第19話 朽ち果てた過去
「……ここは……」
朽ち果てた
こぢんまりとした小屋は、それでもかつては誰かが住んでいた気配を
例えば、
例えば、扉に鍵穴の跡がある。壊れて意味をなさなくなってはいるものの、かつて「鍵をかける」用途が機能していた痕跡は見て取れた。
例えば、玄関に血飛沫が散っている。もう乾ききった血痕は、蜘蛛の巣と
血痕を見た瞬間。
ディアナの頬から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
「かあさん」
端正な唇から、幼い少女のような声が溢れ出る。
「かあさん……!」
がくりと膝をつき、ディアナは血痕の残った床に震える手を伸ばす。
蒼白な面持ちで、既に赤黒い染みと化した血の痕に触れる。
「私は、ここに住んでいた」
うわ言のように、ディアナは繰り返す。
「ここに、家族と、住んでいた……」
金色の瞳から、次々に涙が溢れ出す。
どう声をかけていいのか、ランドルフには分からなかった。
***
泣き疲れた彼女を背負い、ランドルフは教会へと戻る。
デイヴィッドに
「……なるほどな。おそらくだが、そこまで取り乱したのはこれが初めてだ」
「ディアナには、別人の記憶がたくさんあるんだろ。だけど……あの感じは、どう見ても……」
礼拝堂の長椅子にディアナを横たえ、ランドルフは浮かない表情で語る。
「あァ……『本物』の記憶だろうなァ……」
デイヴィッドは腕を組みつつ、眉間に深いシワを作る。
「テメェ、この領地の歴史をどれだけ知ってる」
「えっ」
唐突な質問に、ランドルフは目を丸くし、
「な、何も知らねぇ……」
「……だろうな」
ため息をつきつつ、デイヴィッドは静かに解説を始めた。
「オルブライトと、スチュアート。この両家は、何度も実権争いを繰り返してる」
指を二本立て、デイヴィッドはランドルフにも分かりやすいよう、身振り手振りも加えて教える。
「そんで、数十年前……テメェが呪われてなかった時代は、スチュアート家が実権を握ってた。領主もスチュアートの出だったしよ」
「な、なるほど……」と頷き、ランドルフは質問を差し挟む。
「オルブライト家は、その時どうしてたんだ」
「……」
デイヴィッドはしばし、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んだ。
……が、やがて、静かな声でランドルフの質問に答える。
「この権力争いってのが、どうも激しくてな。オルブライトは……皆殺しにされかけた時期もあったそうだ」
「えっ」
「『魔獣』が問題になったしよ。……っつーか、それが火種になったんだろうよ」
「神獣」が産まれる家系。
一神教が広まった昨今、ただでさえ風当たりの強い特性に、更に向かい風が吹いた。
「魔獣の元凶だ」と、誰かが騒いだことも、想像に難くない。
「まあ……それでも、古い名家だ。『復権派』の力も根強かった。……だからこそ、血みどろの争いになったって寸法だ」
ディアナは言った。
「多くの争いが起こった。多くの血が流れた。多くの人が死んだ」……と。
「んで、ある日。一人の男が領主の館に現れ、『自分はフィーバス・オルブライト。オルブライト家の嫡男だ』と名乗りやがった。何でも、森に隠れ住んでた『生き残り』が自分たちを産んだんだと」
「……それが今の領主か」
「ああ、そいつは見事な手腕で『オルブライト復権派』をまとめあげ、敵も味方もそれ以外も言いくるめて領主の座についた」
「森に隠れ住んでた……か……」
朽ち果てた小屋を思い出す。
「かあさん」と泣き喚いたディアナの姿を思い出す。
「……ッ」
「……! どうした、デイヴ」
「……いつもの発作だ。そろそろ、眼ェ取らせてくれや」
「頭痛か……。……お前も大変だな」
デイヴィッドは眉間を押さえて席を立つ。
ランドルフには想像もできないが、片眼を
「ありがとな、デイヴ。色々教えてくれて」
「バカ野郎。テメェが勉強すりゃその手間も省けんだよクソッタレ」
「……お、おう。……確かに……」
悪態をつきつつ、デイヴィッドは青白い指先を棚の方に向ける。
「役人に聞いた話から噂話まで、全部そこの日誌にまとめてる。気になったらテキトーに読んどけ」
「おお、ありがとな。助かる」
そのまま、デイヴィッドはふらつく足取りで私室として使っている小部屋に向かった。
ランドルフはその背を見送り、長椅子に寝かせられたディアナの髪を撫でる。
「兄さん……」
そのまぶたから、一筋、涙が零れ落ちた。
「……兄貴、か」
ランドルフには兄弟姉妹がいない。
だからこそ、分からない部分も多い。
けれど、実権争いの話を聞いた今……兄妹関係に影を落としているモノの正体も、何とはなしに見えた気がした。
「……領主やるのが大変すぎて……とか、か?」
かつて皆殺しにされかけた血筋の出身で、敵も多い中、領主として君臨し続けたのだ。……その過酷さは想像もつかないが、その日々の中で「何か」が歪んだと予想することはできる。
「辛かったな、ディアナ」
それなら尚更、ディアナにとっては苦痛だろう。
……もし、ディアナが兄を慕っていたのなら、「変わってしまった」相手と相対し続けていることになる。
──正気に戻ってくれ、ランドルフ!
……かつて自分が喰らった、仲間たちのように。
ランドルフの胸の奥で、「魔獣」が頭をもたげる。
ランドルフはその咆哮を無理に抑え付けるのではなく、まぶたを閉じ……声を、聞くことにした。
デイヴィッドは言った。魔獣は、ランドルフの「負の感情」に連動するのだと。
「ああ、そうか」
「呪い」の伝染とはいえ、ランドルフを凶暴化させたのは、デイヴィッドの言う通り彼の「負の感情」だった。
「我慢……してたからなぁ」
行き場のない欲求は、彼の中で常に
信頼される狩人としての立場が余計に、ランドルフを縛り付け、苦しめた。
人のことも、獣のことも、同じように愛していると叫びたかった。
それでも……その愛欲が異常だと、断罪されるのが恐ろしかった。
努力して作り上げた虚像が崩れ去る瞬間を恐れながら、それでも、抑えきれない欲望を抱えて──
気が付けば、獣は涙を流していた。ランドルフも、同じように泣いていた。
「……大丈夫か」
ディアナの声が、意識を現実に引き戻す。
白い指先が、涙を拭う。
「ディアナ」
その言葉が出たのは、
「キスしても、いいか」
懇願のようなものだった。
「……ああ」
ディアナは横たわったまま、薄っすらと微笑む。
「君になら……問題ない」
本当なら、今すぐにでも覆いかぶさって唇を奪いたかった。
それでも……ランドルフにはまだ、蹴りをつけられていない感情がある。
「……いや、やっぱり、いい」
「……?」
「俺の話を聞いて……それでも良いなら、受け入れてくれ」
かつてディアナが自分の身の上を話したように。
ランドルフも、全てを明かすことにした。
「俺は──」
異端であろう、その葛藤を。
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