第5話 月の下には海がある

 園内を一通り歩き終えて、やがて三人は海へと至った。辺り一帯が海だから、今さら至るも何もないが、そこは海らしい海で、それはつまり、地球らしい場所ということを意味していた。一面に広がる海。遮るものがほとんどない。一面に広がる砂浜と、その背後に陳列する松の木。すべて人工のものだが、それでも火花はこの場所が好きだった。綺麗だから。理由などそれだけで良い。


 頭上に満月が上が上っていた。煌々といえるほどはっきりした明かりではなく、密度の高い空気に遮られているからか、ぼんやりとしている。表面に象られた模様など見えない。見えない方が良いかもしれない。それが見えるのは、そういう概念が先に頭の中にあるからだ。


「学校に通うと、そういう概念を沢山学ぶことになる」砂浜を歩きながら少女が言った。


「それは、息苦しいことですか?」火花は尋ねる。


「どうだろう。息苦しい、と感じたことはないけど、仰々しい、と感じたことはある」


「仰々しい」


「色々なものが見えるようになる代わりに、色々なものが見えなくなる」


「しかし、それは仕方がないことではありませんか?」


「仕方がない、と諦めることが、すでに、仕方がない、という概念に支配されている証拠」


「なるほど」


「どうしたら、これらの概念を取り払えるのか」


「取り払いたいんですか?」


 火花がそう尋ねると、少女が目だけでこちらを見た。歩いているから、顔は前方に向けなければならないということかもしれない。確認したわけではないが、そんなことを言われるような気がした。


「今は、特別、取り払いたい、とは思っていない」少女は答えた。「けれど、いつかそう思うような予感がある。何もかもを取り払って、真っ新な状態で世界を見つめれば、とても綺麗に見えるのではないか、と思う」


「学ぶことは、嫌いですか?」


「嫌いではない。でも、それがすべてではない」


「ほかに、どんなことをしたらいいでしょう?」


「食べたり、遊んだり、話したり、かな」


「インプットに対して、アウトプットをする、ということですか?」


「そうかもしれないけど、そうではない。そういうふうに、まとめる必要はない」


 少女の言いたいことは、火花にはあまり分からなかった。しかし、それは、自分の頭に沢山の概念が存在しているからだろう、ということは、なんとなく察しがついた。この一連の会話が、少女が言いたいことを具現化しているのだ。


「何も考えずに、ひょうひょうと生きていけばいいんじゃないか」少女の腕の中で丸まっていた黒猫が、口を利いた。「将来のことも、金のことも、人との関係も、考えたって仕方がない。むしろ、考えるほど本質からは遠ざかっていく。どうやら、そういう性質があるようだ。考えるより感じろとは、よく言ったものだな」


「それは、年の功?」少女が質問する。


「いや、単なる直感」


「直感でも、そういうことが言える、ということですね?」火花は確認する。


「そうそう。よく分かっているね」黒猫は答えた。


 砂浜の終着に小規模な階段があり、それを下りた先に木造りの小舟が浮かんでいた。海の底に突き立てられた棒に、船体がロープで括り付けられている。それは以前からそこにあるものだが、誰かが使っているのを火花は見たことがなかった。


 三人でその舟に乗り込む。三人といっても、一人はあまりにも小柄だから、船体にはまだ余裕があった。少女と向かい合って、火花は船底に腰を下ろす。停めてあったロープをほどき、オールを用いて海へと漕ぎ出した。


 水を掻く音。


 ときどき飛沫が上がって、オールを漕ぐ手に降りかかる。


 冷たかった。


 正面に座る少女が、顔を外へ出して水面を見ている。


 それから、顔を上げて火花を見た。


 真っ黒な目。


 澄んだ瞳。


 少女の背後に巨大な月が浮かんでいる。


 火花には、彼女が月の化身に見えた。


 いや、妖精か……。


 けれど、そういう名前で呼ぶのは好きではない。


「私と、友達になってくれませんか?」火花は言った。


「友達?」


「はい、そうです」


「友達、の意味がよく分からない」


「うーん、じゃあ、知り合いでも構いません」


「もう、私は貴女を知り、貴女も私を知っているから、知り合いでは?」


「ええ、そうですね」火花は少し笑った。「では、そうしましょう」


 遠くの方に先ほどまでいた遊園地が見える。申し訳程度に用意されたジェットコースターが、闇の中に佇んでいた。海の上から見ると、それは夜の街にやってきた怪物のように見える。


 自分が妖精と言われる意味が、少しだけ分かった気がした。


 トランシーバーのボタンを押して、火花は施設のコンピューターに連絡する。


 数秒後、前方で光が生じた。


 怪物が遊園地に変化する。


 温かい色をしている。


 原色はなく、どれも薄い。


「綺麗」


 火花の向かい側で少女が呟く。


「明日から、こうしましょう」


 火花の言葉を聞いて、光を映した少女の目が笑った。

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テントウ 羽上帆樽 @hotaruhanoue0908

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