第三章

27:秋暁

 訪れた当初より冷え込みを強く感じさせるキョー都の深夜。永遠はラビの部屋の障子戸近くの柱に背をつけ、手の中でインフィニティキューブを撫でていた。

 弄って回転などさせないのは、すでに寝ているラビに配慮してのことだった。とはいえ、キューブを回したところで落ち着かないのは目に見えている。

 ここ何日もまともに眠れていない。自覚している。ラビには心配され、善治には今日の夕飯のときに、軽い叱責を受けた。研究にも護身術の稽古にも支障が出るだろうと。

 たしかに集中力にかける部分はある。しかし、研究や鍛錬に打ち込んでいるときのほうが心が安らいでいる。実際にどちらも順調に成果もあげている。永遠はそういって、善治に反論した。

 余裕がない。気を遣ってくれた善治に、反論をする必要はなかった。夕飯のあとから顔を合わせていないが、明日の朝いちばんに謝りに行こう。

 雪那が病院から失踪してから、すでに十六日が経過していた。

 雪那と微妙な空気になったその日の深夜に、彼がいなくなったと、病室前の警備についていた不忍から連絡が入った。

 報告に来た不忍によれば、病院の就寝時間の少し前に、飲み物を買ってくると部屋を出た雪那。護衛が別の不忍に買って来させようとするも、それを断りひとりで行ってしまったのだという。当然、本当にひとりにさせるような兎束家ではない。別の不忍が、離れたところから雪那を見守っていた。

 自販機でお茶の購入を済ませた雪那だったが、少し歩くと異変があったらしい。足を止め苦しそうに壁に手を着いたそうだ。不忍が駆け寄ると、夕飯を食べたことによる便意で、それで怪我が痛んだだけだと説明して、近くのトイレに入っていった。

 トイレの前で待機していた不忍だったが、雪那がなかなか出てこないので、心配になって様子を見に行ってみると、トイレの個室は全て空いていて、雪那の姿がなかった。

 すぐに周囲の不忍たちが病院内から近辺までを捜索したが、雪那の姿を確認することはできなかった。

 それがことの顛末。

 トイレにはよくて人がひとりだけ通れるくらいの、押し出し窓があり、開放されていた。そこから大勢の極道が侵入して来て、雪那を攫うなんてことは到底不可能だった。

 それに極道が関わっているのであれば、不忍の情報網は有効に働く。兎束家から永遠と雪那が拉致されたときがいい例だ。あの日は、数時間で二人の居所まで辿り着いていた。

 これらの状況から考えられるのは、雪那が自ら外に出て姿をくらました可能性が高いということだった。

 永遠も現場のトイレを見せてもらったが、窓の外には落下防止用のネットが張られていて、窓から出ても落ちてしまうことはない。ネットの上からうまく建物を伝っていけば、地面に降りることも可能だった。ただそれは怪我人にはとても酷なことでもあった。

 考えたくない。そうであるはずがない。永遠には、雪那の失踪それ自体に加えて、憂慮していることがあった。

 病室にはキューブや眼鏡、スマホをはじめすべての荷物が残されたままだった。けれど一つだけなくなっているものがあった。

 永遠が渡した小瓶の中身だ。

 雪那は四季澱を含んだケイ素粉末を飲んだのだろうか。失踪当日はその程度の疑念だった。

 二週間以上を経過したいま、ひとつの成果を得たいまなら、確信を持って言える。あの粉末には若返りの効果がある。そして、副作用も。

 雪那失踪翌日から、予定通り能呂研と情報共有をして、研究を続けた。老齢マウスへ経口投与した結果、すぐに結果が出た。マウスの動きは活発になり、若返りが認められた。

 しかし若返ったマウスは数日後に必ず発作を起こし、処置をしなければ命を落としてしまった。発作は薬物の中毒症状に似たものだった。試しに継続して粉末を与えると、症状は起こらず、若々しさも保っていた。

 ただし継続摂取による安定も、数度繰り返すと効果がなくなり、マウスたちは絶命してしまった。

 これがヒトにも当てはまるのなら、雪那の命も危険。いいや、場合によってはすでに……。

 永遠は最悪の想定を頭から追い出した。雪那は科学者だ。なにか対応しているはずだ。そうであってほしい。

 とにかく、あの粉末の効能により、怪我のなか無理をできる体力が雪那に与えられた。窓から外に出ることも難しくない。

 若い頃の雪那は、科学オタクに似合わない身のこなしをしていたと、真鶴から聞いたことがある。サバゲーでの活躍の要因の一つだ。それに、当時の肉体を取り戻している可能性を高めている要因はもう一つ、病室に置かれたままの眼鏡だ。雪那が眼鏡をかけはじめたのは、永遠が彼と出会って五年ほど経ったころだ。

 状況が裏付ける。目を背けることはできない。それでも、科学に対して真摯に向き合っている雪那が、こんな冒涜的な行為に出たなんて信じられない。永遠の中で相反する想いがせめぎ合っていた。

 室内がわずかに明るくなった。畳の上に置いてあった永遠のスマホの画面が光っていた。メッセージを受信したようだ。

 表示されている差出人の名前はマルちゃん。永遠はメッセージアプリを開いた。

『いま、電話できる?』

 簡素な内容。実際に話すとおしゃべりな彼女だが、文面には装飾の一切がない。ほっとする自分がいた。しかしこんな時間になんだろうと、永遠は静かにラビの部屋から出る。

 円の声は大きい。音漏れは必至だった。本邸で電話してラビや善治に迷惑をかけるわけにはいかない。永遠は離れの道場に入って、奥まで進み、畳の上に胡坐をかいて電話をかけた。

「こんな時間まで起きてぇ」繋がった途端、円のにやりと笑う顔が浮かぶ。「悪い子だぁ」

「お互い様」

「わたしはコード書いてるからいいんです! お仕事でーす! 永遠みたいに、いじいじ、ぐじぐじ、無駄に起きてるわけじゃないんでーす!」

「……え、待って、なに?」

「聞いたよ」急に声のトーンが落ちた。「雪那博士のこと」

「なん、で……」疑問は一瞬で解けた。「そっか、真鶴先生と善治さんも友達だもんね。サバゲー繋がりの」

「そゆこと」一転してまた朗らかな声が返ってくる。「えっと、善治さん? わたしは会ったことないんだけど、永遠があまりにいじけちゃってるからどうにかならい? ってお父さんに連絡してきたんだって。それでわたしに白羽の矢が立ったてわけ。あ、ちなみにだけど、お父さんは初日には博士の失踪のこと聞いてたみたいよ。ひどいよね、わたしには一言も無し」

「ここまで大事になるって思ってなかったんだよ、先生も。マルちゃんに負担がかからないように伝えなかっただけでしょ」

「でもさ、そしたらわたし、すぐに永遠に電話できたんだよ? さっきみたいな煽るようなこと言わないでさ。最初から素直に励ます感じの」

「別にいまも煽る必要はなかったでしょ」

「そお? 最近話してないから、寂しかったよーって、感じの方がよかった?」

「普通に励ましてよ」

「それで立ち直るの?」

「立ち直るってほど落ち込んでない。研究だってちゃんとできてる」

「周りからはそう見えてないから心配されてるんでしょ。ほんと、永遠は周りの目に無頓着。ねぇ、キョー都に行ってる間、ちゃんとおしゃれとかケアとかしてる?」

「ケアは最低限してるよ。マルちゃんほどじゃないけど、泊めてもらってる家の娘さん、ラビっていうんだけど、体調管理の一環としてそういうところしっかりしてるから」

「ふーん、お友達でできたんだ、あの永遠に」

「嫉妬?」

「そんなわけないでしょ。うれしいに決まってる。あとでちゃんと紹介してよ、ラビちゃん」

「トーキョーに行きたいって言ってたから、そのうちね。たぶん二人似てるからすぐ仲良くなると思うよ」

「うんうん。でさ、話し戻すけど、ケアはって言ったよね? おしゃれは? お、しゃ、れ」

「……普段通り」

「永遠の普段どおりは身だしなみ。お化粧とか、髪とか、服とか、アクセとか」

「荷物になるものはこっちに持ってきてないから」

「っかぁー!」盛大なため息が聞こえてきた。「ったく、あんたは。勝負できる素材だからって、驕っちゃダメでしょ」

「驕るもなにも、興味ないし。てかさ、話し戻すって、励ましのほうじゃないの?」

「絶賛励まし中ですが? それともなに、真剣に重い感じでやってほしいわけ? いま永遠に必要なのは、さいっこーの幼馴染との他愛もない会話でしょ? ねえ? だって永遠のことだから、博士についてはもういろいろ考えてるんでしょ? 考えすぎちゃってるから、わたしがこんな夜中に電話することになってるんでしょ? 違います? 違いますかねぇ、人夢博士?」

「……違わないだろうけど」

 円が勝ち誇ったような鼻息をわざとらしく聞かせてくる。それが合図のように感じて、永遠はため込んでいた想いを口にした。

「わたしのせいで、博士が……」永遠は膝を抱えて、震える自分の声を聞いた。「マルちゃん、どうしよう」

「え、結局重い感じで行くわけ?」小さく笑う円。それから咳払いをして、居住まいを正すような衣擦れの音が聞こえた。「よし、わかった。全部吐き出しちゃいな。全部、全部、聞いてあげるから」

「うん」

 それから永遠は、相槌だけの円にしゃべり続けた。論理的ではない支離滅裂な内容だった。同じことを何度も口にした。無言の時間もあった。それでも円は疑問も挟まずに、聞くことに徹してくれた。

「ふぅー。随分かかったけど、要約するとこお?」

 円は永遠の気持ちの整理がついた頃合いを見計らったように、相槌とは違う反応を見せた。すでに道場の窓から見える空が白みはじめていた。

「永遠が若返りの薬を作っちゃったから、博士がどこかに消えちゃった。もしかすると若返りの副作用で博士が危ないかもって。失踪よりそれを心配してる、と」

 永遠はわずかにかすれた声で応える。「……そう」

「じゃあ、ここからはわたしのターン。永遠さ、思い上がりすぎ。博士はいい大人だよ? 自分の行動には、自分で責任を取れる。取らなきゃいけない。それになにより、娘にここまで心配かけてる時点で悪いのは博士」

「でも」

「でもじゃないの。永遠は博士が帰ってくるって信じて待ってればいいの。それで、帰ってきたら怒ってやればいいの。それでも落ち着かないなら、いまでもそうしてるみたいだけど、研究に打ち込めばいい。もちろん、周りの人に心配かけないようにね。大体さ、周りの人だって博士のことを心配してるわけじゃん。そこに永遠の心配までさせてどうすんのよ、いい迷惑」

「一理ある……」

「でしょ? わかったなら、いじけるのはここまでね。いい?」

「うん、研究頑張る……」

「よろしい。博士が帰ってきて危ない状態だったら、助けるのは必ず永遠だからね」

「……そうだね」永遠は鼻をすすって立ち上がった。「解毒剤か拮抗薬。完成させておかないと。博士だけが必要になるとは限らないし」

「うん、その意気だ。やっぱわたしってすごいね」

「ありがとう、ではあるんだけど、なにその自画自賛」

 電話口で円が微笑した。

「わたしはなにをどーしたって、永遠のところに駆けつけることができない。けど、永遠にはわたしをすぐ隣に感じてほしい。この先多くの人を救う科学者の最高の支え。永遠の支えになることが、わたしの存在する意味だから。永遠を励ませないなら、わたしなんて必要ないでしょ?」

「マルちゃん……」

「あはは、キザすぎたね。はっず」

「マルちゃんは十分だよ」

 変な沈黙が二人の間に流れた。黙らないでよ、二人そろって言って、そのあとは笑い声だけが、スマホから流れる音声だった。

 笑い声のかすかな合間を狙って永遠は言った。「ありがとう、マルちゃん」

「どういたしまして。心配かけたみんなにも、ちゃんと謝るんだよ」

「わかってる。そんな世間知らずじゃない」

「おしゃれも忘れずに」

「それは……善処するよ」

「はぁ、やらないやつね。はいはい、帰ってきたら、わたしの部屋でファッションショー開催。これ、決定ね」

「やらないよ」

「やりますー。いまからいろんな服、ポチっとくから」

「そんなお金の無駄遣いして、また先生に怒られても知らないから」

「またって、怒られたことないけど。わたしが稼いだお金だし、ほかに使い道ないし。お父さんがいつも言うのは、永遠に迷惑かけるなってこと。で、迷惑はかけてない。でしょ?」

「なるほど、いい性格」

「え、え、え、ほんとはいやいや付き合ってくれてる?」

「いつも楽しんでるよ。いい刺激もらってる。面倒だなとは思ってるけど」

「わぁ、正直。ところでさ――」

 円との電話は結局、最後には関係のない他愛ない話に終始した。白んでいた空が、早朝の青さを含みだしたころ、道場の扉が開いた。兎束家の不忍たちが清掃道具を携えて、驚いたように永遠を見ていた。

 永遠はスマホを顔から離して不忍たちに頭を下げる。「おはようございます。ごめんなさい、いま出ていきます」

「永遠?」

 スマホから漏れ聞こえてきた円の声に、再び耳元にスマホを当てる。

「ごめん、マルちゃん。もう切らなきゃ」

「そっかぁ。じゃあ帰ってきたらまた話そう、永遠」

「うん、ありがとうね」

「うん、じゃあまた」

 永遠は電話を切って、不忍たちに会釈しながら道場を出た。靴を履き、顔を上げると朝の陽射しに目を細める。

 自然と笑みが零れた。気持ちを吐露したことで、だいぶリフレッシュできたと思える。雪那がかつて教えてくれたことは、やはり間違いではないと改めて実感する。

 もちろん心配事は消えない。落ち込んでいても事態が好転するわけじゃない。そうであるならば、わたしはやるべきことに打ち込めばいい。

 清々しい朝の空気を切って、庭園を本邸の方へと進む。玄関の前に辿り着いたとき、ランニングウェアのラビが体操をしていた。

「んぱっ!」永遠に気付いたラビが、わずかに眉を困らせた。「おはよう、永遠。先に行っちゃのかと思った。ひとりで走りたかったのかなって」

 永遠は頭を下げた。「ごめんね、ラビ。心配かけちゃって」

「うん……もう、大丈夫なの?」

「大丈夫とは言えない。心配でしょうがない。けど、もう囚われてない」永遠は玄関の引き戸を開ける。「ちょっと待ってて、準備してくるから。一緒に行こう、ラビ」

 ラビによく似合う満面の笑みが返ってきた。「うんっ!」

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