28:朝食

 ランニングと夏穂との護身術の鍛錬を終えた永遠は、ラビとともにシャワーを浴びてから、兎束家の居間にて食卓についた。

 麝香組の襲撃による損害が修繕された居間。座卓に並ぶのは、善治が準備した朝食。毎日、旅館や料亭を思わせる和食が並ぶのが兎束家の朝食の風景だった。

 すべての配膳を終えた善治が、横並ぶ永遠とラビの対面に座った。

「善治さん」永遠はすかさず頭を下げた。「昨日はあんな態度をとってしまって、ごめんなさい。それから、いろいろと気を遣ってもらって、ありがとうございます」

「いいよ。永遠ちゃんの不安が少しでも和らいだならなによりだ。さあ、朝ご飯にしよう。聖護院しょうごいんカブがではじめたから、千枚漬けをこしらえてみたんだ。口に合うといいな」

「はい、いただきます」

 永遠は白く光沢のあるカブの漬物を口へ運んだ。まろやかな甘酸っぱさが口の中に広がる。歯ごたえも心地よく、もし起き抜けであったなら、目覚めを緩やかに助けてくれそうだと思った。

「好きな味です」

「よかった。ラビはこれでも酸っぱすぎるって言うんだ」

「酸っぱいよ」ラビは千枚漬けを口にして顔をすぼめている。「ギリギリ食べられるくらい」

「そんなに?」

「食べるたびに、顔がこうなる」

 言いながらもう一口食べて、また顔をすぼめるラビ。永遠は思わず笑ってしまう。

「わざとやってる?」

「少し大げさにはしてた」

 永遠とラビが笑い合っていると、善治が居間のテレビをつけた。朝のニュース番組を見るのは不忍としての日課だと聞いた。永遠としては、不忍の情報力のほうがマスコミより高いように思えるが、きっとそれは、浅いものの見方なのだろう。

「――本日未明、サキョー区シモガモの住宅街で二十代の女性の遺体が発見されました」

 永遠も画面に目を向ける。住宅街の路地が映されていた。キャスターがニュースを読み上げる。

「女性はこの近くに住む二十四歳の会社員。『血まみれの人が道に倒れていると』通報を受け、救急隊が駆け付け、その場で死亡が確認されました。女性は首もとから大量の出血をしており、警察はこれを連日起こっている通り魔事件のひとつとして、捜査する方針です」

 報道されているのは、ここ二週間よく耳にするものだった。雪那のことで頭がいっぱいだった永遠には、情報の一つでしかなったが、キョー都でいま一番の話題といってもいいだろう。

「あーこれ」ラビが箸でテレビを示す。「学校でも話題になってるよ、吸血鬼事件って」

 善治が訝しむ。「吸血鬼?」

「うん。みんな首から血を流してるでしょ。だから」

「首から血を流してると吸血鬼?」永遠は小さく首をかしげる。「わたしのなかだと、吸血鬼ってもっと品が良いイメージ。血を吸う相手が血まみれになるような粗暴なことはしないかなって。小さい頃、そんな物語の読み聞かせをされた記憶がなんとなくあるんだよね」

「トシが絵本の読み聞かせか」善治が小さく苦笑した。「人のことはいえんが、想像できないな」

「いえ、博士のところに来る前です。行方不明の両親に」

「ああ、そうか。ごめんね、永遠ちゃん」

「気にしないでください。昔ほど悲観してないですから。博士がいなくなっちゃって、改めて思いましたけど、わたし、大事な人がいなくなるのに弱いんですね」

 ラビが首を横に振る。「永遠、それはわたしだってそう! 大好きな人がいなくなって平気な人なんていないよ」

「ありがとう、ラビ。走りに行く前も言ったけど、気持ちの整理はできてるから」

「ああ、ランニングの話が出たついでに」善治が思い出したように言う。「いまの通り魔事件もそうだが、この二週間、この街はなにかと物騒になってる。極道の事務所が何者かの襲撃を受ける事態が続いていてね。極道の気がかなり立ってる。ラビは不忍としてもちろん、注意を向けておいてほしい。永遠ちゃんは麝香組やその上のやつらが、混乱に乗じて妙な動きをするかもしれないから気を付けておいてほしい」

「わかりました。もう簡単に連れ去られたりする気はないですけど」

 永遠はワイシャツの上から自身の腕に触れる。筋肉を感じる。キョー都を訪れた当初より明らかに体は引き締まっている。まだラビや夏穂のようにはいかないが、アスリートを思わせる動きも難しくなくなってきている。

「慢心はいけないよ」

「もちろん心得てます」

「もしものときは、またあたしが助けるから」

「じゃあ、そのラビを守るために、わたしは不忍襦袢を超えられるような研究をしなきゃだ」

「まず冬用の暖かいの作ってよ」

「そっか……防寒機能があってもいいんだよね。温感の繊維を一緒に織り込むか、発電の熱を利用するとか――」

 冬支度について話をしていたところ、聞こえてきた単語の違和感に永遠は言葉を止めた。再びテレビに目を向ける。気象情報を伝えているのだが、永遠の記憶ではこの時期には見たことのないものが映っていた。

 間隔をあけて配置された、順番に大きくなっていく正円。それらが接線で囲まれた図。最小の円の手前には赤色と黄色の円が配置されている。台風の進路予想図だ。

「――三十二年ぶりの十一月の上陸が予想されます」お天気キャスターが神妙な面持ちで告げる。「この台風は非常に強い勢力ですので、いまから十分な対策をしておきましょう」

「修繕が終わってよかった」テレビを見ながら善治が口を開く。「また直す羽目にならなければいいが」

 永遠は口に含んでいたものを呑み込んでから言う。「対策をするときは手伝いますよ」

「ありがとう、永遠ちゃん。助かるよ。いまは結構、人手が取られててね」

「さっきの極道への対応ですか? わたしの護衛は減らしてもらって大丈夫ですよ」

「いやいや、永遠ちゃんの護衛は外せないさ。極道への警戒の一部でもあるしね」

 ラビが眉をひそめて首をかしげる。「じゃあなんで、みんなそんなに忙しいの? またあたしに内緒で動いてるの?」

「毎度言ってるだろ、ラビ。不忍とはいえ高校生。優先さえるのは学業および学園生活。突発的ならまだしも、家長として不忍の任を与えることはしない」

「あたしも毎回言ってる。もーいじゃん、あたし有名だし」

 永遠はまたはじまったと、白米を口に運ぶ。

 ラビは不忍の仕事がしたい。対して善治は高校卒業まで仕事を与える気はない。二人はこの口論をよくしている。

 ラビがすでに女子高生不忍として名を馳せているのは、彼女が街で事件に出くわしたときに、相応の活躍するからだ。耳の能力を活かし、街の人の助けを必要とする声を逃さないようにしてきた努力の賜物といえるだろう。もちろん、ラビの性格的に、なかには無理やりに首を突っ込むこともあったのだろうと推察できるが。

 善治もラビのそういった活躍を認めていないわけではないようで、あくまで渋っているのは、規模の大きな事件への参加だ。彼の言うように、不忍の仕事に参加すれば学業にあてる時間の確保は難しくなるのだろう。それに危険も伴う。親としても、命を預かる不忍の長としても、当然の判断だと永遠は思う。

 だからといって、永遠はラビに言って聞かせる立場にない。学校にほとんど登校することなく、雪那の研究の助手をしている。どの口が説得できるだろうか。

 家族の在り方はそれぞれだと思うが、永遠には親との言い合いは縁遠いものだった。円と真鶴も喧嘩とまではいかないような口論をすることがあった。ラビも円も結論を出すというより、言葉を投げ合うことを目的としているように感じる。

 永遠は雪那とそういった話し合いをしたことがない。二人の間で行われるのは、結論を求めようとするもののみ。それが悪いと思ったことはない。二人のなかではそれで十分なコミュニケーションが取れている。

 ただ少し、うらやましさを感じているだけだ。雪那とはもう、遠慮のない間柄だ。少し感情的になってみるのもいいのかもしれない。円に言われた通り、雪那が戻ってきたら、感じた不安や怒りをぶつけてみようか。

 いまだに繰り広げられる兎束親子の押し問答。嫌な雰囲気はない。わたしたちも同じようにできるだろうか。未来に思いを馳せながら、永遠は箸を進めた。


 朝食から大量のステーキを頬張っている自分が当たり前のものとなっていた。

 雪那はナイフとフォークでステーキを口に運びながら、助けられた日のことを思い返す。

 あの日、同じように目の前に並べられた肉の山。置かれたナイフとフォークを使うことなく、手づかみで何枚もの肉を口に運んだ。食べてもなかなか収まらない異常な空腹に、生命の危機を感じていたの覚えている。

 ようやく命を繋ぎとめた、雪那がそう思えたのを見計らったように、声がかけられた。

「自分が思ってる以上に食べてくださいね、博士。薬での若返りの消耗は激しいので」

 声を掛けられたことで、食欲以外に意識が向きはじめた。

 雪那がいる場所とガラスを隔てた向こう側、声はそこからのものだった。しかしガラスの向こう側は薄暗く、男の声であることしかわからなかった。雪那の机の周辺のみを灯す照明が唯一の明かりだった。光が届かず、男の顔は闇に紛れてしまっていた。男が少し前に出ると、かろうじて足元と白衣の裾が認識できた。

 周囲を観察し、自分が巨大なガラスの立方体の底辺の中央にいると知った。ガラスのケージ。まるで実験用のマウスになった気分だと思った。この中に存在するのは雪那と椅子、両腕を広げても端に届かない広さの机。その机に並べられた皿と、それぞれに溢れんばかりに積まれたステーキだけだった。

「助けてもらって、そのうえこんなに食べさせてもらっておきながら、言える立場じゃないのはわかっているのだけど、このケージは? 僕は閉じ込められてる?」

「そうですね。しばらくは出られないと思っておいてください」

「しばらくって、どれくらいだろう?」

「それはあなた次第です」

「僕次第では早く出られるという解釈でいいかな?」

「ええ。とにかく、いまはよく食べてください。それが第一の治療ですから」

「治療……」

 肉体の若返りに伴って、陰鬱な気分も、終わりくなく繰り返されていたマイナス思考も消え去っていた。気分はすこぶる上々だ。男の言う治療とはつまり、若返りを打ち消すということだろうか。だとすれば、正直いえば気は進まない。

 自然や科学に背いている罪悪感こそあっても、それは内に留めておけば済むことだ。誰にも迷惑をかけるものではない。たとえそれが病的な状態であったとしても、継続を望む。

「そう深く考え込まないでくださいよ。悪いようにはしませんから。ほら、どんどん食べて。思考するいとまもでてきたことですし、博士が食べてる間に、じっくりとその体に起きたことと今後について説明しますから」

 病院から抜け出してしばらくして、体がいうことをきかなくなって、朦朧とする意識のなか雪那は倒れた。そのときケージの外の男が助けてくれた。視界が揺らいでいて顔ははっきりと見れなかったが、声が同じだった。

 軟禁状態とはいえ、命を救われたことに変わりはなかった。麝香組によって拉致されたことと、無意識に対比しているからかもしれなかったが、男から悪意は感じなかった。雪那は男の話を聞いてから対応を考えることにした。

 結果、雪那は彼の説明に概ね納得し、ひとまずは彼の言う『治療』を受けることにした。それ以外に現状が変わる手段がなかったからという理由が大きかった。

 肉を食べ、運動をし、眠る。それが第一の治療。

 二週間と二日。男は毎朝現れて、ガラスの向こうから雪那を『診察』した。しかし一向に次の治療に移れる状態にはなっていないという。今朝もそろそろ現れるだろうが、結果は同じだろう。なにかが変わった実感など雪那にはなかった。

 いったいいつまでこの閉鎖された空間で過ごすのか。男とは毎日、軽く会話を交わすが、知れるのは話題となっているニュースくらいなものだった。

 永遠や善治たちに心配をかけているに違いない。初日に無事を伝えたいと申し出たが拒否された。連絡をすることも会うことも、男が許さない限り禁止だと言い渡された。男はその理由や禁が解かれる状況までしっかりと説明してくれた。だからこそ、その状況まで早急に辿り着きたい。

 足音がした。男が来たようだ。雪那はナイフとフォークを動かす手を止めて、正面に目を向けて先に挨拶する。

「おはよう」

「おは……っ!」

 足音が忙しくなった。すると急にガラスの向こうに人の顔が現れた。雪那は驚きを隠せず、体を震わせた。

 いままで暗がりから出てくることがなかった男が、ガラスに手をついて雪那を見ていた。十七日目にしてはじめて目にした顔は、とても嬉々としていた。

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