26:変質

 雪那はベッドにため息を落とした。

 病室の扉から意識的に顔をそむけてしまう。

 情けない。嫉妬して、嫌味な態度をとってしまった。素直に喜べない、心のささくれの理由を探す。

 落とした視線の先。手にした小瓶が目に入る。研究が自分でない誰かの手によって進んだこと。そのことに苛立ちを覚えたわけではない。理由なんて探さずともはっきりとしているのだ。

 拉致されてから、感情や思考回路がおかしい。どうにもマイナスなことばかりが、頭の中に浮かぶ。

 永遠があの時、解離性障害と思われる状況になったことを考えると、雪那にも相応のストレスがかかっていたことは言うまでもない。PTSD心的外傷後ストレス障害の疑いがある。

 そうだ、疑いなのだ。雪那は専門家ではない。知識は一般人よりわずかにあるかもしれないが、専門医から見ればそう診断できる状況ではない場合はある。あくまで、雪那自身がそう思っているにすぎない。

 ただ思っていることもまた、精神的負担になっているのだと自覚している。負の連鎖だ。考えないようにしようと思えば、それが発端となって繰り返す。

 雪那はベッドテーブルに小瓶を置いて、代わりにインフィニティキューブを手に取った。心を落ち着かせたい。無心になりたくて、キューブを弄り回す。

 苛立ちに指先に余計な力が入る。雑な回転が立てる音が不快だった。心は波立つばかりだ。半ば叩きつけるようにキューブをテーブルに置いた。

 傷が痛んだ。それが、監禁されていた時のことを思い出させる。永遠を守れなった不甲斐なさ。若さを失っていく体。やり場のない自身への怒り。

 ベッドの上に小瓶が落ちてきた。さっきの衝撃で転がってきたのだろう。再び手に取る。

 陰陽師による若返りの薬。これが正真正銘、その名の通りの効能があるのかは、いまだ判明していない。いいや、目を向けるべきはそちらではない。喜ぶべきは、四季澱の新たな可能性の発見がなされてということだ。

 炭素繊維への包括より簡単な方法での、四季澱の固体化。四季澱単体でのものではないが、特別難しい技術を要さない汎用性の高さは有意義なものだ。ほかの多くの研究、新たな技術への転用などに多大な貢献を果たすだろう。

 例えば、なんだろう。雪那は四季澱研究の新たな道を探り出す。胸中もだいぶ穏やかになってきたように思う。

 さて、例えばなんだろう。

 そもそもヒトが摂取できることが、なによりも新発見だ。

 気体の四季澱の吸入に関しては、液化四季澱の気化による超高濃度四季澱こそ危険とされているが、無害という知識が一般的だ。なにか有用な効果もあるわけではないが、固体四季澱はこれを覆すかもしれない。

 人体にいかなる影響を与えるのか。本当に若返りが実現するならば……。

 雪那は小瓶を覆うように強く握って、頭を振った。

 またこの考えに至ってしまう。なにがヒトの摂取が可能だ。まだ判明していないだろう。ただ古文書にそういった絵が描かれていただけのことで、なにを熱を入れているんだ。

 科学者ならば、段階を踏んだ実証こそを信じなければ。そしてそれはこれから、行われる。永遠によって。

 若い科学者が新たな道を切り拓いていく。これまで先達たちが、積み上げてきたものをさらに高く、繋いでいく。紡がれていく科学の発展。雪那自身もその一部として、永遠に多くのことを教えてきた。だから今回のことも、誇らしく喜ばしいことのはずなのだ。だからこの煮え切らない気持ちが、自分で嫌になる。なにを固執しているのか。

 今回永遠はノートを使ったわけではない。しっかりとした手順で、功績を上げようとしている。師として、親として、諸手をあげて歓迎すべき状況だ。

 妬むなんて、ありえない。

 不安定な感情。結局、穏やかな心境は、そう思い込んでいるだけのまやかしだ。そうでありたいという願望だ。

 小瓶を握る手が痛んだ。ずっと力を入れていた。強張って開きにくい。反対の手で優しくほぐす。

 こんなになる力があるのなら、どうしてあのとき、永遠を助けることができなったのか。若ければ、鍛えていれば、結果は変わったはずだ。

 雪那は自嘲する。堂々巡りだ。考えがまとめられず、同じことを考え続ける。これも歳のせいか。

 ひとりの科学者としての嫉妬。ひとりの男としての情けなさ。多かれ少なかれその感情があったとしても、弟子であり、娘でもある永遠の成功を、心から祝福できないほどのものであるはずがない。

 だからこれは、歳のせいなのだ。

 そしていま、遠い過去の科学者の研究の産物がこの手の中にある。そうだ、科学者が残したものだ。これ自体が結果なのだ。ならばこそ、検証の必要はない。

 雪那は小瓶のふたを開けた。

 正常な考えではないと、警鐘を鳴らす自分もいる。それが本当の科学者の自分だという自覚もあった。それなのに、雪那の手は自然と小瓶を口元に運んでいった。


 目が覚めそうな感覚。体中がむず痒い。しかしこれは、さっきまでの蚊に刺された痒みとは違った。全身を優しく撫でられているような感覚。

 麝香霊利は、自分の体になにかが接近している感覚を掴んだ。体の産毛という産毛が知らせてくる。まるでずっと鳥肌が立っているような気色悪さだ。

 近づいてくるなにかに対して、霊利は反射的に腕を振り上げた。なにを殴打した。男の苦悶の声を聞いた。そこで霊利は思い出す。俺は縛られていたのではないか。

 寝覚めの思考が、はっきりしていく。目隠しを自由になった手で取り去り、立ち上がった。

 まず、全裸の体が目に入る。かなり蚊に刺されていたように思ったが、どこにもその痕がない。金をかけて手入れされた美しい肉体。自慢のマグナムも無事だった。

 振り向くと、椅子の背もたれがもぎ取られるように壊れていた。さっき、腕を振ったときにこうなったようだ。

 椅子の向こうに、怯えたようすで白衣が腰を抜かしていた。蚊の研究者だろうか。その白衣の視線が霊利と、どこか別のもう一方へ、何度も行き来していることに気付く。

 霊利が白衣の視線の先を見ると、別の白衣が壁にもたれていた。ひしゃげた頭から血を吹きだしている。あれはもうすでに息絶えているだろう。

 あれも俺がやったのか。霊利は死体を眺めていると、どうにも惹きつけられるものがあることに気付く。別に知った顔でもない。魅力的なオンナでもない。いったいなにが、こうも霊利の気を引くのか。

 じっと死体を見つめていると、腹が鳴った。霊利の足は自然と死体の方へと動いた。歩きながら、霊利は自分がこれからしようとしていることに、抵抗していた。なんでそんなことをするのか。自分のことながら、到底理解できなかった。それでも、欲求には逆らえなかった。

 死体の前に膝をつき、血の溢れる頭にかぶりついた。その一瞬で、抵抗の意思はなくなった。血がうまかった。いままで、食べたどんな高級料理より口に馴染んだ。

 しばらく夢中になっていると、急に味が落ちた。鮮度だ。鮮度が落ちたのだ。

 霊利は死体から、腰を抜かした白衣に目を向けた。白衣はまだ、さっきと同じ場所にいた。長いこと血を味わっていたように思えるが、白衣の様子を見るに、そうではなかったようだ。

 霊利は駆け出した。驚くほど、体が軽かった。一瞬風を感じたかと思えば、驚愕と恐怖の白衣の顔が目の前にあった。

 霊利は白衣の頭を片手でしっかりと掴むと、斜めに傾け、白衣の首筋に歯を立てた。肉を引きちぎり、吐き捨てる。すぐに溢れてきた血を飲みはじめた。

 至高の時間だった。最高の気分だ。

 沈んでいた意志が、浮き上がってくる。俺がするべきこと。じいちゃん、ごめん。俺らしくなかったね。

 大きな空気の動きを感じた。そちらに目を向けると、部屋の入り口だった。スライドドアが開き、武装した極道が流れ込んできていた。

 血は案外腹に溜まるらしい。わずかしか口にしていないが、空腹は満たされていた。そうなると血への欲は失せるらしい。白衣を襲う前は、人間への渇望のようなものがあったが、いまこうして大勢の人間を前にしても全く思わなかった。

「まさに鬼」洗井の声が部屋に響いた。「吸血鬼か。なあ麝香?」

「陰陽師ってのは、案外まともだったんだな」

「そうらしいな。成果が出たことには感謝しておいてやる。が、最初に言った通り、お前はここまでだ」

 会話中に扇状に展開した極道たちが、アサルトライフルの銃口を霊利に向けていた。

「やれ」

 洗井の号令に、一斉掃射がはじまる。霊利のすぐそばに白衣がいたにもかかわらず容赦がない。さすがは極道といったところだ。

 霊利はその銃撃を天井の角から見下ろしていた。最初の弾丸が到達するより早く、反射的にここまで跳び上がっていた。腕と脚に力を入れて、落ちないように踏ん張る。

 鬼かどうかは知らないが、たしかに人間離れした身体能力だ。

「上だっ!」

 近くにスピーカーがあるらしい。洗井の怒鳴り声がすぐそばから聞こえた。少し遅れて、銃撃の音が止んだかと思うと、多くの銃口が霊利の方に向いていた。

 霊示の威光を借りていただけの、少し前であったなら、怯えていたと心の内で自嘲する。銃口を向けられる状況にならないよう、威張り散らしてきたのだ。

 だがいまは、自分で対処できると思えた。この場を乗り切れると。

 霊利は床に向かって飛び込んだ。白衣はさっき驚いていたが、戦いのプロとなれば違うらしい。人が目で追えないようなスピードではないらしい。さっき天井に飛び上がったのを見逃したのは、そんな動きをすると思っていなかっただろうか。

 体を鍛えることに対しては励んでいた。部下たちに並んでトレーニングしたこともある。その中で、部下たちからプロの考え方を聞いたこともある。言うは易し、行うは難し。そこまでの極道でなくとも、考え方を口にするのは簡単だ。

 霊利は極道の集団の中央に入り込んだ。銃口の追従が途絶える。どのアサルトライフルも、明後日の方向を向いていた。やはり、同士討ちをしないよう訓練されている。

 極道たちの別の動きを感じた。コンバットナイフを即座に手にして、近場のやつから霊利に攻撃を仕掛けようとしていた。

 正直言って、体は鍛えていたが、戦い方なんてものは知らない。拳銃を出して脅せば、すべてが手に入る環境で育った。殴り合いの喧嘩もしたことがない。こちらが一方的に相手を痛めつける。そんな暴力しか振るったことがない。

 だがいまも、その状況に変わりはないのだと霊利は知っていた。

 肌が教えてくれる敵の動き。生存本能なのか危ないとわかると、反射的に体が対処する。

 霊利は敵のナイフを素早く躱すと、その極道の腹を殴りつけた。鍛え上げられた極道の体が、周りの極道たちを巻き込みながら宙に舞った。

 慄きを見せる極道たち。ああ、これだ。ほかの誰のものでもない、俺自身に向けられた恐怖。仮初めの威光ではない。それを体現する力を得た。ここからは、俺の時代になる。

 キョー都だけじゃない。世界中どこを探したって、こんな力を持った人間などいるはずがない。ニホンのみならず、世界の裏社会のトップとして君臨することができる力だ。

 自然と笑いが零れていた。それを隙と思ったか、極道の一人が飛び掛かってきた。軽々と蹴り飛ばしてやった。

 まずはあの憎たらしい小娘たち。それから灰熊をはじめとした、キョー都を裏から治める極道の頭たちを始末していこうか。

 霊利は今後のことを考えながら、極道たちの相手をしてやった。大半を血祭りにあげたのち、部屋のドアを蹴破って外へ出た。さすがに、駆け付ける応援とまで戦うつもりはない。また少し、腹が減ってきていた。落ち着いた場所で食事がしたい。

 どこかの研究所と思われる建物の中を進み、途中ロッカールームを見つけて、白衣だけ盗んだ。ほかの服は趣味に合わなかった。全裸で目立つのだけ避けられれば良かった。最高の服は家に帰ればいくらでもある。

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