8:責任
広間に兎束家所属の不忍が忙しく出入りする。長く連ねられた座卓の上には、キョー都の地図や極道の情報が書かれた資料が広げられている。ラビは角の柱に背を預け、脇腹を保冷材で冷やしながら、部屋の様子をぼーっと眺めていた。
所属の不忍たちの指揮をとるのは、もちろん当主である善治だ。今年四十八歳になる父。短髪をロマンスグレーに染めているのは白髪を隠すため。顔のしわもだいぶ増えた。それでも無駄なく鍛え抜かれた筋肉が覆う、180センチを超える長身は、一般家庭の同年の父親世代より明らかに若く見える。
善治の右の頬には、まだ赤みを残した乾いた傷跡があった。襲撃時に敵の拳がかすったらしい。善治の寝室にも、五人の極道が侵入してきたという。極道たちは善治を部屋に留めている間に、客間で寝ていた雪那博士を難なく攫っていった。
親子して客人を護れなかった。当主の家系として、所属するみんなに、なにより雪那と永遠に申し訳が立たない。
情けない。ラビがこれだけ悔しいのだ、善治も同じだろう。みんなを集め、指示を出し終えた善治が深々と頭を下げた。
「雪那博士と永遠ちゃんの命が最優先だ! なにがなんでも助け出す! みんな、不甲斐ない当主の頼みだが、力を貸してくれ……!」
「やめてよ、善治さん」
怒りと申し訳なさのこもった声を発したのは、明るく染めたウルフカットの女子大生、
「不甲斐ないのはウチらだよ。脱兎招集の兎束家が聞いて呆れる。当主と大事な客人の危機にすぐに駆け付けられないんてさ」
「そうだぜ」
夏穂に同調するのは
「相手が
なあ、と同意を求め蓮真に、みんながそれぞれに呼応した。それはあまりにもバラバラな返事で、みんな互いに笑い合う。その和んだ雰囲気が、次第に引き絞られていくと、みんなは真剣な顔で静かに広間を出ていった。
ラビも立ち上がり、縁側に出る。少し進めば、ラビと永遠が襲撃にあった居間に辿り着く。いまは調査を主にする不忍たちが、警察の鑑識官のように部屋や周辺を調べている。
作業の邪魔にならないようにしながら、縁側をさらに進む。目的の部屋の障子を開け、中に入る。毎日訪れる仏間。いつもと同じように、母コニーが迎えてくれる。
「お母さん……」
ショートボブの髪はラビと同じブロンド。ラビより薄い青い目は、優しく細められている。ラビが七歳の時に亡くなった。最後まで街を愛し、街のために尽くした。誇らしい。でも、もっと一緒にいたかった。教わりたいことだってたくさんあった。
ラビはコニーの前に正座する。
「お母さんも大切な友達が危ない目に遭った時、こんな気持ちだったのかな……? 怖いし、そわそわしてる……」
沈黙が返ってくるなか、保冷剤を押し当てる手に力がこもる。母を見つめる視線をわずかに横にずらす。遺影の横、焦げ跡のついた兎のお面が立てかけてある。
お面は白地に赤で顔の線が入れられている。兎といっても、耳は短く作られている。これは行動を制限しないためだ。
不忍のお面は頭巾と共に、作戦時に頭部を護る防具だ。そして所属する家を表すものでもある。正式に活動するにあたって当主から与えられる、不忍としての資格を表す免許のようなものだ。
つまりそれは守護者としての責任だ。
「でも、弱音なんて吐いてられないよね。永遠は絶対あたしを待ってる」
蓮真の言葉を思い出す。本当に頭を下げなければいけない事態にはしない。
しちゃいけない。
したくない。
ラビは立ち上がる。「行ってくるね、お母さん」
仏間から廊下に出たラビは自室に向かった。保冷剤を投げ捨て、甚兵衛を脱ぎ捨てる。ランニングウェアに着替える。もちろんリボンも忘れない。頭巾は着ける作業が苦手で、時間がかかるからやめた。兎のお面を手にして、広間に戻った。
広間はすでに閑散としていた。善治と数人しか残っていなかった。ラビが広間に入ると、すぐに善治が戸惑いの顔を向けてきた。
「ラビ、行く気か? みんなを信じて休んでなさい」
父であり当主の言葉ではあるが聞く気はない。ラビは座卓の上の資料に目を向ける。ラビが目にした入れ墨の全貌があった。長い牙をむき出しにした、凶悪な顔つきの鹿の入れ墨だ。
どこの極道による襲撃か判明した。いま不忍たちはこの組が拠点としている場所へ、手分けして向かっている。
「入れ墨の情報だけで充分だ」善治の声に怒りの色が混じりはじめた。「不忍襦袢の防弾性能が良いとはいえ、衝撃の影響はあるんだぞ。ただ痣ができたくらいだなんて思ってないだろうな」
心配してもらえるのは正直にうれしい。確かに善治の言う通り、銃弾を受けた影響は痛みや痣だけではなかった。普段のように呼吸ができておらず浅い。動きもいつも通りとはいかない。ちゃんと理解している。
「わかってるよ」ラビは善治を真っすぐ見据えた。「でも、お母さんなら行くでしょ」
ラビの言葉に善治は息を飲んだ。それから絞り出すように言う。「だからだ」
わかっていても心苦しい。本当はコニーを引き合いに出したくはなかった。ラビが母を失ったように、善治は妻を失った。抱えた痛みは同じ。でも、ここで折れたら、もっと大きな痛みを負うことになるかもしれない。
「ごめん、お父さん。必ず帰ってくるから」
返事はなかった。ラビは踵を返し、玄関へと向かう。ランニングシューズを履き、扉を開けるとエンジン音が耳に入ってきた。聞きなじみのあるバイクの音だ。石畳の先、門の向こうからだ。
門を抜けると道路までの間に階段がある。街灯の橙色に照らされる道路を見下ろすと、緑色のバイクが一台待っていた。跨っているのは女性だ。
「ラビ」夏穂がヘルメットのシールドをあげて、ラビを見上げる。「乗って」
後ろを指さす夏穂にうなずいて、ラビは階段を降りていく。お面はベルトのアジャスターを緩め、首から下げる。夏穂のもとへ着くと、受け取ったヘルメットを被りながらバイクに乗り込む。
ラビは夏穂の体に腕を回しながら聞く。「夏穂姉、どうして?」
「ラビはコニーさんの娘だしね。来ると思って。あずまっちに頼んで待ってたの」 夏穂はラビの状態を確認すると、シールドを下げた。「じゃあ行くよ。ウチらの班のとこでいいよね?」
「はい!」
動きはじめたバイク。思えば雨は止んでいた。徐々にスピードを上げ、濡れた路面の水を弾きながら風を切る。
「ちょっと遠いけど、大本命だよ。
麝香組。それが永遠と雪那を攫った極道の名だった。
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