第二章
16:病室
カーテンの隙間から病室に差し込む朝日に目を細める。その動作に顔が痛む。病院で治療を受け、一夜を過ごした。雪那俊也はベッドの脇に立つ兎束善治に目を向ける。善治は長身を折り、深々と頭を下げている。
「もうやめてくれよ、ゼン。責めたりなんかしないから」
「いいや、トシ」善治の頭が上がる。「そうはいかないだろ。不忍の長としても、友としても」
相変わらず責任感が強い。多くの者が彼に信頼を寄せる所以だ。いまのように頑なになるときがあるのが玉に瑕だが、それは一つの愛嬌だろう。長い付き合いだ。こうなったとき、どうすればいいのかは心得ている。
「じゃあ、お詫びとして、今度、ご飯奢ってよ。キョー都の名店」
「もちろん」
「永遠も一緒だよ」
「当然」
「うん、じゃあそれで手打ち。いいね」
「ああ。二人の怪我が治ったら、必ず」
どうしても責めを負いたがる人には、こちらが補償案を提示するのが一番だ。それも、明確にこちらがそれで納得するという意思が伝わるように。それ以上になにかを差し出そうとするならば、それはせっかくこちらが出した案を無下にするということ。打算なく本気で責任を果たそうとする者なら、これでその話を終わりにできる。
「じゃあ」善治の表情から申し訳なさが消える。「本題に入ってもいいか、トシ」
「いいよ」雪那は苦笑を返す。「本当はもうちょっと休んでからにしてほしいけどね」
「悪い」謝罪の言葉を口にしながらも、善治はメモ帳を取り出して仕事モードだ。「じゃあ、わかる範囲で時系列に沿って状況を教えてくれ」
雪那は兎束家の客間で寝ていたところから、救出に至るまでの経緯を善治に語りはじめる。すでに麝香組という極道の犯行だったことは明らかになっている。だからこそ雪那と永遠は、こうも早急に救出されたのだ。
兎束家ならそう時間をかけずに、霊示や霊利を追い詰めることができるだろう。つまりこの聴取の目的は、ほかのところにあるのかもしれない。雪那はそう考えていた。そうなると、どこが重要になるかわからない。交わした会話の内容も、覚えている限り事細かに話した。
「概ね、永遠ちゃんと同じだな。やはり引っかかることがいくつかあるな」
雪那が話し終えると、善治は小首を傾げた。
「なんだい? 差し支えなければ聞かせて」
「例えば、組長と若頭が現場にいたこと。極道が法を犯すとき、それがトップの指示だったとしても、関与してない、部下が勝手にやったと言い張るために、部下だけにやらせるのがセオリーだ」
「トカゲのしっぽ切りだね。ってことは、麝香霊示はそれまでして若返りの薬が欲しかったってことかな?」
「まあ、それも考えられなくないな。けど、別の疑問と重なるところがあるんだが、もっと上が関与してる可能性が高い」
「上というと?」
「麝香組は鹿威会系の三次団体でね。上により大きな組織が存在してるんだ。上からの命令であるなら、組長が動いてもおかしな話じゃない」
「麝香組そのものがトカゲのしっぽってことか」
「それに今回、霊示と霊利が逃亡を図る際にヘリを使ってるんだが、麝香組がヘリを所持しているという情報はいままでなかった。今回のために調達した可能性もなくはないが、そもそもあの組は衰退気味で、そこまでの資金力があるとは思えない。上から借りたか、まあ、もしくは極道ではなく、どこかの企業が裏にいて金を流してる可能性も捨てきれないが」
「企業っていうのは一般のってことだよね」
「金は甘い蜜だ。悪い虫もよってくる。脅して金をむしり取る。話巧みに協力関係を結ぶ。利益を目論んで企業側から手を組む。まあ、場合はいろいろだ。極道が隠れ蓑として表向きは一般企業を装う場合もあるしな」
病室の扉がノックされた。善治が目配せしてきたので、雪那は返事をする。
「どうぞ」
扉がスライドして、永遠が入ってきた。その姿を見て、雪那は安堵した。いくつか包帯などの治療の跡は見られるが、雪那の状況に比べて大したことはなさそうだった。それに監禁されていたときに感じた、別人を思わせる雰囲気も消え失せていた。
「じゃあ、俺は一旦これで」善治がベッドから離れていく。永遠と近くなると一言。「永遠ちゃんも、またあとで」
「はい」
病室から出ていく善治を、永遠とともに見送る。永遠がこちらを向くのを待って、冗談気味に言う。「あの日と逆だね」
「わたしが博士に助けられた次の日ですか? それともノートの約束をした日?」
雪那は永遠を引き取った日のことを思い浮かべていたが、永遠の確認するような問いに、たしかにと思い直す。
「いま、ちょうどゼンに聴取されてたから、君を引き取った日のことを思い浮かべてた」
「懐かしいですね。考えてみれば、わたしの思い出って病院ばっかり」永遠ははにかみながら、ベッドのわきの椅子に腰かけた。「マルちゃんのせいだ。早く外で遊べるようなってもらうために、研究頑張んなきゃ」
「先にトーキョーに戻るかい?」
「いえ、陰陽師の薬の研究をします。可能性は低いと思いますけど、それがマルちゃんを助けることになるかもしれないですし。それと、ラビに護身術を習うことにしたので、もうしばらくキョー都で生活ですね」
「研究は僕も一緒にしたいところだけど、しばらくは病院生活だからな」
「博士が退院できるころには、完成させてるかもしれませんね」
「もしそうなったら四季澱の権威の称号は永遠にあげようかな」
「そんなのいりませんよ。わたしはただの科学者、それだけです」
「永遠をなにか一つの分野に括るには難しいし、実際そうなるべきじゃないね。『科学者』人夢永遠、それが一番しっくりくる。と、言いたいところだけど、もしかして『戦う科学者』になるつもりなのかい? 護身術の話、文面通り護身術を習うで留める気はなさそうだね」
「わかりますか?」
「十二年も一緒にいるんだよ」
「でも、半分不正解ですよ、博士」永遠がいたずらに微笑む。「一般的に考えられる護身術よりは強力なものを教えてもらうのはたしかです。けど自分から誰かを傷つけることを目的にしてるわけじゃないですから。だから『戦う科学者』にはなる気はないです。どちらかというと『護る科学者』?……ですかね」
「なるほどね。自分から危険に踏み込んでいくわけではないと。意志は固そうだから、止めたりはしないよ。けど確認させてくれるかい? というより、それが目的で訪ねてきたんだろう?」
「これは……九割不正解です、お義父さん」
永遠が悲し気な顔で微笑んで、雪那を真っすぐ見つめてきた。はっとした。雪那が痛めつけられるところを目の当たりにしたのだ。逆の立場だったらという想像だけで雪那も平常心など保てない。実際に体験した永遠の受けた痛みは計り知れない。どれだけ心配して一夜を過ごし、この病室まで足を運んだのか。
普段通りに接し、笑みを向けてくれた義娘。目頭に込み上げてくるものがあった。しかしここで涙を流すのは違うだろう。心配をかけたのは雪那のほうなのだから。
「ごめんよ、永遠。それに、ありがとう」雪那は軽く腕を広げて笑ってみせた。「この通り、もう心配はいらないよ」
永遠が涙をこらえるように力を込めながら、目尻を下げた。「……はい」
しばらく差し込む朝日だけが、雪那たちを見守っていた。雪那は永遠の顔から無理な力が抜けるのを待ってから静寂を破った。
「……じゃあ、残りの一割の話をしよう」
「はい」今度の永遠の返事は芯のあるものだった。
人生において重要なことを決めるとき、雪那と永遠は必ず互いに確認をとった。それが本人のなかで概ね決定した考えであったとしてもだ。そうすることで、より意志の固さを認識でき、かつ、他人の介することで半端な成果で終わらせないと強く誓える。
「僕たちの科学の根底には、世のため人のためという善意が根差してる。この共通認識はいいかい?」
永遠が深く頷いたのを見て続ける。
「僕は永遠のなかにあるその善意を誇りに思うよ。だけどね、戦える力を身につけるということは、君が善意を果たせる範囲が広がるということだ。これは科学技術にも言えることだけど、それらがなかったときには不可能だったことが、可能だと理解したとき、本当にその意志――自ら危険に飛び込まないという意志を保つことができると、自ら一線を越えようとしていないかと、自問し続けられると誓えるかい?」
永遠がそこまで考えていないとは思えないし、実際そうなったとき彼女なら大丈夫だろうと思う。けれど、はっきりと言葉にしてほしい。雪那としては普段行う確認より、明確にそうしてほしい。
今回の件で、永遠にはどこか別人のような雰囲気を醸し出した事実がある。冷静なままで、自暴自棄になったわけではないようだったが、自分の危機に関して他人事のように思っているようだった。危険への鈍感が、身を亡ぼすことになることだけは避けてほしい。それが雪那の願いだった。
沈黙が降りてくる。永遠が即答しないのは、迷いではなく熟考のためだろう。どれだけ決意が固くとも、彼女は考えることに向き合う。考える時間があるのなら、答えを急ぐ必要はない。研究する者の姿勢として、常にそのことを頭に置いておくようにと雪那が教えたことだ。
十二年前、ノートの使用について話し合ったときも、彼女はこのようにしっかり考えたうえで、雪那と約束を結んでくれた。
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