6:人質

「座れ」

 目隠しされ、後ろで手を縛られた永遠は、半ば転ぶようにして椅子に座らされた。

 兎束邸から車に乗せられ、いまはどこかの屋内のようだ。暖かいと、安堵を覚えてしまう。突然拉致されたのだから、当然のように部屋着で、かつ裸足だった。車や屋根のあるところへ移動するまでに、雨で服が濡れた。それも体温を奪う要因になっていた。

 ラビが撃たれるのを目の当たりにした。直後は気が動転していたが、きっと大丈夫だろうと永遠は信じる。ラビは不忍襦袢を着用している。科学的根拠エビデンスはそれで充分だ。車での移動中にそこに考え至ってからは、少し冷静でいられた。

 かなりの時間、移動したように思う。正確な時間はわからない。ラビの安否への確証をもって、少しは冷静になったとはいえ、恐怖で鼓動が亢進して、正常な感覚は奪われていた。

 これからどうなってしまうのか。拭えない不安。しかしラビや善治への信頼は揺らがない。必ず助けに来てくれる。それまで自分がやるべきことは、生き延びることだ。

 扉が開く音がした。方向的に、永遠がこの部屋に入ってきた扉だ。金属が擦り合わさる音が入ってきた。一定のリズムで繰り返す。なんの音だろうか。

 しわがれた低い声が言う。「目隠しを取ってやりなさい」

 永遠の目隠しが外された。目の前に車椅子に収まった老人がいた。さっきの音は車椅子の車輪の音だったようだ。

 老人の頬はこけ、頭は禿げ上がっている。羽織ったガウンの胸元は骨張っていた。その病弱極まりない姿より、目を引くものがあった。下唇を貫いた牙のような二本のピアスだ。彼のうしろに控えるホストのような若い男も同じピアスをつけていた。

「お嬢さん」老人が表情を柔らかくして口を開く。「手荒なお誘い申し訳ないね」

 永遠は努めて気丈に返す。「わかってるなら、こんなことしないですよね」

「口を開くな、ガキ」老人のうしろの男が声を荒らげる。

「こら、霊利れいり。そんなふうに言うんじゃない。若いお嬢さんと話す機会はそうないんだ。少しは楽しませてくれないか」

「ごめん、じいちゃん」

 諫められた霊利と呼ばれた男がおとなしく口を閉ざすと、老人は再び永遠に目を向けた。

「安心したまえ。いまはお嬢さんに危害を加える気はない。君は人質だからな」

「いまは?」

「ああ、博士の返答如何いかんによっては、お嬢さんは地獄の苦しみを味わうことになる。だからせいぜい、いまは安心してこの老いぼれとの会話を楽しんでおくれ」

 柔和なのは表情だけ。老人の声には鋭利な冷たさがあった。永遠は口の渇きを感じながらも、怯えた素振りを見せないよう強く老人の目を見据え続けた。

「なにが目的なんですか?」

「雪那博士には科学の発展に協力してもらいたいんだ。科学者としては断る理由はないと思うが、保険として君にも来てもらったというわけだ」

「わたしにも? 博士もここにいるんですね」

「ふっはは、俺が口を滑らせたと? さっきから言葉尻を取っているが、優位に立ちたいのかな」

「別に。確認してるだけですよ」

「強がりは若者の美徳だ。存分に発揮してもらって構わんよ。さて、博士がいるかどうかだったね。答えはイエスだ。いまは別室で寝ている。連れてくるときに暴れたらしくてね、うちの若いのが少々やりすぎたようだ。俺としてはすぐにでも話し合いをしたかったのだがね」

「……それで協力してほしいことってなんですか? 博士に頼みたいってことは、四季澱関連?」

「君も科学者。興味があるかね?」

「さあ、聞いてみないことには。こんなことをするような人たちが、科学のためを想ってるとは到底考えられないですけど」

「ふっはは、君の言う通り、俺は科学になんて興味はないよ。ただ結果として俺が求めているもので、科学が前進するのなら、そこに善悪を考える余地はないと思うがね」

「確かに科学の進歩の歴史を考えれば、必ずしも善意を下地にした研究ばかりじゃない。ですが、そういった歴史を歩んできたと理解している現代の科学者は、悪意の助けとわかっていて研究をする倫理観を持ってはいない」

「悪にくみすることはない正義感。若いのに立派だよ、お嬢さん。きっと博士も同じ考えなんだろうね」

 老人の口元が歪んだ笑みを浮かべた。

「だからこそじゃないか、君がここにいるのは」

 その言葉に同調するように、老人のうしろの男も、辺りに立つ屈強な男たちも嘲笑を浮かべた。永遠は背筋に冷たいものを感じた。ここにいる男たちの思考回路は、永遠には理解できないものだ。そういう世界で醸成された常識。良識の入る余地のない非情な世界。

 鼻の奥がつんと痛んだ。気丈でいたかった。保っていたものが、不意に切れてしまった。目に溜まり出した涙が溢れそうになって、永遠は顔を伏せた。落ちていく雫を目にする。

「おやおや、泣いてしまったね。ふっははは」老人が笑う。いままで一番活力を感じられる笑い声だった。「霊利、涙を拭いてあげなさい」

「ほいよ、じいちゃん」

 革靴が床を叩く音が近づいてきた。顎に指を掛けられ、無理やり顔を上げさせられた。霊利が差し向けてくるハンカチから顔を背ける。途端、頬にはじけるような痛みが襲った。視線が横に動いたことで、顔を叩かれたのだと理解が及ぶ。

 今度は顎を強く掴まれて、正面を向かされた。霊利の怒りの顔があった。

「じいちゃんのやさしさを無下にすんじゃねえっ!」

「……ごめんなさい」

 思ってもない言葉が口から零れた。自分のことながら嫌悪感を覚える。これではまるで暴力に屈しているようだ。いや、実際、屈しているではないか。

 満足そうにして、乱暴に永遠の涙を拭う霊利。それでも涙は溢れ続ける。霊利は鼻で笑い、加減なくハンカチを押し当て続けてきた。

「霊利、せっかく質のいい顔なんだ、傷ついたらどうする気だい。人質としての役割を終えたら、商品にするんだぞ」

「だってよ、じいちゃん。こいつの顔、見てっとイラとくんだよ。去年くらいにヤった女思い出してよ」

「ふはは、覚えているよ。のときお前を馬鹿にして、廃棄されたお嬢さんだろ」

「そうそう、じいちゃん譲りの俺のビッグマグナムをデカいだけなんて言いやがった。結局ひぃひぃよがっててよ。絶頂に合わせて本物で脳天ぶち抜いてやったやつ」

 永遠の額に人差し指を当て、ばんっと銃を撃つ真似をした霊利。永遠が怯えて体を震わせると、下品に笑って老人の方へ戻っていった。

「さあ、そろそろ博士に起きてもらうとしようか。お嬢さんが泣き喚く元気があるうちに、博士の心を動かさないといけないからね」

「だね、じいちゃん」

 車椅子が霊利に押されて、音を立てて動き出す。永遠はそれを見送ることなく、力なくうなだれた。

 無様だ。惨めだ。羞恥の念に駆られる。恐怖こそ消せなくとも、人より冷静に気持ちを保てると思っていた。唐突に投げ込まれた非情な世界。なにもできない自分が、悔しくてしょうがなかった。

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