4:雨音
雨が屋根や壁を叩く音に包まれた深夜。
永遠はコーヒーの匂いが鼻孔を満たす中、たくさんの歯車と向き合っていた。兎束家の居間、座卓の上、デスクライトに照らされるのは分解された振り子時計。
兎束邸の玄関を見守る年季の入った時計は、永遠たちが来て二日目に時を刻むのをやめてしまった。そこに責任を感じているわけではないが、主な予定を終えたいま、修理に着手した。
これまでに時計の修理の経験はない。しかし永遠は目の前の時計の仕組みはおろか、どこが故障の原因かも理解していた。直し方もわかっている。
これは永遠の昔からの不思議な特技の一つだった。初めて見るものであっても、なんとなく仕組みが理解できた。実際に触って確かめることでより理解が深まり、ずれや歪みがあると違和感を覚える。その違和感を取り除く方法まで、頭に浮かぶのだから自分のことながら不思議で、科学的興味がそそられる。永遠と雪那の数ある研究対象の一つだ。
この能力が発揮される対象は、人工物として形あるものに限るらしい。昔、雪那の友人の医師に協力してもらい、外科手術を見学させてもらったことがあるが、その時の患者を治せるイメージは全く湧かなかった。この能力自体の仕組みがわからないのも、その限りではないからだろうというのが現状、永遠と雪那が持つ結論だ。
他にも不思議な特技を持っているのだが、そちらとの関連もあるのかもしれなかった。
背後で襖の開く音がして、小さく心臓が跳ねた。
「永遠、まだ起きてるの?」
忍襦袢の上に甚兵衛を着たラビが入ってきた。トレードマークともいえる大きなリボンはなく、髪はシュシュでポニーテールにされている。
眠そうな顔で隣に腰を下ろすラビを迎え、永遠は作業を再開する。
「もう少しで終わるところだよ。ラビこそ珍しいね、出動指令が出たわけでもないのに」
「……うん、雨がうるさくてさ。雨の日はいつもこうなんだよね、あたし」
「耳がいいのも考え物だね」
ラビは生まれながらにして人より聴力が優れていたそうだ。これは生物としてのヒトに聴こえない周波数帯の音を感じ取れるということではなく、人より音への感受性が高いということらしい。
医学的には聴覚過敏症と診断されているというが、彼女はこれを前向きに捉えていて、不忍の仕事にも存分に活かしていると胸を張る。その最たるは異常なまでの、聴覚の選択的注意だ。
人間が感覚器官から得る情報はあまりに膨大で、普段からそのすべてを処理しているわけではない。必要なものを取捨選択している。そのうえで、多く情報の中から、特定の情報に対して選択的に注意を向けることを、心理学で選択的注意と呼ぶ。
騒音の中でも自身に必要であったり、興味がある音を聴き取ることができることをカクテルパーティー効果と呼ぶが、これも聴覚の選択的注意の一例だ。
本来、聴覚過敏の症状を持つとこの効果が弱くなったり、機能しなくなるすることがある。だが、ラビの場合はそれを覆した。集中できないからこそ、集中できるように鍛錬したことで、異常に感度の高い選択的注意の獲得に至った。
ラビはこの話を過去の笑い話のように永遠に語ってくれたが、簡単にできるようなことではない。苦痛もあっただろう。
彼女がそこまで努力をしたのは、街の人々のために他ならない。不忍としてのパトロール中はもちろん、外出中は常に困っている人の声に注意を向けているという。
年齢というものを基準にする考えはあまり好きではないが、永遠は一つ年下の不忍の少女に対して尊敬の念を抱いていた。十六歳の少女がここまで他者のためを想えるものかと。交友を持てたことを幸いに思う。キョー都滞在中だけの関係だろうと、突っぱねようとしていた自分を恥じる。人懐っこい性格の彼女に感謝しかない。
「……うん、できた」
外装に内部機構を組み込むと、振り子時計はもとあった姿に戻った。ただまだ動いてはいない。
「あとは壁にかけて調整したら終わり。でも明日だね、時報も確認しないといけないから」
ラビが天井に向けて腕をあげて体を伸ばす。それから座卓に体を預ける。まるで自分が作業していたかのようなその姿に、永遠は思わず笑ってしまう。
ラビが不思議そうな顔を向けてくる。「なーに?」
「ううん。どう、寝れそう?」
「うーん……」ラビは顔だけあげて、しばし黙って縁側へと続く障子戸を見た。「もうちょっと弱くなればいけそうなんだけど」
「そっか。じゃあ、付き合うよ」
「え、いいよ、いいよ。今日は疲れたでしょ、永遠」
「疲れてたら時計の修理なんてしてないよ」
永遠は座卓の上の時計に軽く触れた。するとラビの表情から急に眠気が飛んだように思えた。ラビが真剣な顔で機敏に体を起こした。
「どうしたの?」
「変な音がした」
「さすがにあれくらいの強さで、どこかがずれることはないと思うけど。まあ、ラビが言うなら、見てみようか」
永遠が振り子時計の外装を開けようとすると、ラビがその手を掴んで止めてきた。「時計じゃない」
耳を澄ますラビの姿。雨音だけが支配する静寂。永遠の中に緊張が走る。音を立てないよう、そっと振り子時計を抱きかかえていた。自分のことながら、半ば無意識だった。不安感を和らげようとしたらしい。
不意に軽く、高い音が短く永遠の耳に届いた。試験管を誤って床に落として割ってしまったときの音を想起させた。
次の瞬間だった。円筒状の物体が障子を破って部屋に入ってきた。ぼとりと畳の上に落ちて、転がる。
ラビが体をひねり、永遠を覆うように肩を押してきた。されるがままに倒れる。
倒れる最中、ラビは座卓の手前側の裏を、足の側面を使って蹴り上げていた。上に載っていたコーヒーカップが宙を舞う。わずかに残っていた中身が、小さな波となって散る。それを落ちたデスクライトが横から照らしていた。
座卓が側面で立つのに合わせて、ラビはまっすぐ伸ばした脚で座卓の上部を支えた。直後、爆音とともに閃光が迸った。
永遠は強く目をつむり、耳を塞ぐ。なにが起きたかわからない。あまりの音に振動が体に伝わる。恐怖に身が強張るだけだった。
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