31:獣

 体が揺れている気がする。本当に揺れているのか、そう感じているだけなのか、その判断もつかない。視界のかすみも重なって、まるで眠いのを我慢しているような気分だった。

 こんなになにもできずにやられるのは、いつぶりだろう。

 小さい頃、本気の組み手を頼んだとき、みんなに徹底的にボコボコにされたが、あれは経験を積んだいまは、しっかり手加減されていたものだと知っている。

 一方的にやられる経験という意味では同じ。けれど、しっかり戦えるようになってから、こんなことはなかった。思い当たる記憶がない。いまの状況は初めてのことなんだと、ラビは考え直す。ほらお父さん、あたしってやっぱり強かったんじゃん。大きい事件でだって、危なくなんてないよ。次からは参加させてよね。

 動きが止まったからか、いまになって耳鳴りがひどくなってきた。最初に頭を殴られて飛ばされたせいだとラビは思う。音の聞き分けが難しくなる。せめて、永遠と霊利の音だけは逃さないようにしておかないと。

 なにかが擦れるような音が連続して聞こえてくる。霊利が近づいてくる足音だろうか。重たくて、思うように動かない体。立ち上がらないと、永遠が危ない。

 ラビは永遠の方を見て、音の正体が足音ではないことに気付く。ノートへの筆記音だった。普段なら足音だなんて思わないのに。それだけひどい状態なんだ。

「おい、死んでねえよな?」

 まずい、永遠の音に集中しすぎた。霊利の接近に気付かなかった。ばんじきゅーすってやつかも。

 永遠だけでも、助けないと。体に力を入れる。大丈夫、誰かのため。それがあたしの原動力だ。

 へこんだパイプに手をついて、立ち上がる。

「っふ、そうだ。それでいい。まだ地獄の入り口だ。もっともっと苦しめて、俺をその脳みそに刻み込んでから殺すんだからよ。今日は生きて帰ってもらわねえと」

 霊利がラビの頭を小突いてくる。それだけでめまいを起こしたみたいに、ふらつく。パイプを掴んでいないと倒れてしまいそうだった。それを見て笑う霊利の声に、耳が軋む。意識と意志を保つためにも、ラビは霊利を睨み返して声を発した。

「しないといいね……後悔」

「いま殺さないことをか?」霊利が鼻で笑って、ラビの顔の両脇に手をついて顔を寄せてきた。「そんなのするかよ。この世で誰が俺に勝てるってんだ。あー、痛めつけすぎたか? こんな簡単なこともわかんなくなってよぉ。いや、もともと馬鹿なのか?」

 不快な壁ドンのなか、ラビは永遠の音が変わったのを察知した。こっちに近づいてくる。途中でさっき壊れた家屋からなにか拾った音がした。木片かな。そんなことは関係ない。永遠、どうして来るの?

「おい、人夢永遠!」霊利も永遠の接近に気付いている。視線はラビに向けたまま声を張る。「殴って来いよ。避ける必要もねえんだよ、てめえの攻撃なんてよ!」

 ラビは霊利の腕の隙間から永遠の姿を捉えた。棒状の木片を持っている。ただ、おかしい。永遠は木片を上ではなく、下に長く持っている。霊利は目を向けていないから気付いていないが、あれで殴るのは無理だろう。木片の先端が尖っていて、突き刺すつもりなのかと思ったが、それほど尖っていない。永遠が一体どうするつもりなのか、理解できない。

「わたしが攻撃しようとしてる時点で警戒すべき」すぐそばに来た永遠が木片を振り下ろす。「なにかするんだろうって!」

 木片がラビのすぐ横に突き立てられた。パイプとパイプの間にその先端をうずめていた。永遠はラビたちの外側に向けて勢いよく木片を蹴り倒した。短い破壊音。そのすぐあと、空気が漏れる音がして、体の横に強い風を感じた。

「がぁっ……!」すぐに霊利がうめき声を上げて、悶えながら後退っていく。「なんだっ……ぐあっ…………!」

「……なに?」ラビもまたなにが起きたのかわからずに零す。「永遠、なにしたの?」

 問いかけながら空気の流れ出ているもとに目を向けると、永遠とラビの間のパイプが破れていて、そこから噴き出しているのだとわかった。この空気を浴びたせいで、霊利は苦しんでいるらしい。

「説明はあと……捕まえるでしょ?」スマホを取り出す永遠。すごい呼吸が乱れていて、話しづらそうに見える。「わたしは、善治さんに連絡する」

「あ、うん!」

 再び霊利を見る。顔や体をかきむしりながら、あっちこっちにふらついている。ガラガラになった悲鳴に似た叫び声をあげながら、何度も壁にぶつかって、ラビたちから離れようとしている。永遠が作ってくれたチャンスを無駄にはできない。

 暴れ狂う霊利の動きに警戒しながら駆け寄る。苦しんでいるが、とんでもない力なのは変わらない。霊利がぶつかった壁はことごとく破壊されていた。慎重に制圧しないといけない。

 霊利が自分の足に躓いて転んだ。いまだ。ラビは一気に距離を詰めて、倒れた霊利の背中に飛び掛かった。ただ体重をかけるだけじゃない。霊利の関節をしっかり押さえ込む。体が痛いが、気にしない。取り押さえれば終わりだ。

 霊利が叫んだ。まるで獣の咆哮のような声がラビの耳をつんざいた。怯んでなんていられない。力を弱める気はまったくない。

「邪魔、だぁ……!」

 ラビは体が浮かぶのを感じた。

 後方から永遠が叫ぶ。「ラビっ!」

 心配の声だとわかるが、浮かび上がったこと自体は大した問題じゃない。もう受け身を取る準備もできている。ラビとしては霊利が自由になったことのほうが問題だった。

 すでに耳に入ってくる霊利の音は遠くなっていた。さっきまでの苦しみが少し楽になったのか、ふらつくことんなくまっすぐ遠ざかっている。

 ラビが体を捻って足から着地する頃には、霊利の姿は小路にはなかった。どれだけ鍛えた不忍であろうと、これだけの速さで駆け抜けることなんてできない。受けた攻撃の重たさといい、人間離れしている。

 永遠が駆け寄ってくる。「ラビ、大丈夫?」

「だめ、もう追えないくらい遠い」

「違う」永遠がラビの正面に来て、真剣な顔で見つめてくる。まだ呼吸は整っていないようだ。「ラビの、体のこと!」

「あ、うん……不忍襦袢のおかげかな」

「そんなはずない。頭から血が出てる……鼻血も」永遠がラビの腕を優しく引っ張って、建物の壁際に連れて行ってくれる。「兎束家のみんなが来るまで、座って安静にして」

「うん、でも、あたしは大丈夫だから」ラビは地面に座り、背中を建物に預けながら言う。「それより永遠だよ。永遠こそ大丈夫? すごい辛そう。ほら、となり座って」

 永遠が隣に座る。「わたしのはノートを使った影響だから」

「ノート?」ラビは少し離れたところに開いたまま置かれたノートを見た。パイプから噴き出している空気のせいか、ページが捲れそうで捲れない状態だった。「そういえば、すごい勢いでなにか書いてたね。なんだったの?」

 ラビの問いに、永遠はまっすぐ前を睨みつけるようにして言った。

「麝香霊利の弱点を知った。あの尋常じゃない力を消し去る方法も」


 息苦しさと体中のかゆみが一向に消えない。爪に血がついているのは、それだけ掻き毟ったからだ。顔も出血している感覚がある。

 麝香霊利は扉を弾き飛ばした。霊示の最期の寝床となった闇医者の手術室。すでになかにいた闇医者の野郎が、驚いて肩をびくつかせた。

 自宅マンションに帰ろうとしたが、周りに不忍がうろついていた。蹴散らしてもよかったが、状態が良くない。闇医者に電話してここにきた。

「俺の体を治せ!」

「霊利さんの体の変化のことは、まだ全貌がわかっていないので、治そうにも……」

 闇医者には力を得てすぐに、この体のことは伝えてあった。いろいろと試すのを手伝わせた。灰熊の鹿威会とも繋がりががあったが、情報が渡らないようにとことん脅しておいてある。それがよく効いていて、従順な犬だ。現状、洗井をはじめとした鹿威会からの接触はない。

 ただ、いまはその怯えた態度が気に障る。話が通じていないのに合わせて余計にだ。

「力のことじゃねえよ! 見りゃわかんだろ!」

「あ、ああ! えっと、どうしてこの状態になったか、教えてもらっても?」

 苛立ちを抱えながら、手術台に尻をもたれる。「パイプから出た空気に当たっただけだ」

「パイプっていうのは、四季澱の?」

「知るかっ。家の外の壁のやつだ」

「でしたら四季澱でしょう。えっと、症状を詳しく聞いていいですか?」

「かゆい、息苦しい」

「口の中を見せてください」

 言われた通りに口を開ける。闇医者の顔が近づいてくる。食欲をくすぐる匂いが鼻を突いた。普段は美形の女しか食糧にしていないが、いまの状況がそこまで追い込まれているということか。途中でなにか食っておけばよかったか。

 思わず顔を背ける。いまはこいつの知識を頼るしかない。殺すわけにはいかない。

「口腔内も荒れてますね……アレルギー反応の湿疹でしょうか……?」

 息を大きく吐きながら、闇医者を見ないようにして怒鳴る。「それを、診るのがてめえの役目だろっ!」

 闇医者が怯えて後退るのを感じた。「と、とりあえず、炎症を抑える薬を使いましょう」

 闇医者が少し離れて、なにかいじくる音がする。薬を取り出しているのだろう。音が変わって、軽い車輪の音が足音とともに近づいてくる。

「点滴をします腕を出してください」

 指示に従って、顔を向けずに腕だけを闇医者の方へ出す。闇医者に触られるこそばゆさのあと、小さな痛みが肌を刺した。

「少ししたら落ち着くと思います」

「ああ。けど、原因がわかんなきゃ、また同じ目に遭うかもしれねえ」

「その、空気を浴びた状況を聞いてもいいですか? ヒントがあるかも」

「人夢永遠だ。あのガキがパイプになにかしやがった」話していて苛立ちが増してきた。「やめだ。あいつ、やっぱりすぐにでも殺してやるっ!」

「ああ、待ってください、霊利さん」

「あん?」

「その子、殺さずに捕らえた方が、いいんじゃないかと」おずおずと提案する闇医者。「その……霊利さんをこんな状態にした原因を知ってるかも」

「……確かに、あいつはなにか知ってやがるかもしれねえ。だが、そんなん教えるわけねえだろ。お前がなんとかして見つけろ」

「全力は尽くしますが、時間がどれだけかかるか……あの、体調はどうですか? 薬がそろそろ効きはじめてくる頃だと思うのですが」

「ああ、少し楽になってきたか」

「少し……?」

「なんだ?」

「いえ、思ったより効きが悪いかなと思って……濃度をあげてみますね」

 話題が逸れ、少し落ち着いたこともあって、霊利は自分の顔の出血が気になりはじめた。状態を確認したい。それから、乾いて張り付いた血を洗いたかった。

「その前の、顔洗わせてくれ」

 なるべく闇医者を見ないように気をつけながら、手術台から離れようとすると、腕につっぱりを感じた。引っ張られた方向を見ると、点滴の薬の袋がさがった棒状のキャスターがあった。さっきの車輪の音はこれか。

 霊利はキャスターを握り、ともに洗い場に移動する。蛇口に伸ばしかけて、その手を止める。かゆみが収まりはじめたからか、さっきより鋭く空気の動きを感じられた。部屋の外でなにかが動いたようだ。

 音を立てないようにしているようだが、頻繁に空気が動いている。数人が入り口に迫っている。

「おい」

 霊利が声を掛けると、闇医者は新しい薬の用意をしながら答える。「はい?」

「誰か来てるみてえだが、まだ診療時間だったかよ」

「え、いや、霊利さんから連絡があったので、今日はも受け付けていないですけど……スタッフですかね。帰る前に挨拶に来たのかも」

「そうか」霊利は闇医者の方を見た。口の中、唾液が出てきたのを感じる。飲み込んでから続ける。「じゃあ、あんたのためにもちゃんと追い払えよ。俺といるのがバレたら困るだろ?」

「ええ、でもその前に、霊利さんの薬をこちらに変えましょう」

「なんだよ」霊利は食欲を抑えながら、闇医者に詰め寄る。「俺に関わってるとこ見られちまうかもしれねえ。先に追い払って来いよ」

「いや、でも霊利さんの体のほうが大事ですから……」

「少し楽になってんだ、すぐ戻ってくりゃいいだろ? どうせ帰りの挨拶だけだろ? ほら、もうすぐそこまで来てるぞ。大勢だ。だいぶ慕われてんだな? 闇医者やってんのがバレたら大変だ」

「え、ええ……」

 霊利は手術室の入り口を顎でしゃくる。「ほら、行けよ」

「わ、わかりました……では、少々お待ちを」

 闇医者が部屋の入口の方へ足を向けようと霊利に背を向けた。その瞬間だった。部屋の入り口からなにかが投げ入れらた。缶コーヒーに似た物体が回転しながら真っすぐ霊利たちの方へ飛んでくる。兎束家を襲うときに見た武器、閃光弾だ。

 霊利は闇医者を壁に叩きつけ、閃光弾をキャッチした。そしてそのまま部屋の入り口に投げ返し、目を背けた。

 外からどよめきが聞こえた次の瞬間、けたたましい音が霊利の聴覚を奪った。逸らした視線の先ではあらゆる物の影が濃くなっていた。

 霊利は光が弱まり出した瞬間に部屋の外に向けて駆け出した。点滴の針が体から抜けた。

 廊下に出るや、霊利は片っ端から極道どもを殺していった。耳の回復はまだだが、問題ない。目が見えて、肌で空気の動きを感じることができれば、敵はいない。どれだけ鍛えられた極道だろうと、どれだけの数に囲まれようと関係ない。今日まで多くの組を壊滅させてきた。どこも俺には敵わなかった。

 かゆみと息苦しさが心配だったが、興奮状態になったからか、まったく気にならなくなっていた。全部殺し終わって、手にべっとりとついた極道の血を舐める。気分が良くなる。肌がじりじりと疼いた。これまでのかゆみとは違う感覚に、スーツの腕をまくって見てみると、ただれがちょっとずつ治っていっている。

 霊利はひとり呟いた。「なんだ簡単なことだったんじゃねえ」

 手術台のある部屋に戻り、砕けた壁の前で意識が朦朧としている闇医者を見下ろした。

「俺を売ったな? 舐めやがって。誰に怯え従うべきか、ちゃんと理解してなかったんだな! あぁ!」

 闇医者は霊利を見上げることもできずに、ただ肩をびくつかせるだけだった。霊利は闇医者の前に屈んで、闇医者の顎を持ち上げた。

「俺を見ろ! 俺に従えることが幸せなことだとわかんねえのか? なんで裏切る? これだけの力を持った俺を! 灰熊がどれだけの極道だろうが、俺には勝てねえとわかるだろ? なんでわざわざ弱い奴のほうにつく? 脳みそ腐ってんのか?」

「……ぁ」闇医者の口から空気が漏れた。しばらく待ってみると、喋り出した。「あ……あんたは、ただの、獣だ。誰が、そんなものに従う?」

 闇医者の顎を弾くように離し、霊利は立ち上がる。闇医者の声は一瞬途絶えたが、またすぐに喋り出した。

「サバンナで……ライオンが、人を従える王を、やってるとでも、思っているのか? 脳みそが、腐ってるな……」

 霊利は足を少し引き上げ、闇医者の顔面を踏み潰した。ぬかるんだ砂利道を踏みしめたような感覚が靴から伝わってくる。

「死んどけ」

 ふざけろ。誰が獣だ。俺が人間の頂点だ。証明してやる。キョー都の裏社会からちまちまとやってきたが、方法を変える。こんな馬鹿な考えを持つ人間がいなくなるように、俺の存在を世界中に刻み込んでやる。

 手術室を出る。廊下に飛び散った血の色と匂いに食欲がくすぐられるが、どうせなら女で満たしたい。それにシャワーだ。男どもの体液で汚れていると思うと、気色が悪い。着替えも必要だ。見栄えのいい最高のスーツがいい。新しいのを仕立てよう。霊利はそんなことを思いながら、いくつもの死体の転がった診療所をあとにした。

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