20:約束

 その日も永遠を病院に預けた雪那。自宅の寝室で眠っていたところ、電話の呼び出し音に起こされた。夜も深い時間だった。

 電話の相手は真鶴だった。「雪那、すぐ来い。永遠ちゃんが!」

 眠気はすぐに吹き飛んだ。すぐ行く。それだけ応えて、雪那は家を飛び出した。

 真鶴病院に着くと、円の病室に直行した。

 部屋には円しかいなかった。普段見ない不安の色に満ちた円の目が雪那を捉えた。

「……雪那博士」

 弱々しい声。視線がわずかに動いた。その先にあったのは、血まみれのノートだった。毛布やシーツにも赤黒い血の跡が残っていた。

「円ちゃん、永遠ちゃんは? いったいなにが――」

 廊下から足音が聞こえた。すぐに扉が開いて、真鶴が姿を見せた。顎をしゃくる。

「雪那こっちだ」

 円への挨拶も無しに、雪那は真鶴のあとに続いた。早足で進む中、真鶴が状況を教えてくれた。

「円の病気の治療法を、ノートの力で見つけようとしたらしい。そしたら急に鼻血を出して痙攣を起こした。呼吸困難もあった。いま集中治療室で処置を受けてる」

「集中治療室? 大丈夫なのか」

「痙攣もついさっきようやく収まった。痙攣けいれん重積型急性脳症の可能性もある。詳しく調べないことには確定はできないけどな」

 さすがに病名だけ言われてもわからない。「だとしたら、永遠ちゃんはどうなるんだ」

「数日後にまた発作が起こるかもしれないし、後遺症が残ることも考えられる」

「そんな……」

「自分を責めるなよ、雪那」

「でも、僕がちゃんと指導しておけば。まさか僕らがいないところで能力を使うなんて」

「だから気負うなって。俺も不安にさせるようなことばっか言って悪かったからさ」

「いや、真鶴は医師として真っ当なことを言ったに過ぎないだろ」

「じゃあ、これは友人として、あと一人の親としてアドバイスだ」真鶴が足を止めた。集中治療室に隣接する部屋の前だった。「子どもの前で不安な顔をするな」

 部屋の扉をスライドさせ、真鶴が中に入っていく。雪那は真鶴の言葉を小さく反芻してから、彼に続いた。

 部屋は一方の壁が一面ガラス張りで、集中治療室の様子がわかるようになっていた。医療機器に繋がれ、静かに眠る永遠の姿があった。雪那はひとまず安堵した。周囲の環境を除けば、なんの変哲もない寝姿だ。近くに二人の看護師がいるが、どちらも落ち着て作業をしている。無駄のない動きだが、ゆったりとしている様子から、永遠の容態がそこまで危機的ではないのだと窺えるのは素人考えか。

「よし、俺が出るときより安定してるな」真鶴が横で表情を弛緩させた。「このままでいてくれることを祈ろう」

 まるで雪那の心を読んだかのような真鶴の言葉。しかしそれは、雪那を安心させるために口にしたのではないとわかる。表情から察するに、医師としてすべきことはすべてし尽くし、本当に祈るくらいしかできないのだ。

 雪那は再び永遠に目を向ける。心配は尽きない。それでも祈るところまで、真鶴は手を尽くしてくれたのだ。雪那もいまはただ、永遠の安否を祈って待つしかない。


 永遠は朝を迎えると、何事もなかったかのように平然と目を覚ました。すぐにでも話したいところではあったが、永遠は精密検査を控えていた。顔を合わせることができたのは、検査に向かう前のほんの一瞬だけだった。

 ようやく雪那が彼女と面会できたのは、病室に夕日が差し込む頃合いだった。またも永遠に異常はなかったっという。ただ、これから数日は、経過観察のための入院することは決まっていた。

 永遠は円の部屋ではなく一般病棟の個室へ移った。雪那と永遠、二人で話す場所が必要だろうという真鶴の配慮だった。翌日以降は再び円の部屋へ戻ることになっている。当事者二人がそれを望んでいることから、精神的にもその方がいいだろうという判断だった。

 雪那は部屋に入ると、ベッドのわきの椅子に腰を下ろした。円の部屋から持ってきていた、血に汚れたノートをベッドテーブルにそっと置いた。

 ノートに目を向けた永遠が、反省の色を見せる。「ごめんなさい、雪那さん」

「勝手に能力を使ったことにはたしかに怒ってるよ。でも僕のほうも謝らなきゃいけない。永遠ちゃんが、ノートを使うことは全く予想できなかったわけじゃない。好奇心と友達の、それも命に関わることのため。僕だって使いたくなる条件だ。保護者になったのに、これじゃ駄目だね。本当にごめん」

 橙色の静寂がしばらく続いた。それを破ったのは永遠だった。

「……それでも、雪那さんが踏み止まれるのは、つまらないより大事なことのおかげですか? わたし、まだ考えてて……」

「うーん……大事な人の命が危なくて、自分に助けられる力があるなら……正直、そんな場面に直面したら、僕も踏み止まれる自信はないよ。せっかく考えてくれてるのに、否定するようなことを言ってるよね。でもたしかに、いま永遠ちゃんが知ろうとしているそれは、つまらないより大事なことなんだ。ちゃんと見つけて、核として持っていてほしいんだ」

 無言で頷いた永遠がまっすぐと雪那を見た。「あの、雪那さん。わたし、もうノートは使わないようにします。もう、あの現象が発現してしまう原因もわかりましたし」

「本当に約束できる? 円ちゃんの病気の治療法も見つけられなかったみたいだけど。また使いたくならない?」

 雪那は赤く染まったノートを見やる。永遠に会う前に中を見たが、途中までしかノートは埋まっていなかった。必ず答えが見つかる。それがはじめて覆った。絶対的なルールではなかったということだろう。

「マルちゃんの治療法は、わたしが見つけます。必ずあることは、今回、わかったので」

 雪那は眉をひそめた。「それはどういうことだい? 今回、はじめて鼻血が出たけど、いままでとなにか違ったの?」

「違いました」永遠は断言した。「光が走る空間はいつもと同じでした。もうすぐ答えが出そうな感覚になった途端、光たちにノイズが混じりはじめて、いつもより苦しくなって、それから急に弾かれるような感覚に襲われて、これがはじめてで……気付いたら、目が覚めてました」

「なるほど……違うって実感もしっかりあるんだね…………」雪那は首を横に繰り返し振った。「違う、違う、そうじゃない。話が逸れちゃったね。永遠ちゃん、意地悪な質問をするけど、いいかい?」

 永遠が身構えて、小さく頷いた。

「もし円ちゃんが、いますぐにで治療をしないとって状態になったとしても、ノートを使わないって約束できるかい?」

「それは……」

 永遠は二の句を告げず、沈黙してしまった。瞬きの回数が増えて、視線があちこちに動く。ノートを使っているときに比べれば、可愛いものだ。

 しばらく永遠が思案しているのを待ったが、さすがに酷な質問だったかと、雪那は口を開こうとした。ところが、永遠がシーツを握る手に力を込めたの見て、思い留まる。

 永遠のつり目がちな目が、半ば睨むように雪那を見た。敵意や怒りはない。信念が乗って、それまでより大人びて感じる。

「つまらないより大事なことより、大事なことがあります」

 永遠が言い放った言葉は、雪那の中にすっと染み込んでいった。まるでその答えが収まるべき窪みが最初からあったかのように。

 雪那がなにも反応しないでいると、永遠は言葉を続けた。

「雪那さんもさっき言いました。大事な人が危険な状態なら、踏み止まれる自信がないって。命が優先される事態なら、つまらないも、まだわたしのわからない大事なことも無視していいと、わたしは思います」

 ノートを使わないことにすると言っておきながら、身勝手なわがまま。永遠に聡明さの欠片もなく、ただちに屁理屈的にこの反論をしてきていたなら、そう思ったところだろう。ただ、いまは違うといえる。

 永遠が考え抜いて導き出した答え。それが重要だった。ここで、金輪際ノートを使わないと強い意志を持って答えたのであれば、それでもよかった。意志がないあやふやな状態で付け焼刃で出した答えと、情動と思考のせめぎ合いのなか絞り出した答えは、まったくの別物だ。

 雪那は永遠の目を見て頷いた。

「その通りだね。人生のなかで、誰かの命を優先すべき事態とはどこかで遭遇する。必ずね。その時は永遠ちゃんも全力で挑んで解決してほしい」

 世間知らずのきれいごと。子ども特有の不完全な完璧主義。実力が伴わなければ、そういわれても仕方がない。無謀に思える行動も、実行可能であるなら蛮行にはならない。

 永遠は戸惑いを見せた。「あの、ノートを使わないことを約束できるかを聞かれたのに。それなのに、わたし……」

「いいんだよ永遠ちゃん。誰しも矛盾を抱えて生きていくものだ。大切なのは、その矛盾とどう付き合うか、だと僕は思うよ」

「でも、わたし、やっぱり使うべきじゃないと思います。今回、たくさん迷惑をかけて、心配も……」

「永遠ちゃん、ノートの能力はたしかにあまり使うべきじゃない。そもそもそういう理由で今回の検証だってはじめただろ?」

「はい」

「でも永遠ちゃんは、円ちゃんが危険な状態だったらノートを使うべきだと答えを出した。それが間違いだとは、僕は思わない。大いに賛同できる。むしろ、救えるのに実行しないなんて、科学者以前に人としてよくない」

 永遠は真剣に、雪那の言葉に耳を傾けてくれている。

「だから永遠ちゃん」雪那は永遠に微笑みを向けた。「ノートを使うにあたってしっかり約束事を決めよう」

 かみ砕くように永遠がつぶやいた。「約束……」

 その言葉が永遠の中に溶け込むのを待って、雪那は永遠に提案する。

「ノートは差し迫ったときだけ、科学の楽しみを奪う使い方はしない。これが約束できるかい?」

「ノートは差し迫ったときだけ……科学の楽しみを、奪う使い方はしない……」

 端的で抽象的。雪那は差し迫った状況も楽しみも、具体的な提示はしなかった。永遠は考えなければならない。能力を持つ者の責任として。そして永遠ならばそれができると雪那は信じている。

「これからも能力についての理解を深めて、そのうえでちゃんと考えて、永遠ちゃんが本当にノートを使うべきときだと思わない限り、使っちゃいけない」

 雪那は永遠に小指を差し出す。

 それを見た永遠は首を傾げた。これが意味していることがわからないようだった。

「約束をするとき、小指同士を結ぶんだ。知らないかい?」

「知りませんでした……」

「そっか、ごめんね。考えてるのに余計なことを」雪那は出した手を引いた。「しっかり考えて」

 それから無言の時間が続いた。部屋を染める赤みが落ち着いていくなか、永遠の思考時間を待つ。

 衣擦れの音が静かに、沈黙に区切りをつけた。永遠の小さな小指が、雪那の前に差し出された。

 永遠が五歳とは思えない芯の通った声で言った。

「約束します」



「約束します」

 永遠の立てた小指が眼前にあった。

 また過去を思い耽っていたようだ。雪那は永遠に頷き返し、あの日より大きくなった小指に、あの日とさして変わらない自身の小指を絡めた。

 永遠が心配を覗かせる。「痛まないですか?」

「これくらいなら平気だよ」

 ふたりの小指が離れていく。

 永遠が小さく笑う。「また病院での思い出が増えました」

「さっきも思ったけど、いまみたいのを思い出と言っていいのかい?」

「ただの記憶とするのか、思い出にするのかは人それぞれですから、いいんです」永遠が立ち上がった。「それじゃあ、博士。わたし行きますね。とりあえず龍閨鍾乳洞の現地調査してきます」

「調査の許可をとる手続きをするなら、僕の名前を使っていいからね」

「はい」

 笑みを湛えたまま頷くと、永遠は雪那に背を向けて扉の方へ歩きだす。その後ろ姿を見送っていると、なぜだか寂寞を覚えた。独り病室に残されるからではない。保護の対象だった女の子はもういないのだと思わされた。

 不変のものがあるからこそ、変化がより顕著になる。

 まだ未成年ではあるが、永遠は多くを経験し成長した。雪那の助けがなくともたくさんのことに挑戦できるようになった。もともと多くの場面で、永遠の意思を尊重するように心がけてきた。それでいて、本当の親ではないからこそ、間違った道に向かわないように気を付けてきた。

 我ながら立派に育てたと思う。喜ばしい。一方でそれは、自身の衰えを感じる要因のひとつでもあった。

 十二年前、あの約束の日から数日、永遠は検査のために入院した。心配された発作も、後遺症もみられず、今日まで健康そのものだった。対して雪那は、この十二年で腰が頻繁に痛むようになっていき、サバゲ―に興じていたころのような動きもできなくなっていった。研究も休憩を挟みながらでないと、考えがまとまらないことが増えた。

 麝香組のビルで、麝香霊利から永遠を守ることができなかった。若さはもう戻らないが、雪那が普段から鍛えていれば、結果は違ったかもしれない。

 身を守るためのすべを学ばなければと、永遠に思わせたのは、雪那が頼りなかったからに違いないだろう。

「それじゃあ、博士。また来ますね」

「うん、また」

 閉まっていく扉で遮られていく永遠に、小さく手を挙げて応えた。

 扉が閉まり切ると、脱力して半ば落とすように腕をベッドに降ろす。ゆっくりベッドに倒れ込み、体重を預ける。長く息を吐く。

 長いこと上体を起こしていただけで、かなりの疲労感だった。年齢と怪我の相乗効果は、思った以上に大きかった。

 さっきも腕を上げただけで激痛が走った。強がる必要はどこにもないにも関わらず、永遠には平然を装ってしまった。頼りなさを払拭し、保護者であることを、示したかったのかもしれない。そんな自分のことを、雪那は情けないと思った。

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