33:鑑
体を伸ばすと、痛みが生じる。袖をまくれば医療用テープで留められたガーゼが目に付く。ただ大した傷ではない。多くが地面や建物の壁にぶつけたときにできた浅い擦り傷だ。
窓の外に目を向ける。いまにも雨を降らしそうな雲が、星明りを隠していた。台風本体はまだキョー都には近くないが、そこから伸びた雲だろう。台風は着々と接近してきているようだ。
麝香霊利に襲われた翌日の夜。永遠は能呂の研究室で薬を作っていた。普段なら夜に能呂研にいることはないが、今日は許可を得て設備を借りている。いまはすでにできる作業を終えて、起こした反応が進んで薬が完成するのを待っている時間だった。
「怪我してるんだから、休めるときに休みなよ」
マグカップを二つ持った狐塚がすぐそばの丸椅子に腰かけた。マグカップの一方を永遠に差し出してくる。
「ありがとうございます」永遠はマグカップを受け取る。ホットココアのようだ。「でも、無理はしてないので心配しないでください」
「まあ、信じがたいけど、もう完成されたものを実際に作っただけだもんね」
狐塚の目が、机の上に置かれたノートに目を向ける。ぐちゃぐちゃに折り目がついたノートには、永遠の手書きで化学式が書き込まれている。これが麝香霊利を治療するための薬となる。
狐塚には永遠のノートの力のことを簡単にだが話した。その力で知りえた薬を作るのだから、話さないわけにはいかなかった。
研究室を使う許可をもらったのも狐塚だった。本来ならトップである能呂の許可を取るべきではあったが、能呂は今日も研究室に顔を出さなかった。それに内容が内容だけに、不忍とも繋がりがある狐塚の存在は大いに助かった。
「手伝いまでしてもらっちゃって、ありがとうございます。狐塚さんも忙しかったですよね」
「俺のほうは別の人間に代わってもらえることだったから。それに、興味あったし」
「陰陽師の科学、最初に麝香霊示から聞いたときは、ここまでとは思っていませんでした。むしろそう思わせておくことが、陰陽師たちの仕組んだことなんじゃないかって、いまは思ってます」
「俺たち未来の人間が絵空事だって思うこと?」
「はい。若返りの薬に、鬼を生む蚊とそれに刺された人間の変化、それからその治療薬。なにも知らない人間が見聞きしても、創作物だと思う。そう仕向けることで、人の手に余る科学を広まらないようにした」
「なるほどね」狐塚が少し前のめりになって、永遠の目を覗き込んできた。どこか鋭い雰囲気を感じる。「『陰陽薬餌録』も陰陽師同士ではわかるように書いてるんじゃないか、っていう考えだったよね、人夢さんは」
気圧され気味に永遠は頷く。「はい」
「じゃあさ、人夢さんはこのあとどうするの?」
「どうするっていうのは……」当然いま作っている薬をどう使うかということではない。狐塚は薬を麝香霊利に使うことを知っているのだから。「陰陽師の科学の存在を知って、それを研究するかってことですか?」
「そう。陰陽師がぼやけさせたものを鮮明にする気がある?」
研究室が冷えたように感じたが、気のせいだろう。空調は機能している。いままで見たことない狐塚の雰囲気に飲まれているせいだ。探偵という職業が、創作物ように犯罪を解き明かす存在ではないことは理解している。ただ目の前の狐塚からは、犯人を詰めるときの探偵を思わせる抜け目なさを感じた。
科学者としての考え方を試されているのだろうか。だとすれば、永遠が出す答えは決まっている。永遠は毅然と自分の中にある答えを返す。
「人の好奇心と探求心を止めることは不可能です」
「つまりは解き明かすと?」
「そのうちには、ですかね」
「ノートを使ってなんでもかんでもわかるんだろ?」
永遠は口角を上げる。「博士と約束してますから。ノートは差し迫ったときだけ、科学の楽しみを奪う使い方はしないって」
「今回はラビが危なかったからってこと?」
「そうです。なので、じっくり研究していこうかなとは思ってます。今回のノートもことが済んだら処分しますから。それに――」
永遠はいままさに机の上で生成されていっている薬に目を向ける。
「――すでに陰陽師の科学は悪意を持って調べられてます。だからこそわたしも研究しなきゃいけない。悪用された科学に多くの人が晒される危険がある。そんな事態が起きたとき、なにも知らなかったじゃ済まされない」
麝香霊示に対面したとき、極道が陰陽師の科学を研究しているということを知った。しかし雪那や永遠を攫って研究を強制させようとしていた状況に、研究の進捗は大したことがないと高を括っていた節があった。
使命感が生まれたのは、麝香霊利が鬼となったとノートを使って知ったときだ。そこまで辿り着いている人間が存在する。多くの人が謂れのない不幸に叩き落される可能性が生まれている。現に麝香霊利が暴れた結果、いくつかの民家が破壊されている。救えるのに実行しないなんて、科学者以前に人としてよくない。
「なるほど」小さく息を吐いて、狐塚が笑った。「若いのに志が高いね」
一気に緊張感が失せた。雰囲気が普段の感じに緩まったことに、永遠は戸惑いを隠せない。
「えっと……なんだったんですか? いまの」
「特別な力を持ってる人夢さんの、科学に対する考え方を実際に聞いてみたくてさ。なんでもかんでもノートを使うわけじゃないって、尊敬」
「なんですかそれ」
「いやだってさ、人夢さんも言ったようにさ、好奇心って簡単に抑えられるものじゃない。知りたいことが知れるって状況にあって、そのうえで知的欲求に負けないって意志を持てるのは、実際すごいことだよ」
「わたしの知的好奇心が向いているのは、答えじゃなくて、答えを導き出すまでの過程なんです。そこが一番の楽しみなのに、もったいないじゃないですか」
「科学者の鑑だね」
「やめてください。わたしはまだ博士みたいに功績をあげてもいないのに」
「……雪那博士」狐塚の声のトーンが落ちた。「どうしてるんだろうね」
昨日までにこの話題に直面していたら、きっと永遠は心を大きく揺さぶっていたことだろう。いまもまったく堪えていないわけではないが、円と話せたことは心強い支えとなっている。
「狐塚さんでもなにも掴めてないなんて、わたしのノートの力が人捜しにも使えたらよかったのに」
狐塚がわざとらしく肩をすくめた。「それはいろいろ困るな」
「科学者だけでもやっていけますよ、狐塚さんなら」
「馬鹿言っちゃいけない。研究は金食い虫だ。雪那博士が金銭面で困ってないのは、知名度からくる各方面からの支援もそうだけど、副業的に玩具メーカーから報酬を受け取ってるからだ。知らないわけじゃないだろ?」
永遠はホットココアに口をつけた。狐塚の言っていることはもちろん理解できる。研究のための莫大な資金も、生活していくための費用も当然に必要なものだ。だがそれらは、好きなように研究を楽しんでいれば、勝手についてくるものだと永遠は思っていた。
雪那との暮らしのなかでも、金銭面で雪那に対して苦労をかけてしまうという心配すらしたことがなかった。幼かったからというのが理由ではないと自覚している。そもそも雪那のところへ来る前から、お金というものは研究に限らず好きなことをしていれば、困ることはないものだと認識していた。両親もそうだったからだ。
世間との認識のずれ。社会との関りをあまり持たないことの弊害だろう。
「えっと」永遠はマグカップを机に戻しながら苦笑する。「お金で困るって状況に縁がなくて……」
「ほんとに? 困るってほどじゃなくても、お金欲しいなとか考える場面くらいあるでしょ」
「ないですね」永遠は即答した。「ほしいものがあれば、自分で作ったりしてましたし」
「人夢さん……科学者じゃなくて、クリエイターだった、もしかして?」
「昔から手先が器用だっただけですよ」
研究室の扉が開く音がした。永遠と狐塚のいる位置からでは、入口を視認することはできない。扉の外には不忍の梓馬蓮真が永遠の護衛として待機している。なにか用事があって、彼が扉を開けたのだろうか。
永遠がそう考えながら入り口からの動線に目を向けていると、姿を見せたのは研究室の主だった。
「君たちか……」能呂は一瞬だけこちらに視線を向けたが、そのまま自身のデスクの方へ向かっていく。「なんでこんな時間に?」
そっけない態度の能呂に、狐塚がバツの悪そうな顔をした。「能呂教授」
共同研究をしているとはいえ、本来の研究ではないことのために研究室を使っている。狐塚には迷惑をかけられない。頼んだ永遠からしっかりと謝罪しておくべきだろう。
デスクの上のものを椅子の上に乗せたカバンに乱雑に入れていく能呂。かなり急いでいるようだが、永遠は立ち上がり、その場から声を掛けた。
「能呂教授、これはわたしが頼んで。勝手に研究室を使ってしまって、ごめんなさい」
「これ……?」
カバンを手に永遠たちの前に戻ってきた能呂は、永遠たちと机の上をぼーっと眺めた。その視線が広げられたノートに止まった。微動だにせずノートを見つめていたかと思ったら、急に動き出してノートに駆け寄ってきた。永遠を押しのけて、ノートを食い入るように覗き込む。ページも手荒に捲って読み込みはじめる。
「ちょっと教授」狐塚が体勢を崩した永遠を支えながら、能呂に苦言を呈す。「危ないですよ」
薬づくりの現段階が危険なものではないことを、永遠も狐塚も理解している。しかしここは研究室だ。いまの能呂のような動きは、褒められたものではない。能呂ほどの研究者なら、理解していないわけがない。ルールを無視するほどのものがノートにあったのだろうか。
「あの、能呂教授、なにか気になるところがありますか?」
永遠のノートに書かれている内容は、求めていることに関しては完全無欠なものだ。しかし、そこから派生する、求めたこととは無関係な部分というものが存在するのもたしかだ。
本来の研究ではそういった、求めていない結果から、別の思いもよらない成果が得られることがある。研究の楽しみの一つだ。そこを度外視してしまうノートの能力は、やはり永遠にとっては積極的に使うようなものではない。
「た、助けてくれ……」
能呂はノートを見つめたまま、肩を震わせてそういった。永遠は狐塚に視線を向ける。狐塚は眉をひそめて見返してきた。きっと永遠も似た顔をしているのだろう。
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