第31話 ディアナの記憶
結局、中ぐらいの魚を一匹捕まえるのがやっとだった。
さすがに日が暮れてきたので、ディアナは慌てて家へと帰る。
ディアナは夜目も効くし夜の方が力も強まるぐらいだが、それでも、「晩ご飯はみんなで」という約束だけは守りたかった。
魚を握り締め、家に帰る途中。
……母の声だった。
やっとの思いで捕まえた魚も放り出し、家族の元へと駆ける。
家に辿り着いた時、最初に感じたのは、濃い血の臭いだった。
大勢の足音が聞こえ、
「マーニ、マーニぃいいっ!」
血まみれの母の姿が見え、ディアナはぎょっと息を飲んだ。
ディアナの母は半狂乱で叫びながら、その姿を狼へと変化させる。
「マーニを返して!!」
白い狼は武装した男たちに飛びかかり、鋭い爪と牙で喰らいつく。
その中の一人の腕に、金髪の少年が抱えられていた。その姿を見て、ディアナの顔からサッと血の気が引く。
少年は青白い表情で、腕はだらりと垂れ下がり、口元からは赤い血を溢れさせて……
それでも、どうやらまだ息はあるらしく、時折苦しげな呼吸が漏れているのも見て取れた。
「あぁあっ」
「……ッ!!」
魔術によって編み出された弾丸……魔弾に滅多打ちにされ、母の身体が地面に叩きつけられる。
「マー……ニ……」
それでも狼は頭をもたげ、男たちに追いすがった。
「息子を……息子を、返して……」
「しぶとい化け物だな。あれだけ攻撃を受けて、まだ死なないのか」
「連れ帰れ。息子と同じように、『実験台』にしてやればいい」
無慈悲な命令が下される。
もう、見ていられなかった。
ディアナは母と同じように、自らの肉体を狼に変化させる。
そのまま疾風の如く飛び出し……倒れ伏した母を背負って森の奥へと走り去った。とにかく、見つからない場所にまで行こうと、無我夢中で走り、走り、奔った。
それが、ディアナの精一杯だった。
「母さん、しっかり」
人気のない場所にまでどうにか辿り着き、ディアナは狼の姿のまま、母に問いかける。
「ごめん。兄さんは、助けられなかった……」
母は
嫌な予感がした。
家族の中で、狼に化けられるのは母と自分だけ。兄も身体の一部だけなら変化させられた気がするが、相当意識しないと難しいとも語っていた。
「……他の、……えっ、と……」
最後まで、尋ねることができなかった。
母は虚ろな瞳からボロボロと涙を流し、わっとディアナにすがりつく。
「ああ……ディアナ……よく、
その言葉で、ディアナは全てを悟った。
涙は出なかった。
あまりにも、現実感がなさすぎたからだ。
***
それからディアナと母親は、森の奥で狼として過ごすことにした。
人目を避け、追っ手に見つからないための方策だった。
少女だったディアナは、案外すぐに狼としての生活に慣れた。……
けれど、ディアナの想いも虚しく、母はどんどんやつれ、弱っていった。
追っ手に見つかる危険性が高いと言うのに、頻繁にかつての生家に戻っては、ただただはらはらと涙を流した。
……父と妹の遺体は、見るも無惨な状態だった。二人は誰にも掘り返されないよう、人里離れた森の奥にひっそりと埋葬し、たびたび墓参りに訪れた。
そんな暮らしの中。ディアナは次第に、人間としての在り方を忘れていった。狼として過ごした年月はいつしか、人間として生きた年月を追い越した。
ある日、ディアナはふらりと姿を消した母を探し、蜘蛛の巣と
母が突然いなくなるのも、リスクを承知でかつての生家に入り浸るのも、いつものことだった。
……けれど、その日は……その日だけは、いつもとは違った。
「……かあさん……?」
玄関で、母親は既に冷たくなっていた。
壁に飛び散った血も、既に赤黒く変色していた。
母親は、人間の姿で死んでいた。
首はぱっくりと裂け、手元には、小さな刃物が握られている。……一目で、自死を選んだのだとわかった。
ディアナは呆然と、壁と同じく血に染まった床に視線を落とす。
血溜まりから少しだけ離れた場所に、血文字で、「S O R R Y」……ごめんなさい、と、書かれていた。
「かあさん」
数十年。
流さずに耐え続けた涙が、一気に溢れ出した。
「いやだ、かあさん……!!」
ディアナは母の屍に取りすがり、吼えた。
「独りにしないで……!!!」
それから、ディアナは独りで長い月日を過ごした。
いつからか、少女時代は時折悪夢で見る程度だった「他人の記憶」と、本来持っていた「自分の記憶」の境界線が薄くなり、日夜ディアナを責めたてた。
……その中には、母のものらしき記憶もあった。
ある日、ディアナは耐え切れず崖から身を投げた。
……が、なぜか彼女の身体は死に至らず、激痛に苦しむのみだった。
崖に、泉に、何度も身を投げた。高さも変えた。角度も考えた。頭から落ちるように工夫もした。
けれど、何度繰り返そうが、得られたのは苦痛のみ。
やがて、ディアナは全てを諦め、感情を
領主に呼ばれ、城に
ディアナにはもう、全てがどうでも良かった。
既に自分の記憶と他者の記憶の区別はつかなくなっていたし、ぐちゃぐちゃに混ざり合ったせいで細部も曖昧になっていた。……何も、ディアナにはわからなくなっていた。
「僕はフィーバス・オルブライト。君の兄だよ」
……けれど。
ディアナは「兄」が……家族が、好きだった。
もう、彼女にはどれが自分の記憶なのかわからなくても。
誰の記憶が、どれほどの数混ざっているのか、なぜそうなったのかも覚えていなくても。
それだけは、きっと、確かなことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます