10:はじまり

 迷いなく研究の準備を進める永遠。雪那は自分も協力しながら、半ば呆然とそれを眺めていた。

 本人は解離性障害だろうと言うが、正確なところはわからない。状況を意に介さず、あっけらかんとしすぎている。かといって別人のようだとも思えない。彼女が五歳の頃からともに過ごしてきたが、共有する空間の雰囲気はなにも変わっていない。

 しかし、形容しがたいが、なにか違和感を覚える。初対面の麝香霊利もそれを感じ取って、永遠の申し出を飲んだのだろうから、雪那の感覚は間違っていないはずだ。

「いたた……」

 雪那は近くの椅子に腰かけた。準備に少し動いたが、もとからあった腰の痛みに、暴行によるダメージが重なって響いてくる。

「博士」

 永遠が心配そうに近寄ってくる。やはり普段通りの彼女だ。助手であるとともに家族でもある。

「ごめんなさい、研究にしか意識が向いてなくて。休んでてください」

「悪いね。お言葉に甘えさせてもらうよ」

 手にしていた道具を永遠に手渡し、楽な体勢をとる。

 準備を再開した永遠が聞いてきた。「『季節をもたらす素』が溶けた水を火にかけるって文がありますけど、四季澱が単体で水に溶けてると思いますか?」

「わからないことのほうが多い物質だ、ないと断言することはできないね。あったとしたら大発見。可能性は低いと思うよ。別の物質が混じっていると僕は考えてる」

「わたしも同じです。この洞窟、鍾乳洞みたいですし、溜まってる水は重炭酸カルシウム、つまり炭酸水素カルシウムの溶液とみていいですよね。たしかキョー都には鍾乳洞がひとつだけあったはず」

「うん。龍閨りょうけん鍾乳洞だね。現場調査ができればいいんだけどね。きっとそこまではさせてもらえないだろう」

「そうですね。でも研究の糸口にはなります。とりあえず、炭酸水素カルシウム水溶液に四季澱を吹き込んでみて、それを蒸発させてみましょう。粉末が炭酸カルシウムと四季澱の化合物なら成功……ただ」

 納得のいかない顔。永遠も話しながら感じていたようだ。雪那は彼女の考えていることを、代わりに口にする。

「あまりにも簡単すぎるね。書物をなぞっているだけだ。僕たちの前の学者たちが試してないとは思えない」

「はい。これで麝香霊示が満足していれば、わたしたちはここにはいません」

「洞窟生成物である鍾乳石の成分の多くは炭酸カルシウムだけど、生成条件によっては別の組成になる場合もある。つまり水に混ざっている別に物質が関係している線も考えないとだね」

「はい。でも最初は、炭酸カルシウムを構成する三つの元素から調べるべきですよね。やっぱり炭素が鍵になりそう」

 炭素。やはり同じところに目を向けている。ともに過ごす時間が、互いの理解を深め、考えを予想できるほどになる。生活面でもあり得ることだが、科学的思考はより予想しやすい。概ね定まった論理が下地として存在しているからだ。

「そうだね。四季澱繊維のときみたいに」

 四季澱繊維は名称こそ四季澱を冠しているが、そのベースは炭素繊維だ。炭素繊維を作る過程で、その結晶格子内に四季澱を包接させることで生成される。不忍襦袢の防刃・防弾性能は炭素繊維由来だ。

 ただ懸念点があるとすれば、四季澱繊維は特殊な技術を用いることでようやく形となる。自然界でその状況と同程度のものが起こり得るとは考えにくい。

 仮に今回の若返りの薬とされる粉末が、四季澱を含んでいるとするならば、繊維以外の形状への加工の道が開かれるかもしれない。

 永遠が動きを止めて、テーブルの前に立つ。準備が整ったようだ。その姿に感慨に耽る自分がいることを雪那は感じた。命の危機を感じたからだろうか、彼女との日々が思い返される。突飛な出会いを果たしたのは、十二年前だ。


 十二年前の晩春の出来事だった。研究の合間の気分転換のため、雪那は近所の公園に散歩に出かけた。休憩がてら、池の近くのベンチに腰掛け、頭を空にしながら景色を眺めていた。池には噴水があって、心地よい水音が、そよ風に乗って雪那の耳に届いていた。

 近くを通った親子連れに目を向けていると、眩い光がちらちらと目に入ってきた。水面の反射光かと思ったが、それならいまさら過ぎると思い直す。光の正体を知るために目を向けると、その頃には視界を邪魔する光はなくなっていた。

 さっきまでそこに人がいた気配はなかった。音もなかった。それなのに雪那の視線の先には、光の代わりに、うつ伏せで倒れる小さな女の子がいた。

 動く気配のない少女に、雪那はすぐさま駆け寄って状態を確認した。呼吸はしているが、呼びかけには反応がなかった。雪那は周囲を確認しながら、すぐに電話を掛ける。相手は友人の医師だ。繋がった瞬間、挨拶もなしに状況を伝える。

「五歳くらいの女の子が倒れてるんだ。呼吸はしてるけど、呼びかけても反応がいない」


 病室から白衣姿の男が出てきた。友人の医師真鶴まなづる正矩まさのりだ。病室前の長椅子に掛ける雪那の隣に座った。

「大丈夫、命に別状はないよ」

「そうか、よかった」

「誰だかわかるのか?」

「さあ、近くに親はいなかったみたいだし、なによりあの子、急に倒れたみたいだ」

「……それで電話してきたんだろ?」

「ああ、ごめん。言葉が足りなかった。それまでいなかったのに、急にそこに倒れた状態で現れた、というか」

「気付かないうちに寝てたんじゃないのか? 遊びも研究もほどほどにしろよ」

「そんなはずは……」

 意識はあった。記憶が途切れている感覚はまったくない。彼女はたしかに突然現れたのだ。

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