32:ネクストステージ
ソファに身を預ける姿は、下手をすればだらしのないものになるだろう。しかし、灰熊白山の場合は違った。ソファさえも従えているような威圧感が漂う。
灰熊は洗井にとって、裏社会の父ともいえる存在。極道の世界に足を踏み入れた十代のころから慕っている。だからこそ、いまの灰熊の機嫌があまりいいものではないとわかる。どこか遠くを見ているような細い目。
洗井はいま、ソファに座っている灰熊の脇に立っている。灰熊を見下ろす形になっているが、この状況は普段からだ。不敬には当たらない。灰熊が苛立ちを覚えているのは、ここ最近のままならない周囲の人間に対してだ。もちろん、そこには洗井も含まれているだろう。
ここまで灰熊の機嫌を損ねさせた記憶は久しくない。不甲斐ない。洗井はスマホをスーツの内ポケットにしまいながら、いま受けた部下からの一報を灰熊に告げようとした。だがその前に灰熊が口を開いた。
「いい知らせではないようだね、洗井」
視線が合わない。灰熊は前を見つめたままだ。
「……ええ、さすがのご慧眼です、お頭」
「世辞はいい。話せ」
洗井は小さく頷く。部下からの報告はこうだ。
「診療所に向かった強襲部隊は全滅。闇医者の男も死んだそうです。遠方から現場を監視していた者からの報告です」
闇医者からの連絡を受け、部下たちを診療所に向かわせた。麝香霊利が得たとされる力を鑑みて、距離を取った場所からも監視させた。その監視が診療所から出てきた麝香霊利の姿を確認後、他の者が現地に赴くと死体の山が築かれていた。いまは諸々の後始末をしているところだろう。
「役割を果たさないことと同じだよ? 役割以上の働きは。まったく困ったガキだ。学者の方はどうだい?」
「ええ、つつがなく」
「そっちがうまく進めば、霊利も片付くね。これ以上リソースを奪われるのを僕は望まないよ、洗井」
「はい。必ず麝香のガキは始末します」
「励んでね」
灰熊は最後になって柔和な笑みを洗井に向けてきた。背筋が凍る思いだった。これ以上の失敗は許されない。最後通牒の一歩手前。どれだけの時間連れ添っていようと、灰熊の怒りの限界に触れれば粛清される。
まさか自分がその矛先に晒されるとは。容赦がないとも捉えられるが、どの部下にでも等しく共通のものさしをあてがうのが灰熊という極道だ。明確な基準が灰熊の中に存在している。それを理解しているからこそ、この人のために功績を上げたい、そう思わせる。
たとえは悪いが、一種のゲームのようなものだと洗井は思っていた。設けられた基準を制限時間のうちに達成できるのかというミッション。できなければゲームオーバー。コンテニューは認められない。
「最後の時までお頭のために」
洗井は一礼してから書斎の出入口に向かう。なんとしても次のステージへ進む。最終ステージをクリアするそのときまで、灰熊の隣にいるのはこの俺だ。
洗井がドアノブに手を伸ばすより早く、ドアが開かれた。視線の高さに人の姿はなかった。
「じーじっ!」
視線を下に向けると、小さな子どもが洗井の横を走り抜けていった。一直線に灰熊のもとへ駆け寄ると、飛びついた。
「おぉ、こんな遅くまでどうした、
孫の結月を抱きかかえる灰熊の顔は、やさしい祖父そのものだ。柔和な顔も読んで字のごとく。裏社会の匂いなどまったくしない。
灰熊の細い目が洗井を捉えた。瞬時に極道の目に移り変わる。背筋は伸びるが、威圧とは思わない。憧れた
ケージから出れたはいいが、やはり自由にはなれないらしい。夜になり、雪那は与えられたベッドに寝そべり、今日のことを振り返る。
今朝、白衣の彼から次の治療の説明を受けた。といっても、そもそも初日に大まかな説明を受けていたため、あってないようなものだった。雪那の状態が次の治療を行うものになった、その喜びを隠せない彼の興奮を見続けるといった状況だった。どうせなら、いまだ名乗っていない彼の名前を知りたかった思う次第だった。
雪那としては体が変化した実感はない。ただ彼が心からの喜びを見せていたことに、適当なことを言っているのではないということはわかった。
第二の治療といっても、ケージの中での生活とさほど変わらないものだ。違いといえば建物の中庭とはいえ、太陽の下に出られたことだろう。
雪那は自分がいる場所が彼の言う『治療』を行う施設だということは聞いていた。中庭に出たことで、施設が木造の建築物だということを知った。中庭は完全に建物に囲まれていて、施設の外の様子を見ることはできなかった。
中庭は広く、芝生敷き。なだらかな丘や木々を有しており、総合公園を思わせる。これも前もって聞いていたが、雪那のほかにも『治療』を受けている人たちがいた。彼らはいくつかのグループにわかれて『治療』を行っていた。
雪那は置かれている状況が特殊なため、彼らと交流することが許されなかった。雪那の『治療』は、彼かその部下の目の届く範囲でのみ行うものとされた。監視の意味もあるのだろうか。
いろいろと考えていると、手がもの寂しくなってきた。手に馴染んだインフィニティキューブが恋しい。いまでも病室に置かれているということはないだろう。きっと永遠のもとにある。彼女はいまどうしているだろう。無事を伝えられていない以上、雪那のことを捜しているに違いない。
思い上がりになってしまうが、永遠にとって大事な人がいなくなるという状況は、大きなストレスになるはずだ。多大な負担をかけてしまっているに違いない。
救いがあるとすれば、いまの彼女には相談できる存在がいる。真鶴一家に、兎束親子。雪那のもとへ来たときは、状況的にも年齢的にも誰かに頼るということができなかった。
早く帰れる状態にならないといけない。しかし彼の裁量次第だ。いつになるかはわからない。そもそも帰れるのかもわからない。この特異な体を手に入れた代償が、いまになって浮き彫りになってくる。
若返りが打ち消されることはない。『治療』は若返りの副作用への対症療法だ。
彼に救助されそのように説明を受けた初日は、安堵でいっぱいだった。若さを失うことがない。その事実だけに考えが支配されていた。
副作用に悩まされない若い肉体。対症療法があるのなら、未発表ではあるが研究が進んでいるものと考えられる。ただ、永遠にとって、雪那の行方不明は雪那が科学者として禁を破ったことに端を発していると映るだろう。
そんな雪那を、永遠は迎え入れてくれるのだろうか。
急に不安が襲ってきた。若返りとともに消え去った憂鬱な気分が、ぶり返したわけではない。むしろ冷静になったからこそ、自分の犯した過ちに目を向けるようになった。そう判断できる。
現実味はないかもしれないが、ここで受けた説明を話せば、理解できない子ではないだろう。いいや、どうして希望的に考える。男の許可がなければ、無事を伝えることすらできないというのに。詳細を口外できるわけがない。男に相談してみるか。しかし、相談したうえで拒否されてしまったときのことを考えたら、躊躇いが生じる。
雪那はベッドの上で首を横に振り、体を速やかに起こす。その動きはやはりスムーズだ。足をベットから降ろし、前かがみになる。まずは己の犯した過ちに向き合うべきか。
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