21:教室
事件から三日後の早朝。軽いランニングから戻った永遠は、その足で兎束家の道場に向かった。
襲撃により破壊された箇所を、ブルーシートで覆われた本邸。それを横目に、池を有する庭園を飛び石を踏みながら進む。正面に縁側が迎える。窓は全て開け放たれていて、道場のなかまで見通せる。手前が板間、奥が畳敷きとなっていた。かなり奥行きがある。一個人の所有というより、公の施設なのではないかと思える。
飛び石が終わり、縁側の前に辿り着く。長く平らな
永遠はランニングシューズを脱ぎ、道場の中へ入る。背中を押すように朝の気を含んだ涼風が吹いた。まとわりつくような湿気はない。秋の清々しい空気だった。
清々しさを感じたのは、空気だけが理由ではなかった。道場は隅々まで掃除の手が行き届いていた。兎束家所属の不忍たちが、毎日欠かさずに早朝と夜に清掃を行っていた。今朝もそれが終わった直後なのだろう。
「あ、永遠来た!」
道場に入ってすぐのところで、ラビが足を肩幅に開いて、踵の上げ下げを繰り返していた。
永遠は問う。「ふくらはぎのトレーニング?」
「そう」ラビが運動を止めることなく答えた。「お医者さんに、やるならこのくらいのだけって言われちゃったから」
永遠の後ろから女の人の声がした。「やらないって選択肢がないのがラビだからね」
「夏穂姉、どうしたの?」
夏穂姉。ラビがそう呼んだ、ジャージを着たウルフカットの女性。何度か道場にいるのを見かけたことがあるが、対面するのは初めてだった。
永遠はラビのそばに移動して、二人の会話のやりとりを見守る。
「やらないって選択肢をとってもらうために来たの。永遠ちゃんの稽古はウチがつけるようにって、善治さんが」
「え、なんで? もしかして、この間の罰とか?」
「それも少しあるのかもって思ってる。現に調査のときの護衛をあずまっちが頼まれてたし。けど大部分は」夏穂がラビの眼前に指を突き出した。「ラビ。あんたが怪我してるのに、稽古なんてしようとするからでしょ」
ラビが運動をやめて、唇を鳴らした。「だって永遠との約束だから」
「まずは自分の体のことが最優先。ちゃんと動けないと、教えられるものも教えられないでしょうに」
「……それもそうだけど」ラビの顔が永遠の方を向いた。「どうする永遠?」
「えっと……」
正直なところ迷った。決意が揺らぐほどではないが、急な展開に即答できない自分がいた。三日前の車のなかでは、ラビが断るのならほかのところで学ぼうと思っていた。ただ、ラビに教わる気でいた永遠にとって、いまの状況は気乗りするものではなかった。
「緊張しなくても大丈夫だよ、永遠」永遠がためらっていると、ラビが体をくっつけてきた。それから夏穂に目を向ける。「夏穂姉、永遠はすっごい人見知りだから、あまりがつがつしないであげてね」
「がつがつって……ラビが言う? てか、意外。ラビと仲良くしてるのよく見てたから。永遠ちゃんてそういう感じなんだ。コンビニとかでも緊張しちゃう系?」
「あ、いや」永遠は首を横に振る。「そういうのは、大丈夫なんです。社会生活で必要な対人関係は平気で」
「社会生活で必要な対人関係……おもしろいこと言うね。あ、もしかしてこういうのも、馴れ馴れしい? どこまで踏み込めるか、まずそれ知りたいからさ、教えて」
「ちょっと、夏穂姉。それがもう、永遠にはがつがつだから」
「あ、でも!」
ラビが冗談っぽく笑って言ったことに、割って入るように永遠は声を上げた。自分でも驚くような大きな声が、道場に短くこだました。ラビと夏穂も何事かと永遠に視線を向けていた。
「ごめんなさい、急に大きな声出して。でも、あの、がつがつ来られるのはたしかにあまり好きじゃないです。それでも、ラビとあともう一人、いま仲のいい友達二人は、そういう距離の詰め方をしてくれたから友達になれました」
「じゃあ、ウチもそうすればいい?」
「……護身術の先生、ですよね」
「おっと、確かにそうだけど。寂しいこと言うね」
「あはは」ラビが声をあげて笑った。「うちに来たばっかの頃の永遠じゃん。あいたたた……」
脇腹をさすって屈むラビ。こらえながらも、まだ笑っている。その顔が夏穂を見上げる。
「永遠に悪気はないよ、夏穂姉。むしろ、平常運転。だから、怒らないで」
「ウチはこれくらいで怒りはしないよ。けど永遠ちゃん」夏穂が表情をわずかに険しくして永遠を真っすぐ見た。「人生のちょっとだけ先輩としてアドバイス、というか忠告。人との間に壁を作るのは誰しもあることだし、その壁の厚さとか大きさとかも人それぞれで構わない。けど、壁の触り心地はしっかり自分でコントロールできといたほうがいいよ。ときには柔らかく。硬いだけだと、不用意に敵を作りかねないからね」
「……善処します」
「またまた硬いなぁ。永遠ちゃんは顔が整ってるし、声質もパリッとしてるからね。結構突っぱねてる感じに受け取られちゃうと思うんだよね」
ラビが立ち上がりながら同意する。「あ、それわかるかも!」
「それと敬語。全部だめとは言わないし、当然TPOは弁えないといけないけど、会話のなかで、タメ口を少し混ぜてくといいよ。ぽろっと出たタメ口って、言われた方も意外と失礼とか思わないんだよね。むしろ、親密度上がったのかなって思える」
「夏穂姉は大学で心理学の勉強してるんだよ」
「心理学……救助した人の心のケアのためですか?」
「そうだけど、永遠ちゃんも興味あったりする、心理学」
「学術書とか、論文は少し読んでます」
「そっか、永遠ちゃん雪那博士の助手だもんね。もしかしたら、ウチより詳しかったりするんじゃない?」
「いえ、専門ではないので、そんなことはないと思います」
「ほんとかなぁ? あとで心理学談義でもしない?」
「いいいですね。いろいろ教えてください」
「うん、じゃあ決まり」夏穂が小さく笑った。「やっぱり永遠ちゃんはこういう話なんだね」
ラビが首をかしげる。「どういうこと?」
「興味があることならハードルが低くなるってこと。それに共通の話題でもあるからね。これはラビ以上に仲良くなっちゃうかも」
「えー、共通の話題がないのに仲が良いほうが、仲良しじゃないかな? どお思う、永遠?」
「仲が良いことを図る定規は話題だけじゃないと思うけど。例えば……」
言ってはみたものの、的確な答えがすぐに出ない。自分の交友の狭さを思い知る。
ラビと親交を深めるまで、雪那と真鶴家の三人だけが、永遠にとってパーソナルな繋がりだった。友人という意味では円だけ。いまも高校には在籍しているが、登校の頻度は少ない。まれに顔を出せば、クラスメイトの好機の目が刺さる。居場所があるとは言えなかった。
円には学校で友人を作れと、小学生の時から言われている。その気にはなれない。性格も手伝っているが、どこかで疎外されているような感覚があった。どこか知らない土地に立っていた、幼少期の不確かな記憶がそうさせているのかもしれない。自分ではそのように分析していた。
「……いい例えが浮かばないや」永遠はわざとらしく肩をすくめてみせた。「やっぱり夏穂さんにいろいろ教わった方がいいみたい。ラビ、ごめんね」
「ちょ! そのごめんはなんのごめんなの、永遠っ」
ラビもわざとらしく永遠に縋ってきた。キョー都に来た当初からは想像できないじゃれ合い。このキョー都訪問は、いつか人生を振り返ったとき、大きな意味が与えられるものになるのだろう。
「いいね、ほぐれてきた」夏穂が道場の中へ歩を進め、永遠とラビを振り返った。「けど、この場はコミュニケーション教室じゃないよね?」
夏穂の問いかけに、永遠は真剣な眼差しを返して頷いた。「はい」
夏穂が軽快に踊るのを、永遠はスマホで録画しながら見ていた。
夏穂のスマホから流れる曲。人気アイドルグループのダンスナンバーだと夏穂は言った。そういったものに興味のない永遠でも、街中やラジオで聞いたことがある音楽だった。
まずは体を思い通りに動かすところから。そう言って提示された練習がダンスだった。すぐに護身術の基礎から学べるものだと思っていた永遠は拍子抜けした。
曲が終わる。永遠も録画を止める。
汗一つかいていない夏穂が言う。「とりあえずこれを完璧に踊れるようになること。それからやっと基礎練習をはじめます」
「……」
反応が鈍くなる。正直に言うと、まだ腑に落ちていない。思わず壁際で胡坐をかくラビに目を向ける。
ラビが永遠の気持ちを代弁した。「夏穂姉、すぐに護身術じゃ駄目なの? みんながやってる教室だって、ダンスなんてしないじゃん。初弟子で浮かれてない?」
「初弟子だからちゃんと考えたの。永遠ちゃんにはこういう方法がいいんじゃないかなって」
夏穂が永遠の目の前に立つ。
「人って意外と自分の体とその動きのこと把握してないんだよ。例えば、これも一種の練習だから、自主練でやってほしいことなんだけど。永遠ちゃんまっすぐ立ってみて」
言われた通りに姿勢を正す。
「ちょっと前傾だね。やっぱ机に向かうことが多いからかな。まあそれは後々ちゃんと直していくとして、まずはその状態でいいから、目をつむって」
瞼をおろすと、夏穂から次の指示が出される。
「永遠ちゃん、いまラビがいるところを指さしてみて」
簡単なことだ。ラビは永遠から見て、左の壁際に座っている。正面を0度とすれば、左へ60度といったところだ。高低差と距離も考慮すれば、さらに下へ10度だ。左手でその方向を指し示す。
「はい、そのまま。目を開けてみて。当然ラビは動いてないよ」
永遠は困惑を覚えた。上下の位置は概ね当たっていたが、ラビは永遠の腕より左側にいた。たしかにそれは永遠が思い描いていた角度60度あたりの場所だ。
「空間の把握と記憶も関わってるから、一概に体の動きだけの質だけじゃないけど、正確じゃないのはわかった?」
空間の把握と記憶。夏穂はそう言うが、それらが永遠のなかで、ずれていたという感覚はない。記憶通りの場所にラビはいた。目測の角度も永遠の見当違いではなかった。つまりは、永遠自身が腕を60度の角度に広げることができていないということだ。
実際に体験しておいて否定するような負けず嫌いではない。永遠は神妙に頷いた。「はい」
「じゃあ、さっきのダンスを覚えるのと、いまみたいに目をつむった状態で正確に体を動かす練習。それが基礎より前の下地作りってことで、ウチの教室の教育方針は理解してくれる?」
「はい」永遠は夏穂に頭を下げた。「お願いします、夏穂さん」
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