第3話 塔の縁には空がある

 星空が見える。外にいるから見える。制御室は地下にあるから、窓はない。じっと見つめていれば、流星群が見えるような予感もした。その種の予感は、意識的に捏造しても意味がない。


 おそらく、もう門は閉まっているだろうと火花は考える。時計は一時間ほど前に確認したきりだったが、時間の感覚には自信があった。毎日同じ間隔で生活しているからだ。


 シャッターが下りた移動式のワゴンの前に立っている。車体に寄りかかって、空と海の境界を見つめていた。


 自分が何をしていても、地球は回っている。空も海も必ずそこにある。


 屈み込んで、アスファルトの地面に触れてみた。


 冷たい。


〈来訪者を確認。現在、こちらに向かっています。すでに園内にいるようです〉


 トランシーバーの電源が入って、合成音声がそう告げた。側部にある細長いボタンを押し込んで、火花は応答する。


「園内のどの辺りですか?」


〈推測できません〉


「では、推測してください」


〈貴女のすぐ後ろに〉


 振り返ってみたが、ワゴンの中には誰もいなかった。


 前方に向き直ったとき、火花は少し驚いた。


 そこに人影があった。


 闇に紛れて輪郭が朧になっている。


 けれど、そこに存在することが確かに分かる。


 桟橋の上に直立し、じっとこちらを見つめている。


 少女だった。


 火花が彼女を見つめていると、彼女の方からこちらに近づいてきた。傍に立つ背の高いライトが照らす範囲に入ると、姿がよく見えるようになった。その分、域内と域外のギャップが激しくなって、背後は闇に包まれた。火花の方を向いている表面だけが、アクリル板に描かれたイラストのように鮮明だった。


 少女は黒猫を抱えている。彼女の黒く澄みきった目と、黒猫の黄色く輝いた目が、揃って火花の方を見ていた。


「お待ちしていました」ワゴンに凭れかかっていた身体を離して、火花は言った。


 少女は軽く頭を下げる。


 一歩ずつ、確かめるようにこちらに近づいてくる。


 まるでrain。


「こんばんは」少女が声を発した。小さいが、よく澄んだ声だった。滝壺に溜まった水のような響きだ。「申し出を受けてくれて、ありがとう」


 火花の前まで来ると、立ち止まって、少女はこちらをじっと見つめた。火花の方が背が高いから、少女が見上げる格好になる。黒色の瞳が回転しているように見えたが、錯覚のようだ。どちらが上で、どちらが下か分からないほど、綺麗な円形をしている。


 海の側から風が吹き、少女の髪を少し持ち上げた。


 呼応するように、火花の髪が宙に舞う。


 彼女の長すぎる髪と、少女のさほどでもない髪が接触した。


「今日は、どのようなご用件ですか?」火花は尋ねた。


「特には」少女が応える。「夜の間は、ここは開いていないみたいだから、気になって、入ってみたいと思った」


「なるほど」


「そう言ったのは、俺の方だ」


 少女の口ではなく、胸の方から声が聞こえて、火花はそちらを見る。そこに浮かぶ黄色い目に焦点が合った。少女が抱えた黒猫がこちらを見ている。


「こいつは、あまり積極的ではないからな」黒猫が言った。「提案するのはいつも俺だ。今回も、ここに来たいと言ったのは俺だ。迷惑をかけたのなら、すべて俺の責任だ」


「その提案を受け入れた私にも、責任があるのでは?」少女がコメントする。


「しかし、最終的には、責任は誰か一人が負うものだろう?」


「組織の場合には、そう」


「俺たちは、組織だ」


「そうかな?」


「迷惑ではありません」火花は自分の意見を述べた。「いつも、この時間は空いています。空いているというのは、私のスケジュールが、という意味です」


「園内を案内してほしい」少女が言った。


「ええ、それは構いません」


「よかったな。話の分かるやつで」黒猫が呟く。


「猫語も分かるらしい」


 二人を連れて、火花は園内を進んだ。階段を上って一つ上のフロアに至る。フロアといっても、そこは実質的には建物の内だ。一番下の地面に建物が建てられていて、その高さに合わせて、階段と、その上に連なる空間が設けられている。


 傍にある硝子戸を開けて、二人を室内に招き入れる。そこはレストランだった。レストランとは名ばかりで、実際には単なる休憩所として使われることが多い。そして、今では休憩所として使われることすらあまりない。


 二人を窓際の席に案内し、火花はカウンターの奥へ進んだ。そちらに厨房がある。


 あまりこの手の仕事をしたことはなかったが、メーカーを用いてコーヒーを入れることくらいはできた。二人がコーヒーを飲めるか確認していなかったが、おそらく飲めるだろうと勝手に判断した。トーストをトースターの中に入れ、焼けるのを待つ。


 自分は何を飲もうか、と考える。


 コーヒーが良いだろうか。それとも、紅茶だろうか。


 客人が来るのが久し振りだから、客人をもてなすよりも、客人に自分を合わせる方が大変だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る