25:進展

 耳元で不快な音が鳴った。蚊の羽音だとすぐわかる。麝香霊利は反射的に頭を振りながら目を覚ました。

 瞼をあげても、目の前が暗い。なにか、目元に巻かれているようだった。背もたれのある椅子に座っている、いや、後ろ手に縛り付けられているようだ。しかも全裸だと思われる。

 思うように身動きできない。椅子も床か地面に固定されているようで、脚に力を込めても、まったく動く気配がない。

 再び耳元に蚊が近づいて来たのを、同じように頭を振って遠ざける。音を聞いたからか、体のいたるところがかゆくなってきた。小さく動いて紛らわすが、間に合わない。掻くことのできない状況が、苦痛になっていく。

「起きたか、麝香」

 洗井の声だった。なにかスピーカーを通しているらしい。ノイズが混じっていた。

「てめっ洗っ……!」声を出したら、口の中になにか入り込んで、むせ返る。それでも口内に残った異物感に、唾を何度も吐き出した。

「あまり口を開けない方がいい。大量の蚊がいる部屋だ」

 唇にわずかな隙間を作って声を出す。「かゆみの拷問かよ。わざわざ蚊を集めたのか? 暇なんだな、鹿威会はよっ」

「お頭は、お前を拷問して言うことを聞く奴隷にしたところで、科学者と陰陽師の古文書を持って来れるとは思ってらっしゃらない。利用価値は一つしかないと言っただろ、腑抜けが」

 思った通りだった、最初から期待などなかった。霊利は考えの的中に、自嘲した。それから、続く洗井の言葉をただただ耳に通した。

「お前の頭で理解できるように簡単に説明してやる。そこに飛んでる蚊は、そこらのとは一味違う。かつてキョー都に鬼を生む疫病を流行らせ、陰陽師の研究により絶滅させられた蚊だ。どこまで本当か、お前にはそのモルモットになってもらうってわけだ」

 若返りの次は鬼か。霊利はおかしくなって小さく鼻で笑った。

「……っふ、俺が鬼になったらどうすんだ?」

「なろうが、なるまいが、お前はモルモット。実験が終われば、殺すさ」

 直後、スピーカーが切られた。そのあとは蚊の羽音と、かゆみで身じろぎする自身の音だけが、霊利の聞き取るすべてだった。

 どれくらい経っただろうか、次第にかゆみを感じなくなってきた。身じろぎの音が消えた。蚊が耳元を飛んでいることはわかったが、羽音も気にならなくなっていった。

 体が熱っぽい。それなのに、悪寒がしてがたがたと震える。あまりの振動に、新しい音を聞いた。座っている椅子が音を立てるほどの揺れだった。

 縛り付けるロープとの摩擦で、血が出たようだ。痛みはなかったが、鉄臭さが鼻についた。それがいつの間にか甘ったるい匂いに変わって、そこで急に、強い眠気に襲われた。霊利はそれに逆らうことなく、眠りについた。


 永遠は蒸発皿の上に残った粉末をしばらく茫然と眺めていた。あっけなかった。まず最初に浮かんだ感想がそれだった。

 龍閨鍾乳洞に軽く響く能呂研の議論や世間話。それらが遠く聞こえた。

 雪那と話した翌日、さっそく地下水に植物由来のケイ素粉末を混ぜたものを、四季澱を吹き込みながら火にかけた。

 水が蒸発して、残った白い粉末。そこに四季澱が含まれるか調べてみると、反応があった。一度だけではない。その後同様に繰り返した実験でも、四季澱を含んだケイ素粉末が残った。

 これが若返りの薬かどうかは現状でわからない。調べるべきことがたくさんある。人体への影響。反応が起こる正確な条件。構造も仔細に知りたい。

 けれども、永遠は粉末を見つめることに、長い時間を使い、新たな行動を起こせないでいた。観察から得られるものが少ないことはわかっている。ただ、あまりに急なことに、理解を追いつかせる時間が必要だった。

 そうこうしているうちに、ラビが鍾乳洞を訪ねてくる夕刻になっていた。

「じゃあ、明日こそはその粉、飲んだりするの?」

 永遠が実験の片付けをしながら、今日のあらましを話し終えると、ラビが疑問を口にした。永遠は思わず笑ってしまう。ラビの考え方も急だ。

「さすがにそんな危ないことしないよ。最初は実験用のマウスに投与してみるの。それからどんどんヒトに近づいていくの」

「あ、そいうの聞いたことある!」手を叩いて納得を見せるラビ。その視線が永遠から後方に逸れた。「あはれくん!」

 永遠が振り返ると、狐塚面白が近づいてきていた。

「やあ」そばまで来ると、狐塚は永遠に聞いてきた。「今日もあまり芳しくなかったかな? あまり動いてないように見せたけど」

「いや、それが――」

 永遠は昨日、意見交換をしたあとから、今日に至るまでの流れを狐塚に説明した。

「――へぇ、セレンディピティでケイ素に辿り着いたのか。それで、とりあえず四季澱を含んだ固体が完成した」

「今日はさすがに茫然として、粉末を調べる余裕がなくて、これが若返りの薬なのかはわからないですけど」永遠は小分けに粉末を入れた小瓶の一つをつまんで揺らしてみせた。そしてそれを狐塚に差し出す。「それに、共同研究なのに報告に行かなくてごめんなさい。これ、いくつか能呂研で使ってください」

「そっか」狐塚はまず永遠の持つ小瓶を受け取った。それからほかに五本の小瓶を取って白衣のポケットに入れた。「しっかり受け取ったよ」

「一応、明日はまずみなさんとちゃんと情報共有をするべきだと思うんですけど、狐塚さん、能呂教授にお話をつけてもらえますか? 能呂教授、わたしにいい印象を持っていないみたいなので」

「わかった。戻ったら話しておくよ。さすがに研究が進むとなれば、しっかり話を聞いてくれるだろう」

 狐塚は小瓶を入れたポケットを上から触る。

「それにしてもセレンディピティか。当然これまでの積み重ねがあってのことだろうけど、きっとこの幸運のほうが人夢さんを選んだんだろうね」

 ラビがけらけらと笑う。「あはれくん、なに急に? ロマンチスト? 似合わな~い」

「思ったことを言っただけだろ。笑うなよ」

「だって、あはれくん、だって……へへっ、幸運のほうが選んだんだろうね、ふへへへっ」

 さすがに永遠もたしなめる。「ラビ、笑いすぎ」

「だって、永遠。だってさ、あはれくん、そんなこと言うキャラじゃないし、ふふっ」

「ラビ、お前が見てるのは俺の一面にしかすぎないんだよ。先入観に囚われて、不忍としてはまだまだだな」

「んぱっ! そんなことないもんっ」

「あるから言ってる」

「ない」

「ある」

 ラビはともかく、狐塚まで子どものようになってしまった。永遠は二人から離れて、残っていた片付けを再開した。


 夜。永遠は昨日と同様に、夕食後に雪那のもとを訪れた。ただ、今回はラビとは病室に入る前に別れた。いまごろは、怪我の治り具合を診察しているころだろう。

 本来なら予定はなかったが、研究が進展したのだ。雪那に報告しない理由はない。電話やメッセージで早急に伝えてもよかったのだが、現物を見せたかった。

「水に溶けたケイ素が、四季澱を吸着してそのまま結晶となった。そう考えるのが自然かな? だとすると、水分が蒸発するまでは、四季澱もケイ素と一緒に水に溶けていたってことだろうか?」

 雪那は粉末の入った小瓶の上下を指で挟んで持ち、振ったり、いろんな角度から眺めたりしながら、興奮気味に言葉を口にしていた。

 その興奮は永遠にも十分理解できた。話す相手がいなかったため、声は発しなかったが、実験が成功した直後から永遠自身も同じ状態だった自覚がある。

「その辺は明日以降、調べていくつもりです」

「うん。それから、この粉がもたらす可能性もだね。ああ、うれしいけど、悔しいな。僕もその場に立ち会いたかった」

「まだまだ、これからが本番です。だからそれまでにちゃんと怪我、治してください、博士」

「今後はゆっくりで頼むよ。」雪那が自嘲した。「僕もそう若くないからね」

「そうやって思っているからいけないんですよ。脳科学の観点からいえば、気の持ちようは影響するものなんですから」

「わかってはいても、実践できないこともあるさ」

「……博士」

 永遠は目の前の雪那から、諦念のようなものを感じた。さっきまでの興奮は嘘のように消えてしまっている。負傷による弱々しさとは違うものが、雪那の中に燻っているようだった。いままでここまで弱った姿を見たことがない。

 どうにか元気付けることはできないだろうか。普段なら研究の話をすればいいのだろう。しかしいまは、研究に一つの結果が出たことに起因していると考えられる。

 別の話題が必要だ。永遠はしばし考えて、言葉を続けた。

「弱気ですね。あ、そうだ。博士の怪我が治ったら、サバゲーしに行きましょう。わたしも習った護身術を応用できるか試したりできますし」

「……そういうことなら、兎束家の人たちにも協力してもらうことになりそうだね。色々動きの確認とかをその場で教えてもらえる。ちょうどゼンとも食事の約束をしているんだ。リハビリとかして、それからキョー都にまた来て、その時にしよう。どうだろう?」

「いいと思います」

 永遠は優しく笑んで頷いた。だが、どうにも素直に笑えていない自分に気付く。雪那の言葉は、どこか上滑りしているような印象を受けた。内容は支離滅裂などではなく、はっきりとしている。それなのに、まるで用意された台詞を読み上げたような無機質感。

「博士、今日は帰りますね。ラビの診察もそろそろ終わる頃でしょうし。ゆっくり休んでください」

 本音ではあったが、これ以上弱った姿を見ていることが怖くなってもいた。それに、なんとなくだが、永遠がいることで雪那が苦しんでいるようにも思えてならなかった。

「ああ、うん。来てくれてありがとう」雪那は小瓶を軽く掲げた。「実験の成功も、おめでとう」

「はい。また来ますね」


「永遠ちゃん、どしたの? 博士となにかあった?」

 病室を出ると、夏穂が心配そうな顔で訪ねてきた。そんなふうに思われるような顔をしていたのだろうか。

「いえ」永遠は首を横に振った。「研究の話をしただけですよ。ちょっと疲れていそうだったので、早めに切り上げて……」

「そう?」

「はい。なので、帰ったら少し護身術教えてもらえますか?」

「もちろん、じゃ、行こっか」

 先に歩き出す夏穂。その背を見て、ほっとする。追及されなかったことに、安心した。

 一度、病室の扉を見やる。すぐに目を逸らして、夏穂を追った。

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