34:蜘蛛の糸

 能呂は驚愕とともに一縷の望みを感じた。思わず口を突いて出た言葉に、自分の本心を垣間見た。

 しかしすぐに打ち消す。話せるはずがない。話して楽になりたいが、自尊心と負い目が阻む。これは悪魔の囁きだ。耳を傾ければ向かう先は地獄。いや、いまがすでに地獄か。ならば地獄に垂らされた蜘蛛の糸なのか。

 置かれている状況を語り、救いを求めたい。しかし、きっと監視されているはずだ。どこにやつらの目があるかわからない。逃げ場などない。

「能呂教授?」

 背後からの人夢永遠の声に思考が止まる。振り返ると、気遣いの眼差しが向けられていた。研究に取り組んでいるときのつんと澄ました顔とはまた違った、絵になる顔だ。

「なにかお困りごとですか?」

 能呂は永遠から顔を背け、ノートを横目で見る。「い、いやなんでもない。忘れてくれ」

「でも……」

「いいって言ってるんだよ!」

 急に声を荒らげたからだろ、永遠が肩を震わせた。少々申し訳なさを覚える。彼女が科学へ向ける真摯な姿は本物だといまは知っている。出会った当初はいろいろと卑しい想像をしてしまって大人げなかった。謝罪しようと思っていたが、これもプライドが邪魔をして、ずるずると引き延ばされたままになっていた。

「能呂教授」

 永遠の隣にいた狐塚がまっすぐこちらを見つめてきた。いままでに見たことのない、威圧的な目つきだった。能呂は自身の額に脂汗が滲むのを感じた。

「な、なんだい」能呂は後ろ手にノートを探り、手繰り寄せる。「狐塚くん」

「扉の前に人夢さんの護衛が立っていたでしょう?」

「あ、ああ、そうか」近づけたノートをそのまま背中に這わせる。「どこかで見たことがあると思ってたが、鍾乳洞での研究の……それがどうしたんだい?」

「なら彼が兎束家の不忍ということもご存じですよね。なにか困っているのなら、相談してみてはどうですか? 俺たちに話せないようなことならなおさら」

「だから大丈夫だと言っているいるじゃないか」能呂は二人の前から離れる。「じゃあ、私これで失礼するよ。荷物を取りに来ただけだからね」

 返事を待たず、ノートを自らの体に隠すようにして研究室を出る。扉の脇に待機しているソフトモヒカンの男の横も足早に素通りする。

 ノートを盗んだことへの罪悪感も確かにある。狐塚の提案にも乗るべきだと、頭では理解している。しかしすでに後戻りなどできない。甘い蜜に誘われ足を踏み入れたのは、偽りの楽園だった。それをよしとして生きてきたツケが、何倍もの苦渋となっって返ってくることは簡単に予想できたものだったのに。

 どうせ足を止めることは許されなのなら、いっそのこと、どこか遠くへ逃げたかった。


「能呂教授のあの様子の理由を知ってるんですか」永遠は能呂が研究室を出ていくと、狐塚に尋ねた。「狐塚さん」

 狐塚は無言のまま、永遠を見返してくる。その目は、さっき永遠に科学についての考え方を問うたときと似たものだった。探偵の目。永遠はやはりと確信した。返答のない狐塚に続けて質問を投げかける。

「梓馬さんへの相談を提案したのは、教授が不忍が対応すべきことで困っていると知っていたからですよね?」

 狐塚が手を軽くあげて永遠を制して、窺うように眉をひそめた。「科学者で、クリエイターで、探偵? ちょっと設定盛りすぎじゃない?」

「……えっと、別に探偵のつもりはないですけど」

「ま、科学者も探偵も、ちょっとしたことに気付く洞察力は同じか。しょうがない、人夢さんには話すよ。ノートも持ってかれちゃったしね」

 永遠は言われてノートがなくなっていることに気付く。「すぐに梓馬さんに能呂教授を追いかけてもら――」

「大丈夫。行き先はわかってるから」狐塚がスマホを取り出し操作する。「研究が進む前に止めるさ」


 郊外のひとけのない資材置き場。その中にあるプレハブ小屋が、能呂たちに与えられた秘密の研究所だった。

 能呂は錆びついた引き戸を開けて小屋の中に入った。誰もおらず、明かりも灯っていない。暖房の運転もなく、体感は外気と変わらない。

 表向きは資材置き場を管理する建設会社の休憩所。長テーブルにキャスター付きの椅子、ロッカーや簡単な給湯室。すべてが古臭いが、室内の様子も一見して変わった様子はない。

 しかし目を凝らしてみると、壁際、傷だらけの板張りの床に取っ手を見つけることができる。能呂が取っ手に指をかけ、上に引き上げると、床の下に地下へ続く階段が現れる。

 コンクリート打ちっぱなしの壁に挟まれた階段を下ると、プレハブの老朽化具合からかけ離れた、清潔感溢れるガラス張りの自動ドアが目の前に現れる。両脇に銃を携えた厳つい男がふたり立っている。

 いつになっても慣れない。能呂はふたりの視線を感じながら自動ドアを抜けた。目に入るのは最新の科学機器ばかり。能呂の研究室にすらないものまで揃っている。

 キョー都で一、二を争う極道の資金力のなせる業か。はたまた武力によって得たものか。

「いえばなんでも揃えてやるっていうのに、なにを持ってきた」

 研究所の中央まで足を運ぶと、鍛え上げられた長身が訝し気にこちらを見た。鹿威会幹部の洗井。助教授時代、能呂は研究の行き詰まりと上司の教授への不平不満を吐き出すためにキャバクラを利用した。鹿威会がバックについていた店で、あまりに酔いすぎて、店員が呼んだのが洗井だった。

 懐も気にせず調子に乗って膨れ上がった代金は、ぼったくりの類も合わさって、到底払える金額ではなかった。酔いが醒めて洗井が提案してきたのが、鹿威会のために働くことだった。

 当初、人権などなく、馬車馬のようにこき使われるのかと思ったが、そんなことはなかった。むしろ、洗井は能呂ために裏からサポートをしてくれた。暴力に怯える日々もなく、人生が好転した。それが家畜を肥えさせるための餌だった気づいたときには、もう手遅れ。鹿威会との縁は切れず、逆らうことの許されない状況になっていた。

「ちょっと研究室に荷物を取りに。さすがに大学に君たちは入れないだろう?」

 ガラス張りの小部屋を覗く位置にあるデスク、能呂はそのうえに持ってきたカバンを置く。小部屋で動く遠心分離機を一目見てから、カバンから人夢永遠のノートを取り出し、洗井に示す。

「収穫があった。思わぬ収獲だ」

 能呂は洗井の横を通り、うしろのデスクで、密閉されたケージを覗き込んでにたにたとしている、若い眼鏡の男に歩み寄った。男の名は薮田やぶた。昆虫学者だ。

「薮田、これを見てくれ」

 能呂がノートを差し出すと、吹き出物の痕だらけの顔がこっちを向いて受け取った。しばらく目を通してから顔を上げた薮田。

「鬼になった人間を治す薬の作り方? 俺たちが作りたいやつの逆じゃん」

 能呂はため息交じりにノートを自身の手に戻す。「ちゃんと読め。鬼となる過程も書いてあっただろ」

「へえ、そうなん? 俺、化学は専門じゃないし」

 洗井が割って入ってくる。「鬼になる薬の作り方は載ってないんだな?」

「ああ……このノートにはどういった仕組みで人が鬼になるのかだけしか書いてない。ただ、その過程を知れたのは大きい。なにが作用しているかはちゃんと書いてある」

「すぐにでも薬を作れるのか?」

「いや、すぐにと言われると難しい。答えが書いてあるわけじゃないんだ、研究は必要になる」

「このノートはお前のじゃないだろ?」洗井がノートを軽く叩きながら、能呂を覗き込んだ。「若返りの薬を発見した学者のか? そうだな?」

 隠し通せるものではない。能呂は少々の罪悪感を覚えつつ、声を出さずに小さく頷いた。すると洗井がノートを能呂に押し付けてきた。

「研究を続けろ。俺が戻ってくるまでに薬を完成させていたら、いままでにない報酬を出してやる」


 永遠は狐塚の説明に衝撃を受けた。能呂は極道の中でも大きな力を有するという、鹿威会と繋がりを持っていた。それが狐塚が能呂研に潜入していた理由だった。

「じゃあ、若返りの薬の完成も極道に知られてるってことですね」

「そうだね。ただ、若返りを求めたのは麝香霊示だ。鹿威会組長の灰熊白山は、若返りに執着してない」

「鬼を生む蚊、ですか?」

 狐塚が頷く。「灰熊は強靭な兵士が欲しいんだ。そのための研究の一つが鬼。ほかにもいろいろと似たようなことに手を出してる」

「麝香霊利みたいな常人離れした力を持った兵士。生み出されないようにするべきですけど、そんな希望的観測はよくないですよね」

「うん。監視の目が届く範囲には限度がある。預かり知らないところで、脅威となる技術が生まれる可能性は捨てられない」

「いま、麝香霊利と戦えるように、ラビのための新しい不忍の衣服を考えてて。もう十亀くんに設計図は渡してあって、制作を急いでもらってるんですけど、うまくいったら、不忍襦袢と合わせて不忍に普及させるべきですね」

「キョー都を護るための技術なら大歓迎だ。人夢さんの考えることなら大丈夫だと思うけど、具体的にはどんなものを?」

 今度は永遠が話す番のようだ。奪われたノートのことが気にならないわけではないが、いまはなにかできるわけではない。狐塚の大丈夫という言葉を信じよう。

 それに不忍の関係者で科学者である狐塚との意見交換の意義は大きい。なにか面白いアイデアが出て、今後に活用できるかもしれない。

「まず、不忍襦袢が小規模な四季澱発電を利用して人工筋肉を動かしているのは、もうご存じですよね?」

 兎束家の一員でもなく、正確に言えば不忍でもない狐塚。しかし不忍襦袢については、すでに情報を掴んでいるだろう。確認のために添えた枕詞に、狐塚はしっかりと頷いた。それに頷き返して、永遠は続ける。

「新しく考えてる服っていうのは――」

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