18:科学への向き合い方

 病院での検査の結果、永遠に異常はみられなかった。その日はそのまま家に帰り、永遠をしっかり休ませた。

 雪那は深夜にひとり、彼女がノートに書いた内容の検証を行った。結論からいえば、全てノートの通りだった。

 驚愕とともに困惑を覚える。いったい、人夢永遠という少女は何者なのか。なぜこんな芸当ができたのか。彼女のことだけではない、雪那自身のなかにも、もやもやとしたものがあった。

 雪那はノートの傍らに置いてあった、インフィニティキューブを手にした。椅子に腰かけ、天井を見上げて弄りはじめる。

 研究にひとつの結果が出た。その紛れもない事実が、どうにも受け入れ難い。多くの人の役に立たないとわかったからではない。普段なら、そういった成果が得られなくとも、ひとつの事実が知れたことに快感に似た喜びを感じるものだ。

 キューブの回転がぎこちないことに気付く。壊れたわけではない。指先に変に力が入っているせいだ。そう気づいて、雪那は大きく息を吐いた。

 腑に落ちてこない。落とし込めない。苛立ちに似た不機嫌さが湧いてくる。その理由を知りたい。

 仮に永遠が数多の研究において、今回のように結果を導き出せるというのなら、科学はあり得ない速さで進歩することになるだろう。多くの人が多大な恩恵を享受できる。科学を生業としている者にとって、それほど望ましい世界はない。

 ただ、それでいいのだろうかと疑問が浮かぶ。それが雪那の正直なところだった。

 新たなことを知れる喜びは、なにに起因しているのか。考えるまでもなく、試行錯誤だ。あらゆる可能性を考慮し、成功と失敗を繰り返す。その探求の先に幸運が待っているとは限らない。それでもこれまで多くの科学者が、好奇心を推し進めてきたのだ。

 ときには志半ばに、命を落とすことさえある。しかし研究への好奇心は、途絶えない。必ず同じ好奇心を持った科学者が現れ、研究は紡がれていく。そうして科学は発展を続けてきた。

 雪那はキューブを回す手を止める。

 そうだ、これは冒涜ともいえる行為だ。科学そのものと、繋いできた科学者たちへの敬意を欠くことだ。科学の発展がもたらす恩恵を差し置いても、行使されるべきではない。これが雪那のなかで燻っていたものか。

 聡明な永遠ならば、使うべきではない理由については理解してくれるだろう。しかし、永遠は今回のことははじめてと言っていた。なにが起きたのか、彼女自身も不安だろう。それにあの異常な挙動と発熱。おおよそ、それらがこの能力と関係があるように考えられるが、まだはっきりとはしていない。

 意図せず使用してしまうことや、永遠の体のことを考えたら、あの現象が起こってしまう原因は、調べておかなければならないだろう。


 翌日、雪那がキッチンで朝食の準備をしていると、永遠は普段通り起きてきた。問題はなさそうに見えたが、雪那が体調を気遣うと、浮かない表情を見せてダイニングテーブルの椅子を引く。

 椅子に登るようにして座った永遠に、雪那は心配して尋ねる。「どこか、痛かったりするかい? 気持ち悪かったりする?」

 永遠は首を横に振った。しかし表情は沈んだままだ。雪那は用意した子ども用のシリアルを永遠の前に運び、隣に座った。

「あの、昨日の実験……」

 言葉を詰まらせ、永遠は机に視線を落としまま黙り込んでしまった。なにかを伝えたいという意思は感じ取れる。どのように言葉にしたらいいのか、考え込んでいるようだった。

「じゃあ、僕から話していいかな?」雪那は助け舟を出すつもりで明るく言って、永遠の返事を待つことなく続ける。「昨日の実験ね、永遠ちゃんのノートの通りだったよ」

 永遠が雪那を見た。雪那は視線を合わせながらも、言葉を止めなかった。

「ごめんね、永遠ちゃんが寝たあとにひとりで検証しちゃった。再現検証も研究の醍醐味の一つだからね、今日まで待ってられなかったんだ、わくわくしちゃって」

「でも、雪那さん。あれは……! あれは、だめです」

 だめとは、雪那が科学に対して思ったことと同じことなのか。言葉にできなくとも、すでにそこまで考えが及んでいるのか。もしそうであるならば、自ずから明言化できるほうがいい。そこまで導くのが先達の科学者の務めだろう。雪那は永遠に真意を問う。

「だめ? なにがどう、だめだと思うんだい?」

「……えっと、なんででしょう」

「研究に向き合うときと同じだよ。考える時間はいっぱいある。焦らずゆっくりでいいから、考えてみて」雪那は白衣のポケットに入れていたインフィニティキューブをテーブルに置く。「よかったら使って」

 永遠の手がキューブに伸びる。両手で包むように持って、ゆっくりと弄りはじめる。断続的にキューブの動く音が鳴る。

 しばらくして、永遠の手の動きが止まった。

「つまらない、からですか? 考えるのが面白いのが研究なのに」

「たしかに、研究を一瞬で終わらせちゃうのは面白くはないよね」

 研究を楽しむ心を持っているのはいいことだし、そこに考えが及んだのは素晴らしいと思う。ただ、雪那としてはもう一歩踏み込んでほしいところだ。さすがにそこまで求めるのは酷だろうとも思うが、雪那は好奇心のままに問いを続けた。

「それだけかな?」

「……えっと、はい」永遠頷いたが、すぐに不安そうな顔を雪那に向けてきた。「あの、もっと大事なことがありますか?」

「うーんとね……」

 雪那は悩んだ。この場で伝えるべきか。自力で辿り着いてもらうべきか。今朝までは教える気でいたが、いまの状況になってそうしなくてもいいとも思えてくる。考えて答えが出せる子には、考えさせた方がいいだろう。

 永遠はまだ五歳。科学の道に進むにしても、向き合い方や過去への敬意は、その過程で培っていくべきか。

「実はあるんだ。でも、永遠ちゃんには、それを自分で見つけてほしいと、僕は思ってる。いま、つまらないって思ったのと同じでね」

「つまらないより、大事なこと……」

 永遠は不安顔を思案顔で変えて、キューブを再び動かしはじめた。しかしその手がすぐに止まる。思考が終わったわけではなさそうだ。ぐぅと永遠のお腹が鳴った。

「……朝ご飯、食べてもいいですか」

 雪那は思わず笑った。「うん、もちろん」


 永遠の両親捜索のため、彼女が知る地名を頼りに、その近辺の住民に話を聞いて回った。昼下がり、雪那と永遠はなんの成果もなく帰路についていた。

「だめではあるんだけど、だからこそ、今回の現象をしっかり知っておかないといけない。永遠ちゃんの体のためにも」

 雪那はレンタカーを運転しながら、助手席の永遠に現象について調べる必要があると伝えた。永遠はインフィニティキューブを弄りながら聞いていた。つまらないより大事なことをずっと考えているようだ。

 永遠が手の動きを止めて視線を向けてくるのを、雪那は横目で感じた。

「わたし自身の研究ってことですか?」

「まあ、そういうことになるね。おそらくノートが一番の原因だとは思うけど、ほかにもいろんな要因があるかもしれない。どんなときに起こるかわかってないと、いつ倒れちゃうかわからない。それに急激に高熱が出たと思ったらすぐに下がった。そんなことが頻繁に起きるとなると、体に負担がかかるのは、医者じゃなくてもわかる」

「これからすぐに病院ですか?」

 信号で停車する。

「うん。真鶴に協力してもらう。けど、今日すぐに検証しなくても大丈夫だよ。永遠ちゃんのペースで。それにもし、やりたくないって言うなら、それもちゃんと尊重する。あくまで、大人としてのアドバイス。知っておいた方がいいよって。それを聞いて決めるのは永遠ちゃんだよ」

「雪那さんの好奇心は?」

「え?」思わず永遠の方を見た。見透かしたような大人びた目があった。「あ、ああ、そうだね……ないといえば、嘘になるかな。ごめんね」

 永遠が目を細めて笑った。「いいえ、わたしもちゃんと知りたいので、大丈夫です。あ、信号変わりましたよ」

 永遠に指摘され、あたふたしていると、うしろのトラックからクラクションを鳴らされてしまった。発進して、ハザードランプで謝罪の意を伝えた。


 医療法人真鶴病院。真鶴が若くして父から院長を引き継いでから、すでに六年。真鶴の父の代より、業績が上回っていると聞く。医師としての技能もさることながら、その経営手腕には、雪那も友人としても驚かされていた。

 清潔感のある白を基調とした院内。雪那は永遠とともに渡り廊下を進み、一般病棟から臨床研究センターと呼ばれる建物へと入った。

 永遠が不思議そうに雪那の顔を見上げた。「このあいだとは違うところに行くんですか?」

「うん」雪那は頷く。「臨床研究、ざっくりいうと医学系の研究をしてるところだよ。色々設備も揃ってるうえに、なにかあってもすぐに真鶴たちが対応できる。真鶴と志歩さんには、円ちゃんって娘さんがいるのは話したよね」

「はい。治療方法が見つかっていない病気だって聞きました。もしかして、わたしがその方法を、あの現象で発見できるか検証するんですか?」

「ゆくゆくはそうするかもしれないね。でも、今日はまず、どうしたらあの現象が起きるのかをいろいろ試してみよう。ノートを見たからだとしても、ノートの種類とか状態とか、挙げられるパターンはたくさんある。永遠ちゃんのその時の状態とかもね。それから、また苦しくなって発熱するのかとか、そうなったあと、昨日みたいにすぐ治るのか。今日は発熱したらその場で、すぐにデータもとれるし……ごめん。永遠ちゃんが疲れたり、いやだと思ったらすぐにやめるから。永遠ちゃんの体調が一番だよ、こんなに語っておいて説得力ないと思うけど」

「さっきも言ったじゃないですか、わたしは大丈夫です。それに楽しみなのはわたしも一緒です」

 たしかに永遠が無理をしているようには見えない。苦しさは一度体験しているが、それよりも好奇心が勝っている。しかし雪那と永遠の好奇心には違いがある。正確に言えば、基礎にある大人と子どもの経験の差だ。

 人の成長には好奇心が大きく関わってくる。未知に対して、好奇心から行動を起こし、経験を蓄積させていく。特に自身に危険が及んだことは強く記憶する。生物として、危険を覚えておくことは生存に直結する。当然、人間は知性を持ち、危険を承知で好奇心を推し進めることもある。ただし、どこまで進んでいいのか、引き際を見極めるには相応の経験が要求される。

 これも科学を繋いでいくことに似ている。大人は自らの経験から、子どもが取り返しのつかない過ちを犯す前に止める責任があるだろう。経験させるべき失敗と、引き留め教育するべき失敗。

 すでに永遠とは、研究の手伝いをさせるうえで多くの約束を交わしている。理解も深いと感じる。しかし大人びていようとも、経験が豊富なわけではない。見極めるのは雪那の務めだ。

「僕ら大人が見ていてあまりに危ないと感じたら、そのときはちゃんと止めるから」

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