7:好奇心

 小さな女の子が立ち尽くして、泣いていた。永遠は女の子の前に立って、それを見ていた。

 目の前で泣くこの女の子は、五歳の頃の永遠自身だ。どこか知らない土地に立っていた気がする。幼少期の記憶は曖昧で、不確かなことばかり。

 ただこのとき泣いていた理由は、はっきりと覚えている。両親のことを捜していて、それでも見つからない孤独感に打ちひしがれていた。

 いまでも両親を捜し続けている。いまは泣いていない。薄情になったわけではない。強くなっただけだ。助けてくれた人がいる。支えてくれた人がいる。手を差し伸べてくれた人がいる。

 だから永遠も幼き日の自分に手を伸ばす。同じ黒髪をそっと撫でてつぶやいた。

「大丈夫だよ」


 永遠は我に返った。

 しばらく放心状態だった。眠っていたのか、気を失っていたのもしれない。老人と霊利が部屋を出ていってから、どれくらい経ったのだろうか。

 涙も乾いていた。そう意識した途端、不意に自分が自分でないような感覚が芽生えた。不思議なくらい冷静だった。自分の意識を、もう一人の自分の意識が俯瞰しているように感じる。まさにいま見ていた記憶の断片のように。

 永遠は自分の身に起きていることを分析する。これは解離性障害の一種だろう。一過性の心的外傷に、精神が防衛反応を示した。

 永遠は顔を伏せたまま、目の動きだけで周囲を観察する。見える範囲に屈強な男が三人。二人は永遠の近くにある広い机に、永遠に背を向けるように横並びで座って小声で雑談。もう一人は壁際で、腕まくりした腕を組んで永遠を監視していた。

 永遠は壁際の男に顔を向けた。弱々しく声を掛ける。「あの」

 無視されるかと思ったが、返答があった。「なんだ」

「トイレに行きたいんですけど」

 永遠の言葉に、机にいた二人が馬鹿にしたように笑った。気にしない。いまに至って、これくらいのことは恥だとは思わない。

 壁際の男が応える。「俺の一存じゃ決められねえ。お頭か若が戻るまで我慢しな。無理ならその場で済ませろ」

「そうですか。わかりました」

 実際、生理現象の訪れを感じていたわけではない。ただ、発言が許されることは知れた。

 そもそも彼らから暴力は振るわれないだろうとは考えていた。永遠のことを乱雑に扱った霊利を、老人は諫めていた。つまり部下だと思われる彼らが、永遠に暴力を振る可能性は極めて低かった。

 研究と同じだ、少しずつ確かめていけばいい。永遠は再び壁際の男に話しかける。

「お頭と若ってさっきの二人ですか?」

「そうだ」

 返答は短い。やはり会話までは難しいか。検証を続ける。

「若……霊利って人、おじいちゃんって呼んでましたけど、親子じゃないんですね」

 机の方から答えが返ってきた。目を向けると、二人の男が体を斜めにして永遠の方を向いていた。

「若は昔からおじいちゃんっ子だったよな」

「ああ、お頭も息子より若を可愛がってた」

「親父は出来損ないだったからな。あげく、子どもに殺されてやんの」

「おい、お前ら」壁際の男が割って入る。「余計なことを話すな。嬢ちゃんも下手な好奇心は身を亡ぼすぞ」

「んだよ、構わねえだろ。こんくらいよ」

 机の二人は興が削がれた様子で永遠に背を向けた。その瞬間、大きな音が二回続けて響いた。近くで赤い飛沫が舞って、二人の男が机に突っ伏していた。

 永遠は静かに驚愕した。二人が殺されたことや、男たちの血液が顔についたことにではない。目の前で起きたことに、自分が悲鳴を上げて怯えなかったことにだ。

 永遠はゆっくりと扉の方に顔を向ける。開いた扉の内側、霊利が拳銃を片手に立っていた。拳銃をスーツの懐のホルスターにしまいながら、永遠の方へ近づいてくる。

「博士が起きた。来い」

 永遠は霊利によって強引に立たされる。抵抗せずに従う。背後に回った霊利に押されるようにして出口に向かって歩き出す。

「おい」霊利が後ろで口を開く。顔を後方へ向けているようだ。腕まくりの男への指示らしい。「そのごみ、片しとけ」

 廊下に出た。窓はない。2メートル弱の幅を、白色灯が冷たく照らす。角を一つ折れる。

 霊利が手前の扉を開けた。「入れ」

 永遠がさっきまでいた場所より広い部屋だった。さっきの部屋は細かく観察できなかったが、この部屋は永遠にとって見慣れた雰囲気を持っていた。

 研究室。永遠はそんな第一印象をこの部屋に抱いた。

 広いスペースが確保されたテーブルが等間隔に並び、壁際には実験装置が所狭しと並ぶ。天井からは電源を取るためのコード。四季澱やガスを供給するための配管が、複雑かつ合理的に天井や壁に張り巡らされてる。

 一番近くの机に雪那と老人の姿があった。雪那の顔には出血と痣が見受けられた。眼鏡にもひびが入っていた。永遠と同じように後ろで手を縛られているようだ。

 永遠は雪那に呼びかけた。「博士」

「永遠、本当に君も攫われて……」

 永遠が博士のもとへ向かおうとすると、霊利が手首を掴んできて制される。

 老人が不敵に笑う。「ふはは。博士、理解できない頭ではないでしょう。あなたの拒否が、お嬢さんの命を危険に晒す結果になると」

 雪那は永遠を見つめたまま押し黙る。

「じいちゃん」霊利が永遠の横に立った。「実際に見せねえとダメなんじゃねっ?」

 雪那が言い終わるより早く、永遠は顔に衝撃を受け、床に倒れた。またも永遠は自分に驚く。感じたのは痛みだけだった。殴られたことへの恐怖心は全く湧いてこなかった。

 博士がたじろぐ。「永遠っ!」

「お?」霊利が鼻で笑う。「なんだよ、悲鳴の一つも上げられねえくらい恐いってか」

 違う。見当違いも甚だしい。

「大丈夫です」心配そうに見つめてくる育ての親に、永遠は微笑みを返す。「博士」

「お嬢さん」老人が興味深そうに永遠のことを眺めてきた。「どこか吹っ切れたように見えるね。死ぬ覚悟でもしてしまったのかな? それでは俺たちが困るんだけどねぇ」

 永遠は自力で立ち上がる。老人を真っすぐ見つめ返す。

「死ぬ覚悟? その考えはなかったです。でも確かに吹っ切れたみたい」

 殴られて顔にかかった乱れ髪を、頭を振ってどける。

「さっきの話、途中で終わってましたよね」

「ん?」

「結局あなたたちがなにをしてほしいのか、聞いてない」

「ああ、なるほどね。けれどね、もう博士には話してある。無駄にする時間は俺にはないんだよ」

「博士はあなたに協力しない」

 霊利が永遠の胸元を掴んできた。「だからてめぇがいんだろーがよ!」

 永遠は霊利を無視するように、彼越しに老人に目を向け続ける。

「無地のノート一冊と書く物を用意して」視界の端に目をむく雪那の顔を捉えたが、止まることはない。「それから、博士とわたしに手を出さないで、全てが終わったら無事に解放すること。それができるなら、わたしがあなたの望みを叶えてあげる」

「お嬢さんが?」

「お嬢さんじゃない。わたしは人夢永遠。科学者よ」

「……なるほど」老人は永遠の視線から逃げることなくしばらく思案した。「いいだろう、人夢博士」

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