんだよ。もちろん永遠の科学のおかげでもあるけど、おじさんも鍛えてるんだからわかるでしょ、それくらい」

「俺らみたいな、目的意識をしっかりと持った人間ならな。ただ、世の中大抵は指示待ちの馬鹿ばかりだ。そんなやつらを少しでも役に立てるようにするだけでも、かなりの時間がかかる。コストもだ。研究にはたしかに金がかかるが、安く大量に薬を作れれば将来的に無駄が減る」

「戦い方を知らなきゃ力があっても意味ないよ」

「鍛え抜いた兵士たちをより強力にする目的も当然ある。馬鹿どもは数の暴力として使う。力のある数の暴力だ。不忍だろうが対応に苦労し疲弊するだろう。それで充分」

「うわ、まさに悪い極道って感じが出てきた。せっかく強くなるために努力できる人なのに、もったいな」

「なにもかもお頭のためだ」

「ついてく人を間違えたってことだ」

「なにも間違えちゃいないさ」

 男はそれ以上なにも言わなかった。それから少しして、ラビの耳にサイレンが届きはじめた。

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