17:発熱

 十二年前の初夏、雪那は永遠とともに、四季澱粒子の崩壊と不活性に関する実験を行おうとしていた。

 四季澱濃度に一定以上の差がある二種類の空気用意し、それらを同じ空間に入れる。すると高濃度側の四季澱粒子が崩壊し、エネルギーを放散させる。このエネルギーを利用するのが四季澱発電だ。

 この方法で濃度差がなくなってできた空気の四季澱濃度は、最初に用意した二つのおおよそ中間になる。もちろん、この空気も再び発電に利用することが可能だ。最初の二種類の濃度とそれぞれ反応させ、新たな中間濃度の四季澱を含む空気ができる。その空気も当然利用可能なので、差が一定以上になる組み合わせを永久に作り続けることができる。

 しかし永久機関の完成とはならなかった。四季澱粒子のなかには崩壊のほかに、発電を繰り返すことで不活性化するものがあった。液化四季澱をキョー都から継続的に輸送しているのも、これが大きな理由だった。

 不活性四季澱が一定量に達した空気は、不活性四季澱が一切ない他の濃度の空気と一緒にすると、濃度の高低にかかわらず、活性四季澱のエネルギーを奪いながら崩壊する性質を持っていた。この反応ののち、空気の四季澱濃度は二者の中間になるが、残った四季澱はすべて不活性化したものになってしまう。

 発電施設では四季澱の不活性を検知すると、その空気を外へと廃棄する。四季澱は大気中にて希釈され次第に分解される。これは大気中に常に四季澱を含むキョー都でも同じで、廃棄する空気の四季澱があまりにも少量のため、そこで反応が起こることはない。

 雪那の目下の目標は、四季澱の不活性化の抑制だ。なるべく不活性四季澱にならないようになれば、それだけ長く発電に使えることになる。液化四季澱の輸送回数や量を減らすことができれば、コストを抑えられる。それはつまり電気料金の値下げに繋がり、多くの人にとって恩恵となる。

「雪那さん」雪那の自宅の研究室、五歳の永遠が実験装置の準備を終える。「これでいいですか」

 永遠が助手として研究を手伝いはじめたのは、雪那のもとへ来てから二週間ほど過ぎたころからだった。

 五歳の少女を研究の場に立たせるのは、通常であれば憚られることであったが、永遠の場合は違った。

 ものの仕組みを理解する能力。道具を使う手つき。科学談義から興味を持った本の読破。科学知識の早急な吸収。安全への理解の深度。なにをとっても、大人の研究者と遜色なかった。それでいて永遠本人も、住まわせてもらうなら手伝いますと言ってきかなかった。

 もちろんむやみに助手をさせたわけではない。手伝いをするにあたって、多くの約束事を決め、危険が伴うことは一般的な学生が行える範囲にとどめた。

「うん、問題ないね」永遠の準備したものを確認して雪那は頷いた。「じゃあ、このノートを使って」

 新品のノートを渡す。雪那が学生時代から愛用している、無地のノートだ。新しい実験をするときは、必ず新品をおろすのが雪那のこだわりだった。それに罫線がないことで、思考の自由度が増すように感じる。

「はい」永遠がノートを受け取る。「タイトルは、空気の組成の違いによる四季澱発電における四季澱粒子の動向観察、でいいですか?」

「うん」雪那は壁際へ向かい、永遠に背を向けながら実験に使う気体の準備をする。「研究の目的は四季澱粒子の崩壊、または不活性化の阻害もしくは遅延による四季澱発電の長期運用化。最初は窒素の量を抑えつつ、酸素濃度を上げていこうか」

「わかりました」

 永遠が椅子を引いたのがわかる。ノートを広げペンを手にする気配を感じた。実験のタイトルや目的をノートの一ページ目に書くのが、雪那のやり方。それは永遠にも教えてあった。彼女が雪那の代わりにそれをするのは、今回がはじめてだった。

「空気の組成――」

 ぴたりと永遠の声が止んだ。筆記する音は聞こえた。最初だけ口に出しながら書きはじめたのだろうと思った。しかし、なかなか筆記音が止まる気配がない。むしろどんどん早くなっていく。

 不思議に思って雪那が振り向くと、永遠の左手が半ば書き殴るような荒々しさでノートの上を動いていた。それだけではない、一定のタイミングで右手がページを繰っていた。

「永遠ちゃん?……どうし――!」

 永遠の隣まで移動して覗き込むと、雪那は目を瞠った。

 動きの荒さのわりにきれいな普段の永遠の文字が、ページを埋め尽くすように書き込まれていた。いまもなおだ。止まることなく、ページの余白を埋めていく。時折、図表を交えながら、まるでプリンターの用にノートにインクを落としていく。

 しかもノートに記されていくのは、いままさに行おうとしていた実験の内容のようだ。未来でも見ているのかと雪那は思った。まだやっていない実験の、試行過程を辿っている。もしかしてこのまま結果に行き着くというのか。

 永遠の呼吸が荒くなっているのを聞いた。雪那はすぐに永遠に目を向けた。すぐに異常事態だと気づく。

 永遠の焦点はノートに合っていなかった。どこか遠くを見るようにしながら、小刻みに上下左右に動く。

 永遠の肩を置き、呼びかける。「永遠ちゃん! 永遠ちゃん!」

 反応はなく、異常な行動を継続する永遠。雪那は永遠の肩から伝わる体温も異常だと判断する。かなり高温だった。なにが起きているのか、さっぱりわからない。ただこのまま放っておくのは、どう見ても危険だ。

 雪那はすぐに真鶴に電話かけた。繋がると、永遠の様子を見ながら状況を伝える。

「真鶴! 永遠ちゃんが、すごい熱だ。汗もおかしいくらいに噴き出てる。呼吸が荒いし、瞳が痙攣してるような挙動で、焦点も合ってない。それからすごい勢いでノートに、あっ!」

 永遠が急に脱力して、うしろへ倒れはじめた。雪那は咄嗟に支えた。

「永遠ちゃん!」

 返事がない。完全に気を失っているようだ。

「永遠ちゃんが倒れた。意識もない。まだ熱いし、呼吸が苦しそうだ」

「救急車は俺が手配する」真鶴が冷静な声で告げる。「楽な姿勢にして、後頭部を冷やすんだ。もし熱を測って38度を超えてるようなら、脇の下か股の付け根も冷やすといい」

「ああ、わかった。ありがとう。真鶴」

 雪那は電話を切ると、永遠を抱き上げて彼女の寝室へと運んだ。ベッドに寝かせると、すぐにキッチンへと向かう。ビニール袋に、冷凍庫から氷を入れる。そこに水を加える。即席の氷嚢の完成だ。これを直接肌に当てるのは、凍傷を起こす可能性がある。タオルに包んで永遠のもとへ戻ると、彼女の後頭部に枕の代わりに差し込む。

 体温計を探しにもう一度永遠の部屋を出る。たしかリビングにあったと記憶している。前回使ったのはいつだっただろうか。

 大人になってから、体温計を使う機会はめっきり減っていた。子どもが大人に近い免疫を得るのは、小学生に上がる六歳ぐらいだだと聞いたことがある。永遠はまだ五歳。いや、免疫は関係ない。病気はいつなんどきでも罹るものだ。自分だけならともかく、子どもとともに生活するということは、こういったことにも気を配らないといけない。落ち着いたら常備薬なども整理しておく必要がある。

 体温計を見つけ、リビングを出ようとして雪那は足を止めた。リビングの入り口に、永遠が立っていたからだ。それも、申し訳なさそうな顔をしながらも平然と。

 雪那は永遠に近寄って、様子を確認する。「……永遠ちゃん、大丈夫なのかい?」

「あの……わたし、どうしたんでしょうか? 苦しくなって……気付いたらベッドにいました」

 覚えていない。いや、当然かと雪那は思い直す。あれだけ高熱が出たら意識だって朦朧とする。ただ、ならいま彼女はどうしてこうも平気な顔で小首を傾げているのか。

「ちょっと、ごめんね」

 雪那は永遠の額に手を当てた。驚いたことに、発熱が収まっていた。呼吸も乱れていない。

「とりあえず、病院には行こう。救急車もすぐ来るから」

「……はい」

 頷いて返事をした永遠の顔は不安の色だった。久しぶりだと雪那は思った。まだ日は浅いが、永遠はここへやってきて二日目には、不安を覗かせることはなかった。五歳なりに強がっているのか、興味をそそられる対象を見つけ和らいだのか、定かではないが、もとより不安を抱えているところに、新しく負担をかけるわけにはいかない。少しでも抱えるものを軽減してやりたい。

「永遠ちゃん」雪那は永遠の目をまっすぐ見つめた。「なにがあったか話すから、聞いてくれるかい」

 永遠は聡明な子だ。変に子ども扱いする必要はないと、雪那はもう知っている。はぐらかすことなく、あったことをそのまま話しても理解してくれるだろう。

 頷くことなく見つめ返してくる永遠に、雪那は彼女がノートに向かってからのことを教えてあげた。

「あ、ノート!」永遠が急に踵を返して、走り出した。

 雪那が慌てて彼女を追うと、向かった先は研究室だった。永遠が広げたノートを持ち、雪那に見せるように体の前に突き出した。

「雪那さん、二酸化炭素です!」

 一瞬なんのことを言っているのか、わからなかった。いいや、わからないふりを自分自身にしていた。そんなことはあり得ないと、言い聞かせていた。

 永遠が倒れたおり、雪那はノートの最終ページを目にしていた。

 四季澱粒子の不活性化を遅らせるには、二酸化炭素の濃度を上げればいい。一瞬だったが、それが結論として書かれていたのだけは読み取れた。

 いま改めて永遠から向けられているノートを見れば、より詳細に書かれていることがわかる。『発電量が落ちるが、不活性化するまでの発電回数が増える』とあった。これだけならいいのだが、そのあとに『しかし総発電量は、通常の空気での発電量に及ばない』と続いていた。もしこれが本当なら、この研究が直接的に多くの人へ恩恵を与えることはないだろう。

「永遠ちゃん、これはあとでちゃんと検証してみよう。その価値はある。けど、なんで永遠ちゃんはこれを書けたんだい? もしかして、見て仕組みがわかるってやつかな? でもそれなら、どうして見てわかったときに言ってくれなかったの?」

「違います、雪那さん。それとは違います」首を横に振って否定すると、永遠は思案しながら続けた。「えっと……わたし、立体的な電気回路サーキット? 脳のシナプス? みたいな場所にいました。そこでなにかかしてたわけじゃなくて、たくさんの光の粒が、飛び交って線を引くのをただ見ていました」

「……幻覚を見てたのかい?」

「……わかりません。ごめんなさい」

「いや、いいんだよ。わからないことを追い求めるのが科学者だ。えっと、じゃあその光の粒が飛び交う空間? そこにいたときは苦しさは感じていたのかな? 永遠ちゃんは、自分が倒れちゃったのと、それが関係あると思うかい?」

「こんなこと、はじめてで――」

 サイレンの音が聞こえてきた。研究のことも、永遠の体験のことも興味深い。しかしいま一番大事なのは永遠の健康だ。

「とりあえず、検査しに行こう、永遠ちゃん。体の方が大切だ」

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