24:相違

 兎束家で夕飯を食べ終えると、永遠はラビ、それから夏穂とともにキョー都大学医学部附属病院を訪れた。

 雪那の病室の前まで来ると、夏穂が扉の脇に立った。「ウチはここで待ってるよ」

 永遠は頭を下げる。「稽古の時間だったのに、ごめんなさい」

 夏穂との稽古は、早朝と夜を基本にしていくことになっていた。研究の合間の自主練だけでは、成長の幅は小さい。なるべく多く時間を共有し、細かい指導を受けたいのが正直なところではあった。

 それでも研究への好奇心が勝る。それに、現在行っている龍閨鍾乳洞の調査も、永久にできるわけけではない。優先度はどうしてもこちらのほうが高くなる。

「いいって、永遠ちゃんの本分は研究だし。善治さんには護身術教えるための時間と護衛の時間を合わせてもらってるから」

 たしかに合理的な采配だ。兎束家の不忍の仕事は護衛だけではない。

 不忍家の大家である兎束家が、永遠や雪那の護衛に人員を割いたところで、キョー都の守護者としての働きがままならなくなってしまうことはないのだろう。それでも手を煩わせているのは事実だ。早々に自分の身は自分で護れるようにならなければ。

「あー、永遠ちゃんさ。もしかして、急いで強くならなきゃとか思ってる?」

 永遠の気持ちを見透かしたように、夏穂の目が覗き込んでくる。

「……はい。皆さんの時間を取ってしまうのは申し訳ないですから」

「はいはい、なるほどね」夏穂が腕を組んで、大げさに頷く。「そうだよね、それにいつまでもキョー都にいるわけじゃないもんね。焦っちゃう気持ちわかるー」

 打って変わって夏穂は真剣な眼差しで、永遠を見つめてくる。

「強い気持ちがあるのはいいことだよ、永遠ちゃん。けどね、気持ちだけで強さは手に入らない。時間をかけなきゃ、必要な筋肉もつかないし、考えなくてもうまく体をコントロールできる状態にはならない……って、科学者には必要のない説明だったかな?」

「いえ、ありがとうございます。夏穂さん」永遠はしっかりと夏穂を見つめ返す。「ですけど、時間を要さないことに関しては、効率的に進めたいと思ってます。それこそ科学者として、スポーツ科学系の分野の論文を読み漁ったりして」

「なるほどね、科学者らしく強くなると。こういうの聞くと、ラビじゃ永遠ちゃんの先生は厳しかったのかもって思うよね」

 ラビが首をかしげる。「なんで、夏穂姉?」

「だってラビは感覚的じゃん。永遠ちゃんは論理的な説明があったほうが、理解が深まるタイプだから、ラビが教えるとなると苦労するよね、永遠ちゃんが」

「やってみなきゃわかんないじゃん。ね、永遠」

「まあ、やってみないことにはね。それは研究でもいえることだし。けど、研究もある程度の予想は立ててからはじめるものなんだよね」

「……つまり?」

「夏穂さんの言うように、ラビとの稽古は抽象的になりそうだなって予想は最初から持ってた」

「抽象的……」

「例えばさ」夏穂が腑に落ちていないラビに付け加える。「ラビがバク宙を教えるとしたらどう教える?」

「えーっと……ぴょんってして、くるっ! タンって着地!」

「それが抽象的ってこと。どうやって跳んでるか説明できないでしょ?」

「説明? できないよ、そんなの。だってぴょん、くるっ、タンっでしょ? だめなの?」

「だめじゃないよ。ラビはそれでいいんだよ。ただ永遠ちゃんに教えるのが不向きってだけ」

「不向きかぁ」ラビが永遠に尋ねてくる。「怪我治っても、やらないほうがいい、先生?」

「夏穂さんに教わりだしてるから、途中からはやめたほうがいいかも。けど、わたしのなかでしっかりと形になってからなら、新しい刺激なっていいかも」

「トールのやつみたいに?」

「絡繰り織り? うん、そうだね。柔軟に新しいものを取り入れていくこと、わたしは何事においても大事なことだって知ってるから」

 そのとき、病室の扉がゆっくりと開いて、雪那が顔を覗かせた。

「僕の教えがしっかり伝わってて、うれしいよ。けど、ここは病院だよ。ほかの人の迷惑になるから、廊下で話し込むべきじゃないかな」

「ごめんなさい。いま入ります」

 永遠は夏穂に小さく頭を下げてから病室へと足を踏み入れた。ゆっくり体を労わりながら歩く雪那を、ラビとともに両方から支えてベッドまで誘う。

「無理させてごめんなさい、博士」

「あたしも、ごめんなさい」

「いいよ。公共の場でのマナーを説くのも大人の務めだからね」


 永遠はその日の調査の結果や、徹の家で感じたことを雪那に話した。雪那は聞き終えると深く頷いた。

「二酸化ケイ素……ケイ素か」雪那は永遠を見た。「セレンディピティは単なる偶然の発見というわけじゃない。経験や知識が基礎として身についているからこそ、重大なものを見出すことができる。永遠がいま取り組んでいる課題について、思考を巡らせているなか、そこに意義を感じ取ったのなら、追及してみる価値はあるだろうね」

「水晶鍋を使ったのかはともかく、陰陽師たちが祈りのなかで鍋に水溶性のケイ素と四季澱を加えた。それによってできた結晶が若返りの薬となる粉末」

「同じ14族の炭素で、結晶格子内に四季澱を包接できたのだから、ケイ素でもありえるかもしれない。ただ――」

 永遠は雪那の言葉を引き継いだ。「当時の技術力で可能かどうかがネックですね」

「うん。炭素への包接は現代科学があってこそ可能だった。そもそも人工的に食用の水溶性ケイ素を精製すること自体、かなりの技術を要する。植物が土壌から吸収したケイ素なら、たしかにその植物を食べることで、人間の体にも吸収される。陰陽師たちは植物性のケイ素を使ったのかもしれない」

「可能性が高いのは、穀物の籾殻とかですかね? ただ、だとしても、やっぱり籾殻からケイ素粉末を精製するにも当時じゃ難しい」

「当時どうだったかも気になるところではあるけど、ともかく、やってみるのは悪くないね」

「そうですね」

「ねえねえ」丸椅子に座り、踵の上げ下げをしていたラビが声を上げた。「水晶鍋使ってたかもってことはさ、陰陽師の人たち、ほかにも水晶持ってたかもしれないじゃん。それをガシガシ削って粉にして溶かしたんじゃないの?」

 永遠は微笑する。真剣な話の腰を折られたとは全く思わない。科学の世界に身を置いていないラビが出す意見は、正直に言ってしまえば見当違いなことばかりだろう。しかしそれを嘲笑うのは、科学者として恥ずべき行為だ。

 科学とは世界の理。特定の者だけに独占されるものではない。それを持って他者の優位に立とうと考えるなど、世界の一部にすぎない人間には手に余ることだろう。

 それに突拍子もない意見は、科学者だけではたどり着けない場所へと導いてくれることもあるのだ。

「ラビ」永遠はラビに答える。「水晶は水に溶けないの。ほら、水晶鍋で料理したときどう?」

「っぱ!」ラビが唇を鳴らした。「溶けちゃったら大変だ!」

「でしょ?」

「うんうん、なるほどね。あ、ごめん。続けて続けて」

「続けてといっても、ほとんど終わったようなものだよ。ラビちゃん」雪那も朗らかに言う。「ディスカッションの意味は所感と情報の整理、それから今後の進め方について話し合うことだから。あとはその今後の話をもうっちょっとするくらいだ」

 ラビが永遠に尋ねる視線を向けてくる。「そうなの?」

「そうだね。これ以上は疑問ばかりになって、複雑化するだけかな。自分たちで研究の難易度を上げる必要はないから。疑問ばかりで、どれから手を付けようか迷うくらいなら行動するべき。話し合いだけで研究は進まない」

「あ、それはあたしもわかる! やっぱ動くのが一番だよね!」

 快活に言うラビ。少々理解にずれがあるように思える。しかしラビらしい。病室の前で夏穂に言われたように、それでいいのだと思う。この物事の捉え方の相違が、永遠にとっても心地のいいものだと、いまは知っているのだから。


 麝香霊利は駐車場にとめた車の中から、病院の出入口をぼんやりと眺めていた。

 兎束ラビと人夢永遠が、建物の中に入った。ついさっき、いや、思っている以上に前かもしれない。二人の存在を見逃さなかっただけでも、いまの霊利にとっては上出来だろう。

 キョー都大学医学部付属病院には兎束家の不忍が常駐している。ここ三日、部下に様子を窺わせた結果、麝香霊利が得たものはその情報だけだった。

 情報と呼ぶにもふさわしくないかもしれない。部下たちは全くの無能だった。兎束邸から雪那俊也と人夢永遠を攫えたのは、鹿威会の精鋭たちの助力があったからだと痛感する。

 麝香組は衰退していた。全く感じてこなかった。祖父の霊示が、過去の繋がりも含めて、うまく回していたのだと知る。

 俺はじいちゃんの威光を借りていただけだった。じいちゃんがいなきゃ、なにもできない。

 三日前の決意はすでに消え失せていた。残っているのは喪失感だけ。あれだけ燃え上がっていた憎しみは、どこに行ってしまったのだろうか。

 もうどうでもいいことだ。もぬけの殻とはまさにこのことかと、霊利は何度目かわからない自嘲の息を漏らした。

 いまのところ、洗井をはじめとした鹿威会関係者からの接触はない。灰熊は死に物狂いで動くことになるといっていたが、そうはなっていなかった。そもそも霊利になど、期待していなかったのかもしれない。それでいい。俺のことなど忘れてもらって構わない。

 とりあえず、雪那俊也が入院している病院に来てみたはいいものの、侵入して攫うわけでもない。憎しみの対象だった二人もいる現状であっても、動こうという気が起きない。

 無気力に身を任せたまま、時だけが過ぎていく。

 しかしこうもなにもしてないというのに、空腹は訪れる。まともな食事を摂ったのは、あの日が最後だった。心なしか着ているスーツが、大きくなったように感じる。

 コンビニに行こうと車外に出る。途端、後部座席のドアに体を押し付けられた。動けない。完全に制圧されていた。

「なにしやが……」

 霊利は尻すぼみになっていく自分の声を聞いた。制圧者に顔を向けると洗井だった。それだけじゃない、物音を感じてあたりを見回すと、屈強な男たちが霊利の車を囲んでいた。

「麝香」洗井が冷たい声で言う。「やつれてる暇があるのか?」

 霊利は投げやりに鼻を鳴らし、病院の入り口を顎でしゃくった。「お前らが来てんなら、それで済むじゃん。行って来いよ。目的の科学者はあんなかだ。本なんざ、捕まえたあとに脅せばいい」

「お頭の命令を放棄すると捉えていいんだな?」

「麝香組は俺が頭だ……俺の上には誰もいねえ」

「爺さんの七光りで威張ってただけの小僧が。筋も通せねえなら、お前の価値はただ一つしかねえ」

「……価値?」

 問い返したが、返ってきたのは頭への強い衝撃だった。霊利の意識はそこで途絶えた。

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