第4話 空の端には月がある

 少女にコーヒーを飲んでもらった。そして、間違えて黒猫にもコーヒーを飲んでもらうことになった。コーヒーを二人分用意してしまったからだ。火花がミルクを飲むことになったのは、先にそちらに口をつけてしまったからだ。


「熱くて飲めやしないな」黒猫が言った。「猫舌というものを知らないのか?」


「ごめんなさい」火花は三回目の謝罪をした。


「冷めれば、飲めるはず」少女がコメントする。「それでも飲めないというのなら、私が貰う」


 室内に照明は点っていなかった。入ってくるのは、外に設けられた照明の光と、空に浮かぶ月の明かりだけだ。


「具体的には、どんなものを見たいんですか?」火花は質問した。


「何が見たいの?」少女が黒猫に尋ね返す。


「特に決めてはいない」彼は答えた。「こういうのは、決めないからいいんじゃないか」


 少女がこちらを見て首を傾げてきたので、火花も同じ動作をする。


「貴女は、ここで何をしているの?」少女が尋ねてきた。


「何とは、どういう意味ですか?」


「どういう生活をしているのか」


「ここの管理をしています」火花は答えた。「まさに管理人という感じです」


「貴女のほかには、誰かいるの?」


「誰もいません」


「お客さんは?」


「ときどき来ますが、来るだけです。設備を利用することは稀です」


「ここは、何のためにあるの?」


「分かりません」


「何のためというのは、よくない質問だったかもしれない」そう言って、少女はコーヒーを一口飲む。「では、どうして、ここは存在するの?」


「さあ、どうしてでしょう……。貴女はどうして存在するのですか?」


「私?」


 火花は頷く。


「分からない」


「……あまり、よくない質問だったかもしれません」


 火花がそう言うと、少女はコーヒーカップを構えたままの姿勢でこちらを見た。瞬きをしていない。彼女の対面に座る黒猫が、コーヒーを啜ろうとして悲鳴を上げた。その声が広大な空間に響き渡る。


「少なくとも、私にとっては、居場所にはなっています」火花は言った。「今のところ、それだけで充分です」


「それなら、よかった」


「貴女に居場所はありますか?」


「居場所というのは、家のこと?」


 少女の返答が面白かったから、火花は少し笑った。


「そう受け取ってもらって、構いません」


「家はある。それから、学校に通っている」


 それは、少女の服装から分かっていた。彼女は制服を身につけている。下はスカートで、上はブレザーだった。コスプレの可能性も想定しえるが、あまりにも彼女に似合っていたから、もっとも純粋な形で解釈した。


「学校では、どんなことを?」火花は尋ねる。


「どんなこと、とは? 勉強のこと?」


「ええ、そうです」


「言葉の勉強と、数の勉強と、主観的な世界の勉強と、客観的な世界の勉強をしている」


「一番目は三番目の、二番目は四番目の内ですね」


「うん、そう」


「楽しいですか?」


「うーん、楽しいかは分からないけど、面白いと感じることはある」


「たとえば、どんなところが?」


 火花が尋ねると、少女はこちらをじっと見つめる。彼女がその行動をとる法則は、今のところ分からなかった。基本的にずっと目が合っているから、ただ合わせたのではない。


「たとえば、主観的な世界と、客観的な世界は、根本的に構造が同じになっているところとか」少女は話した。「主観的な世界と、客観的な世界は、ある点でリンクを形成している。そのリンクによって、人間の世界は成り立っている。人間の世界というのは、どちらかといえば主観的な世界だけど、それより一段階上の、主観的な世界と、客観的な世界を覆う意味での、人間の世界を想定することができる。主観的な世界と、客観的な世界の両者が、互いに関係し合っていることで、戦争が起こることもあれば、協力が生じることもある」


「抽象的な話ですね」


「そう」そこで、少女は人差し指を立てた。「でも、抽象は、具体の集まり」


 火花は学校に行ったことがない。本で読んだ情報でしか、その場所について知らなかった。だから、彼女にとって学校という場所は一般的ではない。どこか遠くの国にあるお城のような場所として認識している。そこで交わされる情報が、どの程度の信憑性を持っているのか分からないが、ともかく、価値があるらしいことは理解していた。


「私も、一度は学校に行ってみたいような気がします」火花は言った。


「行ったことがないの?」


「ありません」


「行く?」


「行くって、どういうことですか?」


「今から」


「今から?」


 また、少女に見つめられる。


 その瞳に吸い込まれそうになる。


 けれど、それは磁石のように確かな力を持ってはいるものの、それ以上には踏み込まない、独立した運動のように思えた。


「ここを、案内してほしい」立ち上がって、少女が言った。


 そこで、火花は椅子から転げ落ち、硬質な地面に手をついた。

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