15:決意
白んでいく空を車窓から眺めていた。永遠は兎束家の不忍が運転する車の後部座席で、ラビと並んで揺られていた。
会話はない。車内は走行音だけが支配していた。ラビとは車に乗り込む前に、感謝と謝罪を互いに交わしただけだった。別にお互いに嫌悪しているわけではない。ただ、いまは静寂が必要だと思えた。ラビも同じ想いでいると感じる。
ビルの屋上でしばらく泣いた。ラビに救出されたと実感した瞬間、せき止めていたものが外れ、恐怖と安堵が一挙に押し寄せてきた。その感情の波に、極道を前に吹っ切れ、気丈でいた自分自身が流されてしまったようだった。
けれど、涙が枯れる頃には不思議と感情の整理がついていた。いいや、逆に壊れてしまったのかもしれない。正常ではないからこそ、平静でいられるのではないだろうか。
永遠の頭の中には、今後のことばかりが浮かんでいた。
手にした古文書と翻訳資料の感触を確かめるように、指先を軽く動かす。まずは今回得た、四季澱の新たな可能性についての科学的好奇心。早く研究がしたい。監禁から解放されたということは、書かれている鍾乳洞だと思われる龍閨鍾乳洞への調査にも行ける。書物と研究室だけでは得られないものがあるはずだ。
心配ごとが一つあるとすれば、雪那のことだけだ。雪那は先に病院に運ばれたという。麝香霊利に連れ出されるときに見た雪那の状態は酷いものだった。打撲に出血、骨折もしているかもしれない。外からはわからないが、内臓への損傷があるかもしれない。
今回の件で、思い知らされた。科学者が悪の標的になる可能性があることを。自分の身は自分で守らなければならない。トーキョーに帰ればラビはいない。大切な人が目の前で傷つくのは、もう見たくない。
「ねえ、ラビ」永遠はラビに視線を向けた。ラビと目が合うのを待って続ける。「わたしの師匠になってくれるって言ってたよね」
「え? 不忍の?……あ、うん。でも、あれは冗談だったじゃん。永遠」
「冗談じゃ済まないことが起きたんだよ」
「永遠、まずは落ち着いて。ショックで頭がこんがらがってるんだよ。今回みたいなことは滅多に起きないって。そこまでする必要ないって」
「わたしは冷静だよ。必要だと思ったから、お願いするの。わたしに戦い方を教えて」
沈黙が生まれる。永遠はラビの困った顔を見つめ続ける。ラビも永遠のことを考えて渋っているのだろう。ありがたいが、その思いやりは無用だ。もう一押しするべきか。
「不忍になるってわけじゃない。自分から戦いにいくんじゃなくて、あくまでも身を守るため。護身術教室の少し先くらいの訓練をさせてもらえればいいの」
不忍の家々は新たな不忍育成のため、道場を開いていることが多い。それに併せて、一般向けに護身術教室を運営しているところもある。兎束家もその一つだった。
夕方には小中学生、夜になると高校生や会社員。毎日彼らが兎束家の道場に訪れるのを、キョー都滞在中によく目にしたものだ。
ただ、ラビには心苦しいが、いまの言葉には嘘があった。護身術の少し先くらいでは足りないと、永遠は思っていた。襲ってくるのがそこらの暴漢なら、それで済むだろう。しかし、その程度の存在が科学者を狙って襲う可能性は低いと考えられる。極道のような目的を持った集団にこそ狙われる。
「だめっ」
困り顔をしかめっ面に一変させたラビが、顔を近づけてきた。一押しも虚しく終わったか。ただ永遠に諦める気はない。ラビや兎束家が駄目なら他の不忍のところでもいい。なんなら、不忍じゃなくとも武道を教授する場所はトーキョーにだってある。案外、永遠の事情を知らないところのほうが、とことこん教えを受けられるかもしれない。
「そっか、わか――」
「んぱっ、違くて」永遠の声を遮るようにラビが唇を鳴らした。「護身の少し先くらいだなんて中途半端なら、やらないほうがいい。やるなら、真剣。これならなってあげる、永遠の師匠」
「なんだ」永遠は思わず笑う。「わたし最初からそのつもり。ラビが難しい顔してたから、一押しと思って嘘ついた。ごめん」
「え、そうなの? ひどいっ」ラビがにやりと口角を上げた。「こうなったら、スパルタもスパルタに指導しちゃおかなぁ」
「いいよ」永遠も小さく口角をあげて、まっすぐとラビの青い目を見つめて返した。「望むところ。それそれくらいじゃないと」
「え、うそうそ、うそだよ」顔の前で両手を振るラビ。「友達にそんなことできるわけないじゃん。それに、スパルタは兎束家のやりかたじゃないしね」
「じゃ、嘘のお相子だ」
「だねっ」
見つめ合って、笑い合った。するとすぐにラビが、顔を歪めて脇腹を押さえた。
「いたたっ……ちょっと、永遠、笑わせないでよー」
「ごめん。まずは怪我を治さないとだね」
車はすでにキョー都の街中を進んでいた。温かみのある外装のビル。まだ消えずについている柔らかい赤の街灯と、その光を反射するパイプラインや瓦屋根。
早朝の道路に車列はなく、景色はスムーズに流れていく。やがて縦に長いビルに代わって、低く幅を取る建物がいくつもまとまっているエリアに入った。車はその建物群の駐車場に入って停車した。
キョー都大学医学部附属病院。これから永遠とラビは、ここで検査と治療を受ける。雪那にも面会できるだろうか。
ラビが運転手に声をかけてから、ドアに手をかける。「いこっか、永遠」
「うん」
それぞれ左右のドアから車を降り、並んで病院の入口へ向かった。
薄暗い部屋。手術台の上、医療用の無影灯に照らされた麝香霊示。ぴくりとも動かない。寝てるからだ。霊利はそう信じている。ありえない、じいちゃんは無敵なんだ。
ヘリコプターが屋上から飛び立つ間際、霊利の銃が狙撃された。苦痛に短く声を上げた霊利だったが、すぐに祖父もうめいたのを聞いた。なにが起きたのか、一瞬わからなかった。霊示に目を向けると、服が赤々と染まっていくのが目に入った。
跳ね返った弾丸が、運悪く霊示に当たった。霊利は自分の腕の痛みも忘れて、祖父に駆け寄った。苦しそうに短い呼吸を繰り返す姿に、血の気が引いた。なにをしていいのかわからず、車椅子の手すりの上に乗った霊示の手を握った。冷たかった。
小さい頃、よく手を繋いで出掛けた。霊利が望んだ場所へ、連れて行ってくれた。母親は早くに死んだ。霊示は霊利のことを娘の忘れ形見として、大事に育ててくれた。父親は麝香組の組員だったが、クズ野郎だった。子どもに興味がなく、組の仕事もろくにこなせないやつだった。
父親は霊利が高校に入るときに殺した。霊示は娘が愛した男だからと、始末することなく組に置いていたが、霊利の意思を尊重してくれた。この日を境に、霊利は正式に麝香組の若頭になった。
霊利が若頭として経験を積みはじめると、霊示が目に見えて老け込んでいった。きっかけになったとは思っていない。そもそも霊示の歳を考えれば当たり前のことだった。ゆっくりと減っていく、じいちゃんとの時間。覚悟はまだ醸成途中だった。
施術していた闇医者が手を止めた。振り向くと、首を横に振った。
「は?」麝香霊利は闇医者に掴みかかった。「やぶか? てめぇはよぉ!」
「やめろ、麝香」
霊利の肩を掴んで闇医者から離すのは、長身の
「はなせっ!」洗井の手を払った。それから睨みつける。「だいたい、お前。なんであの不忍のガキを殺さなかった! お前のせいだ! お前のせいでっ、じいちゃんが……じいちゃんが、こんな……ありえねぇ……」
膝の力が勝手に抜けた。洗井の脚にすがりついていた。恥を晒すわけにはいかなった。それなのに、口を目いっぱいの力で閉じようとしたが、震えて嗚咽が漏れる。
「く、そぉっ……ぉ、うぁぁ」
「我慢せずに泣いてやりなさいよ、霊利くん」洗井の後ろから柔らかい声が聞こえてきた。「いいお孫さんを持ったね、霊示の兄貴」
涙で歪む視界の端に、灰色の巨体を捉えた。洗井を超える身長に加え、横幅も分厚さもかなりある。灰色のスーツが着崩れることなく膨れている。レスラーのようだと思った。
誰だ。なにを勝手に部屋に入ってきているのか。霊利は疑問を持って巨躯の男を見上げる。男が瞳が見えないほどに笑んだ顔で見返してきた。その表情とは裏腹に、凄味があった。巨躯のせいだけじゃない。存在感が大きい。闇医者も後退って手術台から離れていた。
「僕にも弔わせてもらうよ」
男が霊示に向かって手を合わせた。時間が止まってしまったみたいだった。この男が次に動くまで、霊利たちは動くをことを許されない。そう思わされた。
男の手が降りた。「さて、初めて会うね、霊利くん」
柔和な顔が霊示を見下ろした。霊示は泣くことも忘れて、喉を鳴らした。
「
「あ、あんたが……じいちゃんが、よく言ってた」
「あんただと? 口の利き方に気をつけろ、麝香」洗井が上から刺すような視線を向けてきた。「お頭のお心の広さがなければ、いま、お前は死んでたぞ」
洗井の態度はさっきまでに比べて威圧的になっていた。いや、戻ったというべきか。洗井は麝香組ではなく、鹿威会の幹部組員。今回は灰熊の命令で霊利の下についていたにすぎない。その命令はいまをもって終了したということだろうか。
鹿威会系麝香組。麝香組は鹿威会の下部組織。覆ることのない上下関係。ただ霊示から聞いた話とは違っていた。
「いや、でも、じいちゃんは、灰熊くんは立場上は上だけど、俺たちは対等なんだって。だから今回も力を貸してくれたって」
まだ触れたままだった洗井の脚が動いた。かと思うと、霊利は蹴り倒された。
「まあまあ、洗井」灰熊が洗井をなだめる。「今日は悲しいことが起きたんだ。不問にしよう。今日はね」
「御意」
洗井は灰熊に一礼すると、霊利に冷たい視線を向けながら下がった。洗井を見ていた視界が灰熊の巨躯に遮られた。腰を落とした灰熊はまるで巨岩のようだった。
「霊示の兄貴には恩義があったから、手を貸してあげたんだよ。情報も、兵器も、人も惜しみなくね。でも君にあったかな、恩義。どうかな、霊利くん」
霊利を覗き込む顔は柔和なまま。それなのに気温が低くなったように思うほど、霊利は恐怖を感じていた。霊利がなにも反応を示せないでいると、灰熊は短いため息を吐いた。
「霊示の兄貴には、若返りの夢を叶えてほしかった。底辺になりつつあった麝香組を、あの頃の凄味をもって、取り戻してほしかった。残念だよ」
灰熊が手を伸ばしてきた。腕を取られると、軽々と立たされた。そのまま背中に手を回され、霊示の眠る手術台に誘われた。霊利の耳元で優しい声で灰熊が告げる。
「さっきも言ったけど、今日は存分に泣きなさい。明日からは、僕のために死に物狂いにならないといけなくなるよ。とりあえず、『陰陽薬餌録・中』を返してほしいのと、今回取り逃がした科学者を連れてきてほしいかな。ほかにも頼みごとをするかもしれないから、よろしくね」
背中を一度、優しく叩かれた。それから灰熊は踵を返した。
「霊示の兄貴に誇れるいい孫でいられるように頑張って」
洗井とともに部屋を出ていく灰熊。しばらくして、闇医者が思い出したようにそそくさと出ていった。
手術台の前に独り両膝を着く。霊示は本当にただ寝ているだけのように見える。揺すれば起きるのではないかと思える。でも違う。もう、じいちゃんが笑いかけてくれることはない。
涙が溢れてきた。悲しみではない。湧き上がるのは、怒りと悔しさだ。
灰熊に支配された。どうして俺がこんな目に遭わなきゃいけない。大好きなじいちゃんを失った悲しみを、どうして掻き消されなければいけない。許せない。なにもかもあいつらのせいだ。兎束家、特に兎束ラビ。そしてあの科学女、人夢永遠。
科学女は灰熊に渡さなければならないせいで殺せない。いいや、知ったことか。逆らえない道理はない。じいちゃんに恩義があったのなら、孫の俺にも同じように接するべきだったんだ。そうしなかった灰熊に落ち度がるに決まっている。上に立つのは麝香だ。
霊利は霊示の手をとった。
「……兎束ラビも、人夢永遠も、じいちゃんへの恩義を踏みにじった灰熊の野郎も、全部! 全部殺して、あの世でじいちゃんに詫びさせる。待ってて、じいちゃん」
手に伝わる記憶より細く冷たい霊示の手の感触。反して、零れる涙は煮えたぎるように熱かった。
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