回想「レディ・オブ・ザ・ランドにさよならを」②

 夜も深い時刻。

 唐突な来客の呼び鈴が鳴って、トワが対応のために部屋を出ていた。

 残されたラヌは漁師仕事で使うナイフを使って、サメ歯のペンダントにコランの名を刻んでいる。既にペンダントは出来上がっていて、名入れの工程が終われば完成である。

 力を込めて、想いを込めて。

 最後の一彫りを終える。


「よっしゃ、完成だ! 見てくれよ、奥さん!」


 子供が自慢するようにサンドラへとペンダントを見せびらかす。

 サンドラはそれが何かわからず、優しい微笑みを浮かべたまま小首を傾げる。


「なぁに、コレ?」


「オイラたちの町じゃ、子供が産まれたらコレを作って贈るんだ。サメ歯は、えっと……何だっけ」


 話そうと思っていたサメ歯の意味を忘れてしまい、ラヌが難しい顔でうんうんと唸る。

 その様子にサンドラが小さく笑った。


「ふふ、思い出したらまた話してね。早速、コランにあげてくれる?」


「おうよ」


 ラヌは眠っているコランを覗き込む。

 温かい毛布に包まれてコランが眠っている。

 自分と比べれば、まだまだ小さいし、ここから成長して同じ大人になるなんてラヌには信じられなかった。サンドラからこんな小さい人間が出てくるなんて、『母親っていうのは凄い』とラヌは素直に思った。

 コランに見せるようにラヌがサメ歯のペンダントを自分の顔の横に持ち上げた。


「これ、コランのために作ったんだ。ちょっとデカく作り過ぎちまったけど、大きくなったらピッタシだろうぜ」


 ラヌはペンダントをコランの傍に並べた。ペンダントはコランにはまだ大きい。


「へへ……」


 それを見て、彼は満足そうに笑った。

 ラヌが上体を起こしたとき、横にある窓から外で動く何かを見た気がした。


「?」


 気になって窓に寄って外を確認する。

 サンドラの部屋は玄関から位置的に屋敷の左手奥にあり、窓から玄関の方は距離があって見えない。だが、遠景に広い海と港町の全体が見え、町から屋敷に通じる道を見ることが出来た。

 既に辺りは暗い。だが、ラヌは地元の闇に眼が慣れていた。

 最初、ラヌは来客が町に帰っていく姿を見たのかと思った。

 だが、逆だった。

 長い棒状の物を持った集団がランタンの火も点けずに屋敷の方へやって来ていた。


「あれは銛? 魚を捌く長包丁まで。何だ……?」


 その集団は道の途中で止まり、何人かが左右に分かれて物陰に隠れた。

 只ならぬラヌの様子に、良からぬ事態を察知したサンドラが少し身体を起こす。


「どうしたの?」


「わかんねえ。けど……オイラ、トワの所に行ってくるよ」


 サンドラの返事も聞かず、ラヌは扉の方に急ぐ。

 何だか胸騒ぎがして、早くトワの所に行きたかった。

 

「奥さんはここに居てくれ! なんかあったら、叫ぶんだぞ」


「あ、ラヌ。待って……」


 声を掛ける間もなく、乱暴に扉を開け放して飛び出していったラヌ。反動で扉が閉まった。

 残されたサンドラも嫌な予感を感じていた。

 来客の正体は不明だけれど、事態が悪い方向に進みかねないとサンドラは覚悟を決める。

 一週間前ラヌから警告を受けたときから、彼女はずっとそう思ってきた。

 そう思うだけの理由はある。

 レディ・オブ・ザ・ランドの迷信。

 トワの話からそれが大昔から遺っているのは確かだ。

 この土地の人間――特に伝承を信じているような古いタイプは今も島の怪物を恐れている。だからこそ、現在まで伝承が遺り続けて、口伝くでんとして若い町人に語られる。

 町の人間の恐れがどれ程のものか計り知れないが、この土地を訪れた当時の住民の反発を考えると根強いものに思えた。

 だとすると、自分たちは好ましくない存在どころか、ルールを破った憎き存在という位置づけになっているかもしれない。

 迷信とは限られたエリアに浸透する価値観だ。その価値観がどういった思考回路と正義を持つのか、よそ者のサンドラには推測さえ出来ない。

 迷信が間違いだという訳ではなく、一般的ではない独自の正しさがあるのだ。

 それが限られた社会集団コミューンというものだと、サンドラは熟知していた。

 だからこそ、自分たちの立場が危険な可能性もある。

 状況を再認識し、サンドラはベッド脇の小さな棚――上から二段目をじっと見つめる。


「ん……」


 身体を捻って手を伸ばして、引き出しを開けて中の火打ち式フリントロック短銃を取り出す。

 夫婦揃って暴力は嫌いだが、護身用に一丁だけ用意していた。


「使えるかしら……」


 コランの方を見る。

 よく眠る我が子の寝顔と短銃を交互に見た。


―― 


 トワは玄関扉を静かに開けた。

 外にはランタンを持って神妙な顔をした老人たち――トワも顔を知る漁師が居る。筋肉質な体つきの輩ばかりで漁師の集まりだと思われる――が集まっていた。


「お待たせしました。何の御用でしょうか?」


 先頭に立つ精悍で色の濃い黒目の老人が答える。


「ここの奥さんに子供が産まれたと聞いた。それは確かか?」


「はい」


「そうか。では、引き渡してほしい」


「……はい?」


 突然の老人の申し出にトワは戸惑った。

 使用人の反応など気にもせず、老人は伝承に裏付けされた動機を語る。


「君は知っているか? あの夫婦は怪物が棲む呪われた島に行ったんだ。しかし、帰ってきた。そして、身籠った。この辺りには島の怪物が子を産ませるという言い伝えがある。悲しいことだが産まれた子は呪われている。怪物の呪いから町を守らなければならない。呪われた子供が町に災いをもたらす前に」


「何を言ってるの? 産まれた子が呪われてるなんてある訳がないでしょう」


 老人の言い分は間違いだとトワは理解している。

 自分に子供を授ける力などない。コランが呪われることは絶対にない。

 だが、老人たちは目の前の仮面を付けた使用人が島の怪物の正体だと知らないし、呪いの本当の効能など知らない。

 ただ、島の怪物と呪いが繋がっているとだけ伝承で知っているのだ。それ以外の真実など、彼らには関係がない。

 うろたえるトワに向かって、老人は不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「所詮、部外者に理解できるものじゃない。ワシらも伝承を教えに来た訳じゃない。用があるのは子供だけだ、退きなさい」


 屋敷に入ろうと一歩踏み出した老人の前にトワが立ちふさがった。

 筋肉がある分老人の方が大きく見えるが、トワも細い身体から不退転の決意を滲ませて老人たちをけん制する。


「……呪いが恐ろしい気持ちはよく解るわ。けど、それは島と怪物に向けるべきよ。子供には何の因果関係もないじゃない」


「解るだと? 何も解っていない。忌まわしい呪いが呼ぶ災い。子供こそが呪いだ、それを払う必要があるのだ」


「子供は呪いなんかじゃない。呪われてるのは島の怪物だけよ」


 食い違う主張。

 てこでも動かぬ様子のトワに溜息を吐いた老人は、彼らが知る伝承の由来と己の考えを語り出す。


「先祖から続く伝承がある。島で殺された人間が居たから、三度目が起こらないよう作られた伝承だ。ここに集まった者たちは殺された青年の家系に連なる子孫でな。一族を通じて伝承を守ってきた」


 老人が何かを取り出す。


「……これはつい先日手に入れた、かつて島の怪物に殺された先祖の遺品だ」


 それは年代を重ねて茶色くなったサメ歯のペンダント。レディ・オブ・ザ・ランドが殺した青年の物。

 トワは息を呑んだ。

 見覚えがある。確かにそのペンダントはかつてレディ・オブ・ザ・ランドである姫が殺した青年の物。

 老人はトワが島に居たもう一人の怪物だと知る筈がないので、これは完全な偶然だった。

 だが、トワの心が大きく動揺するキッカケとなった。

 ペンダントを握る老人が力を込める。


「町の人間があの島に関われば必ず不幸になる。災い――呪いが呼ぶ不幸。呪いの運命こそが島の怪物の正体だ。そして、島に行ったあの夫婦の子が産まれたとき、このペンダントが故郷に帰ってきた。これは災いの前兆だ。ここで止めねばならない」


 老人の言葉には無念と覚悟が込められていた。

 トワが知る由もない事情が町にはあった。

 町は漁業で成り立っている。大きな町ではないから貿易が盛んな訳ではない。広い漁場がある訳でもない。だから、漁獲量が減る年などは苦労をすることになる。

 飢えの改善策ならばあった。漁の範囲を広げれば良いのだ。魚が獲れる場所に移動すれば、飢えを凌げるだけの量を獲れる。

 だが、町の漁師にそれは出来ない。

 なぜなら、漁師が新たに広げられる漁場とはまさにレディ・オブ・ザ・ランドの島周辺だからである。伝承が足かせとなり、漁師たちは飢えで苦しみながらも島を避ける。

 守るための伝承が自分たちの首を絞める。

 島の呪いと災いは先祖の遺恨だけでなく、現在の苦しみにも繋がっていた。

 老人の言う災いとは、そういう因縁も込められていた。


「このペンダントが届いたのは偶然ではない。運命だ。今こそ、呪いの運命に勝たねばならない」


 老人と同意見だと主張するように他の老人たちが一回足踏みした。

 トワは老人たちの眼を一瞥いちべつする。

 皆一様に理性の光が陰り、後戻りはしないという暗い覚悟が宿っていた。


(……止まらない。怪物の呪いが町の子孫たちにも呪いとなったんだ。コランを危険に晒しているのは私たちのせいだ)


 呪いの運命。

 それはどんな形であれレディ・オブ・ザ・ランドを絡め捕り、決して逃がさない。

 そして、関わる全てに伝染する。

 町も、ジョーンズ夫妻もコランも、皆呪われて。

 捻じれた輪のように呪いの運命が循環している。

 始まりはいつも『レディ・オブ・ザ・ランド』。

 改めて身に負うモノの重みを実感して、トワの心に重い影が差す。

 その隙を来訪者たちは見逃さなかった。

 一団の中から二人の男が飛び出して、老人とは思えぬ俊敏さでトワに掴みかかり取り押さえた。


「あ!? ぐっ……」


 反応が遅れたトワは仮面ごと顔を木の床に押し付けられた。


「大人しくしていてくれ。ワシらも無関係の者を巻き込みたくない」


「……無関係なんかじゃない」


「いくぞ」


 トワの言葉は老人たちの耳に届かなかった。

 怪物の力を使えば、漁師といえども老人二人程度は軽々と振りほどけるだろう。そうすれば、自分が無関係の使用人ではなくて、島の怪物の正体だと晒されることになる。

 だが、そんなことを気にする余裕など、既にトワにはなかった。

 トワが膂力を披露しようとしたとき、彼女がやって来た廊下の方から騒がしい足音が響いてきた。

 すぐにラヌがエントランスに現れて、床に押さえつけられているトワを見て、顔を真っ赤にして声を荒げる。


「テメエら、何してんだ!!」


「ラヌ?」


 激昂するラヌは己を呼ぶ声の方を向く。そこには例の老人がラヌの存在を認めて、日焼けした顔に憐みの色を浮かべていた。

 対するラヌは怒りが引いて、知り合いがトワを拘束している状況に困惑の表情である。


「ヤニスさん? なんでアンタが。いや、そんなことより、アイツらをトワからどかせてくれ!」


 だが、ヤニスと呼ばれた老人も他の連中もラヌの望みを聞く気はなかった。

 ヤニスがラヌからトワの姿が見えなくなるように間に立ち、一歩近付いた。


「ラヌ、よく聞け。全ては町のためだ」


「何がだよ。ソイツは何も悪いことなんかしてねえよ!」


「お前がこの家の者に執着しているのは知っている。だが、ラヌ。お前は町の漁師で、ワシの教えを受けたんだ。町の人間は家族、この家の者はそうじゃない。この家の人間は呪われているんだ」


「……何でだよ。何で、アンタはここの人たちにそんな嫌な気持ちを向けてんだよ」


 ラヌは拳を固く握って、歯を食いしばりながらヤニスを睨んだ。

 ラヌの勘がヤニスの言葉から感じ取ったのは黒い感情――この屋敷の人間への敵意。

 老人たちはラヌにとっては漁の先生であり、大切な町の仲間である。そんな人たちが自分の恩人とも言えるジョーンズ夫妻とトワに悪意を抱いているのが、ラヌには悔しくて仕方なかった。


「トワはやっと幸せになれたんだ。ジョーンズさんたちだって、やっと子供が出来た。皆幸せになれそうだったのに。どうして、呪いなんかより目の前の人を信じられないんだよ!」


 ラヌの叫びがエントランスに反響するも、すぐに小さくなってしまった。

 話が通じないと判断したヤニスは低い声でラヌに尋ねる。


「ラヌ、子供はどこだ?」


「……どうしてだよ」


 トワがラヌに向かって声を上げる。


「教えちゃダメ! こいつら、子供を殺す気よ! ぐぅっ……」


 トワは後頭部を掴まれて力任せに床へ押さえつけられた。

 トワの忠告を聞いたラヌはそれが嘘でないと直感し、ヤニスたちを睨んだ。


「コランはすっげぇ可愛いんだよ。柔らかくて真っ赤でよ。小さいのにしっかり生きてるんだよ。それを見つめる奥さんは美人で、旦那さんだって格好良くて。トワはめっちゃ幸せそうで……オイラは、それを見るのが大好きなんだよ」


 呆れたと言わんばかりに、ヤニスは溜息を吐いた。


「全部、お前が招いたのだぞ。お前が島にあの夫婦を連れて行かなければ、こんなことにはならなかった。子供が犠牲になる必要もなかった。何度も教えたはずだ。あの島には近付くな、呪いが町の人間を不幸にするとな」


「なら、オイラを狙えばいいだろ! なんで子供なんだよ!」


「その子が呪われているからだ! 呪いが災いを呼ぶからだ! 町を守るためにはもう殺すしかないんだよ!」


 ヤニスの言葉が真意であると、他ならぬラヌには解ってしまった。

 ラヌは心から、こうなってしまったことを深く悲しんだ。大事だった仲間の暗い一面を知り、初めて自分の勘の良さが呪いのように感じられた。

 

「ラヌ……」


 トワも彼の悲しそうな顔を初めて見た。その顔を見ているだけで、彼がどれだけ苦痛を感じているのかと同情した。

 

「……よくわかったよ、ヤニスさん。オイラ、決めたよ」


「ラヌ、お前はどっちだ。町の人間なのか、違うのか」


 ヤニスの問にラヌは拳を固めた。

 そして跳ぶように勢いをつけて駆け出して、ヤニスの顔面めがけて右拳を見舞う。

 突然の攻撃に反応できなかったヤニスはラヌの拳をもろに食らう。


「ぶはっ!?」


「――こいつがオイラの答えだ! 子供にも、この一家にも手は出させねえぞ!」


 後ろによろけたヤニスは殴られた所を手で押さえながら、一瞬だけ哀しそうな目をラヌに向けてから仲間に目配せした。

 仲間の一人がすぐに手に持ったランタンを外に向ける。そして、カチャカチャと閉じたり開いたりして連絡を送る。

 それを見たラヌは本来自分がここに来た目的を思い出して、トワに向かって叫ぶ。


「外に武器を持った仲間が居る! 隠れてる!」


「っ! ぅあああ!」

 

 忠告を受けて、危険な状況を悟ったトワは正体を隠すのを止めて怪物の膂力を発揮した。

 彼女を押さえつけていた老人二人は突如、女の見た目からは想像も出来ない力で下からかち上げられて壁まで吹っ飛んだ。

 それと同時に、屋敷の玄関方面を半円形に取り囲むように複数のランタンの火が灯った。

 火の光は屋敷に進行してきている。

 また、エントランスで動きがあった。

 トワが拘束を振りほどいたと気付いたヤニスが指示を飛ばし、三人がトワを抑えに向かい、残りの四人がラヌの方に向かった。

 ヤニスたちの一団は老いた男ばかりである。だが、全員が漁師でほとんどが現役を続けており、身体の動きも力強さも並みの男よりも良い。

 トワを取り押さえようとする屈強な漁師三人が同時に飛び掛かる。

 その顔に情け容赦の気配は無く、むき出しの殺意を込めてトワの細い身体に手を伸ばす。

 相対するトワはあえて前に踏み込む。

 距離が狂って掴み損ねた中央の男の手首を掴み、男の下腹を踏みつけた。踏みつけと同時に手を引いて足を踏み込む。大昔、王族の使用人だった頃に身に着けた女が男を相手にするための護身術の一つ。とにかく、相手を行動不能にすることに特化した攻撃である。

 急所近くと腹を抉るように踏まれた男の動きが止まった。

 次いで、トワは流れるような動きで悶絶する男の左手首を両手で掴み直し、そのまま腰を捻って、力を身体へと流してさらに肩へと伝導させてゆく。

 ダンスのスピンに似た動きだ。回転の動きに男がされるがまま振り回される。

 トワよりも大柄な男の体重とさらに遠心力が加わり、他二人の漁師たちは人間ハンマーにぶつかった端から吹き飛ばされていった。

 あっという間に三人の屈強な漁師を片付けたトワ。

 対して、ラヌはうつ伏せで二人の男に完全に抑え込まれていた。

 ジタバタと暴れて拘束を逃れようとしても、一人の男がラヌの背中に膝を押し付けて呼吸を阻害し、どうやっても自力の脱出は不可能な状態に陥っている。

 ラヌの状況を認めたトワは他の二人の行方を探る。

 怪物の感覚を頼りに、サンドラの部屋の方に向かう二人分の足音を感知する。


「ダメッ」


 トワは駆け出した。

 その彼女の前に鼻の折れたヤニスが立ちふさがる。

 倒すことは簡単だがトワは俊敏に老人の脇を抜けて、ラヌを解放することを優先した。

 彼を捕えている男たちに背中から蹴りを食らわせ、ラヌに手を差し出す。


「あ、あんがとよ」


「サンドラが危ない」


「わかった、行こう!」


 二人は急いでサンドラの部屋に向かった。

 ラヌは一瞬だけヤニスの方を見たが、すぐにトワの後を追いかけた。

 去っていく背をヤニスはただ見送るしか出来ない。

 折れた鼻の傷みに顔をしかめつつ、トワに倒された仲間を見やる。


「……何者なんだ、あの使用人は」



 サンドラの部屋の扉は開け放たれていた。

 暗い廊下に襲撃者の姿はない。部屋に侵入してしまっているようだ。

 トワとラヌの二人は部屋に駆け寄って、中の母子の無事を確かめようとする。

 二人が部屋を覗いたと同時に乾いた銃声が一発、サンドラの部屋に響き渡った。


「ぐっ……」


 サンドラのベッドに近付こうとしていた男の一人が短い呻きを漏らし、人が切れた人形のように倒れた。もう一人の男は仲間が撃たれたことに気付いて呆気に取られていた。

 ベッドの上では、コランを抱えたサンドラが硝煙を吐く短銃ピストルの銃口を男たちに向けている。

 銃を持つ彼女の手は震え、その顔は蒼白だが眼だけは勇ましく侵入者を睨みつけていた。

 仲間が銃撃に倒れたことを数秒遅れて理解したもう一人が、怒りの形相でサンドラに掴みかかる。

 サンドラは銃口をその男に向けて、何度も引き金を引く。

 しかし、彼女が持つマスケット銃の短銃ピストルは単発ずつしか撃てない。次弾を装填していない状態では撃鉄がフリズンを空しく叩く音だけが響く。

 部屋の入口に居た二人が動く。

 ラヌが男に突進してサンドラから引き剥がし、トワが盾になるようにサンドラに覆いかぶさった。


「おおお!」


「ぐう、うっ!?」


 ラヌは仲間だった老漁師に馬乗りになって、何度も顔面に拳を繰り出す。

 最初は反撃もあったが、やがてして男はラヌの攻撃で気絶した。

 荒い呼吸のまま、ラヌは倒した男をカーテンの紐を使って縛り上げる。

 トワは侵入者二人を見やり、動かないことを確認してからサンドラに声を掛けた。


「サンドラ」


「はぁはぁはぁ……」


 荒い息をしながら、決して銃を離さないサンドラ。

 トワは銃を持つ彼女の手に自分のを添えて、彼女を落ち着かせるように優しく囁く。


「もう大丈夫、大丈夫だから。ゆっくり離して。ね?」


 サンドラはじっとトワを見つめ、数秒経って指の力が緩んだ。その隙にトワはサンドラから銃を取り上げた。

 トワが銃を持ったのはこのときが初めで、意外と重い物だと知った。

 気持ちが落ち着いたサンドラが一度深呼吸してから、トワたちに状況を尋ねる。


「……ねえ、どうなってるの? 彼らはどうしてコランを狙うの?」


 不安げなサンドラの両肩に手を置き、トワは項垂れた。


「全部、私のせい。あなたたちに災いを招いてしまった。ごめんなさい、私の呪いがコランまで巻き込んでしまった」


 トワの身体は小刻みに震えていた。

 そっとサンドラがトワを抱きしめた。トワの身体がビクッと反応した。


この子コランにはトワが必要よ、私たちにも。……前にも言ったでしょ」


「っ……」


 サンドラの胸の中でトワは彼女の温かみを感じていた。

 トワの背を軽く叩きながら、サンドラはラヌの方を見た。


「ラヌ、大丈夫?」


 襲撃者は町の人間。ラヌにとっては旧知の仲で、恩人だったかもしれない相手だ。

 彼はサンドラたちを選び戦ってくれるが、その心が負う苦痛は計り知れるものではない。

 拘束し終えたラヌが振り返り、乾いた笑いを零す。


「……へっ、流石に堪えるがよ。けど、奥さんらの方が大事なんだ。それだけのことさ」


 彼の手は自分のものか襲撃者のものかわからない血に塗れていた。

 ラヌがサンドラに撃たれた男を見つめる。

 既にピクリとも動かず、男の周りに血溜まりが広がっていた。


「彼、コランを渡せって。……私、この子のためなら人殺しもやるわ」


 道が決した以上、後戻りはない。

 違う道を選んだ者同士がぶつかれば当然、血が流れる。

 だから、結果への謝罪に意味はない。

 サンドラはそれが解っていたし、彼女の言葉からラヌもそれを直感した。


「……ゴーズさん。漁師の中で捌くのが三番目に上手くて、酒に弱い人だった」


 ゴーズという漁師に近付いて、ラヌはかつて仲間だった者にそっと触れた。


「じゃあな」


 ラヌは死体から手を離した。

 サンドラの方に視線を向けて、これからについて尋ねる。


「どうする? 外の連中が到着したら、ヤニスはすぐにやって来る」


「ここから早く逃げた方が良い」


 トワが顔を上げてそう言った。

 しばらく黙って逃走ルートを思案したサンドラが窓の外を指さした。


「屋敷裏の森を抜けましょう。あの森は国境に通じる道に出るから、そこを通って国境を越えて、オリバーの居る新居に行くの。勿論、皆一緒よ」


 トワが頷いて了承したが、ラヌが眉間に皺を作って口を挟む。


「待ってくれよ。あの森を抜けるたってかなり広いぞ。その道までも遠い。奥さんやコランは大丈夫か?」

 

 サンドラの言う道に出るには距離的に夜通し森を歩く必要がある。それは弱っているサンドラと赤子のコランにかなり酷な課題だ。


「わからないわ。でも、他に道はない」


 そのとき、部屋の外が騒がしくなった。

 ラヌが扉の方に寄って様子を伺う。


「……外の連中が集まり始めてる。すぐに動かねえと」


 既に猶予はない。危険な道でも進まなければならない。

 冷えないようコランを毛布で包み、我が子を抱えるサンドラにカーテンを千切ってローブにした物を掛ける。

 ラヌが先に窓から外に出て、トワと協力して母子を安全に連れ出す。

 ヤニスが率いる武装した集団が部屋に突入して来たときには、彼ら三人は森の手前にまで到達していた。




 早足で森の中を進む逃走者たち。

 怪物の力で嗅覚が鋭いトワが先頭でサンドラの手を引いて、ラヌが殿しんがりを務めている。

 随分屋敷から遠のいたが、彼らを追う暴徒化した老人たちの追跡はまだ続いていた。

 ラヌが後ろを振り返る。遠くの方に複数のランタンの灯りと人の声が聞こえる。

 まるで、悪魔が躍り火の玉が揺らめいているようだとラヌは思った。

 そのとき、トワに急かされるサンドラが暗がりに隠れた足元の木の根につまづいた。


「きゃっ!?」


 運悪くトワと繋いでいた手が汗で滑ってしまい、ラヌもサンドラから眼を離していたタイミングだった。

 人間こけそうになれば反射的に手をつこうとするものだが、サンドラは自分の身を守るよりも抱きかかえる息子を守ろうとして、身体を捻って自分をクッションにした。

 突然の振動を不快に思ったコランが泣き出す。


「アアー! アアー!」


 背後の音に気付いたトワが振り返り、サンドラに駆け寄る。

 ラヌも同様に傍に急いだ。


「サンドラ!?」


「やべえぞ、声でバレる」


「はぁはぁ……だ、大丈夫だから。コラン、ごめんね。ビックリしたよね」


 心配そうな二人に無事だと告げた後、コランを上下に揺すってあやすサンドラ。

 地面に倒れたときに左肩を下敷きにしたのか、部屋着のその部分が破けて肩に土が付着していた。トワは臭いでわかったが、血も滲んでいるようだった。

 外傷だけではない。夜の森を暴徒に追われる緊張感の中でずっと歩いていたせいで、サンドラは酷く体力を消耗していた。

 ましてや、彼女は出産により著しく弱っていた。

 こうして暗がりの何かにつまづいて転倒するのも無理はない状態だったのだ。

 何とかコランは泣き止み、サンドラはトワの肩に手を置いて自力で立ち上がろうとする。だが、彼女の足は言うことを聞かない。


「っく……っぁ」


 何度か挑戦するも、身体に力が入らなかった。

 トワが汗だらけのサンドラの背中に腕を回してしっかりと支える。


「落ち着いて。少し休みましょう、ね?」


「はぁはぁ、ごめん……」


「手を貸すぞ」


 ラヌもトワに習って、二人で協力して疲労困憊のサンドラを手近な木に寄りかからせた。

 トワが自分の服の袖でサンドラの汗を拭う。その後、気遣わしげな声で優しい言葉を掛ける。


「大丈夫、安心して。休むぐらいの余裕はある」


「……ありがとう。……ラヌ」


「お、おう」


 青白い顔のサンドラがじっとラヌの方を見る。

 その眼は『実際はどうなんだ』と尋ねるようであった。

 ラヌは灯りが見える方を振り返る。

 まだ距離はあるが、追手は遠いが数が多い。自分たちの目的も明らかだから、すぐにでも追いついて来るだろう。さっきのコランの鳴き声で位置がバレた可能性が高い。本当は休むよりも進んだ方がいい。

 そう思うも、サンドラの状態を想えばそんなことは口に出来ない。休息が必要だ。

 困ったラヌは彼女の視線から逃れるように顔を逸らした。不安にさせまいという彼なりの心遣いだ。

 しかし、サンドラはラヌのことを熟知していた。その反応で、休む暇などないと理解した。


「……ふぅー。行きましょう」


「けど」


「いいえ、行くの」


 まだ息が整いきらないサンドラはトワの肩に手を置いて、再度立ち上がろうとする。

 わずかな休憩だったが少し力が戻ったようで、今度はなんとか立ち上がれた。

 

「ほら、ね? 母は強いのよ」


 心配そうに寄り添うトワを安心させようと、サンドラが弱々しく笑った。

 一行は再び歩き出したが、やはり思うように進まない。万全でないサンドラが大幅に遅れているのだ。


「はぁはぁ……」


 またコランが泣くかもしれないので、走ったり急いだり出来ないというのもある。

 ラヌが後ろの様子を伺う。

 明らかに、灯りとの距離が縮まっていた。この速度では確実に追いつかれるだろう。

 焦りが彼に悪い想像をさせる。


『追手に掴まれば、コランは呪いの子として間違いなく最後には殺される。奥さんもどうなるかわからない』


『トワ。彼女は島の怪物の正体だ。それを知れば、ヤニスはきっとトワも殺そうとするに違いない。けど、トワは呪いのせいで死ねない。酷い目に遭い続けてずっと苦しむ』


 死ねない呪いの苦しみ。ラヌはやっとそれを理解できた気がした。

 先頭を歩くトワの背を見つめるラヌ。

 彼女はたまにサンドラの方へ振り返り様子を伺っている。歩く速度もサンドラが無理をしないよう合わせている。


『家事は上手いし何でもできる、ちっと素直じゃないが周りに優しい女だ。自分が周りを不幸にするんじゃないかっていつも心配してる。呪いや怪物なんかなけりゃ、アイツの面倒な所を受け入れてくれる奴と出会って普通に幸せになれた筈だ。いい嫁さんになったろうよ』


 彼女がジョーンズ夫妻と一緒に居るとき、いつも二人のことを気にかけているのを知っている。それが苦痛じゃないのは、顔が見えなくても仕草や言葉から楽しいと感じているとラヌにはわかった。

 そして、明るい彼女を見ていると、ラヌの心は温かいものに満たされたのだ。


『ファ、ファ~♪』


 ふと、ラヌの耳に聞き馴染みのある音が届いた。

 ラヌは立ち止まって、両手を耳に当てて音に意識を傾ける。

 高く短いファの音、次いで低いファの音が鳴っている。

 さらに集中して聞いていると、同じような音が鳴った後、別の音が鳴っていた。音の発生源はラヌたちの後方を囲むように展開していた。


「ハズレ、ナシ。ハズレ、ナシ。ハズレ、アリ……知らせ唄だ。知らせ唄で連携をとってる。だけど、アリとは何だ? 魚群の波だとか泡を見つけたときに使うのがアリだ。こっちの痕跡?」


 ラヌが動いていないことに気付いたトワが立ち止まった。つられてサンドラも足を止めた。


「ラヌ、何やってるのよ?」


「待ってくれ。もうちょっと……」


 目を閉じてラムは知らせ唄から追手の動きを探る。

 『アリ』の音を出しているのは丁度自分たちの真後ろの灯りだけ。つまり、この音を出している追手は間違いなくラヌたちの痕跡を発見して報せている。

 痕跡の正体を考えていたラヌが目を開けたとき、自分の足元が見えた。

 夜の森は湿気ていて土が緩い。自分の重みで靴が少し沈み込んでいる。

 足跡、夜で見にくいが確かに痕跡である。足跡を探りながら追跡しているなら移動は遅い筈だが、追手の灯りは一定の速度でこちらに迫っている。

 ふと、ラヌの脳裏に慣れ親しんだ漁の方法が想起された。


「探り漁……音を出してるのは先行してる探り役。あの灯りは囮……!?」


 そのとき、空気を引き裂く音と共に銛が飛来した。

 銛はラヌの手前に突き刺さった。

 探り漁とは、この町の漁師が集団で漁をする際に使う方法。探り役と呼ばれる船が先行して、そのかなり後方に追い込み役が着ける二列編成を何個も作る。

 探り役の役目は魚群の探知と魚群の前方に回り込むこと。探り役に選ばれるのは操船が上手い漁師だけで、熟練の技で魚だと騙す船の動かし方が出来る。魚群を見つけそれを追い込み役に知らせた後、探り役は魚群を気付かれないようその前方に陣取る。

 探り役の準備が整った後、追い込み役がデタラメに魚群へ向かって銛など投擲して驚かす。

 逃げ出した魚群は大抵の場合、探り役が待つ前方に向かう。そこを探り役が獲る。

 コランを狙うヤニスら追手は今、探り漁を使って追い込みの段階を始めていた。

 一本目を皮切りにして、何本もの凶器が飛んでくる。銛だけでなく、包丁などの刃物が手当たり次第だ。

 すぐにトワはサンドラを強引に連れて木の陰に隠れた。

 ラヌもトワたちと離れた場所にある木に身を隠す。


「ラヌ!」


 わずかに顔を覗かせたトワがラヌに呼びかけた。

 そちらをチラリと見たラヌはかすかに聞こえる程度の声で警告する。


「声出すな。これは狙ってじゃない、デタラメに投げてるだけだ。正確な位置を探ってるんだ」

 

 ラヌは自分たちと追手の位置状況を頭の中で整理する。


 ――探り役が回り込んでる訳がねえ。だから、普通の探り漁の形じゃない。オイラたちと追手の灯りの間に、んだ。こんな暗い森の中だ、木が邪魔になるから灯りの位置から投げてるとは思えねえ。これを投げてるのは探り役だ。


 投擲された銛が届いていることから、探り役の位置は近いと判断できた。

 ランタン持ちの追手は恐らくこの距離を保っていた。接近する探り役の存在を悟らせないために。


 ――音を出していたのも本来は追い込み役の灯り側なのかもしれねえな。追い込み役が足跡を見つけて、その知らせを聞いた探り役が前方に銛を投げて、こっちの位置を探ってる。多分、この形だ。


 漁の形を見抜いたラヌは顔覗かせて、銛が飛んでくる方向を観察する。

 夜の森の闇で探り役の姿は見えない。向こうからもそれは同じだろう。

 トワたちの方を見る。

 サンドラがコランを守ろうと身を縮めている。コランは母の温もりに喜んでいる。

 トワが二人を庇いながらも、こちらに仮面の顔を向けていた。表情が見えなくとも、彼女がラヌの身をとても案じているとすぐに理解できる。


「……へっ。おい、トワ!」


「?」


「オイラ、仮面付けてない頃のお前の顔、カッコイイって言ったけどよ。やっぱ、その仮面付けてるお前の方が好きだ! すっげえ幸せそうだもん!」


「こんなときに何言って」


「前はカッコイイから好きだったけどよ、今は違うんだ。人間として女として、お前が好きになった。だから、お前が幸せになってくれたら凄え嬉しい」


「ッ……」


 突然の告白にトワの言葉が詰まる。

 ラヌは返事など無くても、満足げな笑みをトワに返した。


「お前と会えて幸せになれたよ!」


 そう言うと、ラヌは隠れていた木から飛び出して銛が飛来する方向に走り出した。


「ちょっと、ラヌ!? 待って、待ってよ! ……待って、よ」


 トワの言葉はラヌの背が消えた闇に吸い込まれた。

 その闇に向かって、トワは手袋で隠した怪物の手を伸ばす。

 空を切った手は何も掴めず、力なく項垂れた。


「……そんなこと言われたって……もう、わかんないわよ……」


「トワ……」

 

 サンドラがトワを抱きしめて、二人で声を殺して身体を震わせた。

 彼女たちから離れた場所で高いファの音が森に響いた。

 すると、凶器の飛来が一旦止んで、音の聞こえてきた方向から木に凶器が刺さる音がした。

 知らせ唄がトワの耳に届く。

 本来なら獲物の有無報せるその唄が、彼女に彼の存在を知らせてくれた。

 彼の意を汲んで、トワたちは音がもっと離れるまで岩のように沈黙した。

 やがてして、ランタンの灯りも自分たちが居る方向とは別――探り役が向かった方角に進み始めた。

 それでも警戒してしばらくの間は動かなかった。

 知らせ唄が途絶えた。

 トワの耳でも聞こえない。

 項垂れた頭が重く感じられ、胸にぽっかりと穴が開いたようで。それなのに息が詰まるほど吐き出したい想いが沢山あった。

 傍に居る筈のサンドラさえ遠くに感じられ、トワはあの島でも感じたことのない孤独を強く意識した。

 だけど、小さな手が仮面に触れて彼女の意識は戻った。


「あぅ、ぅ」


 コランが自分の真上に来たトワの仮面をベタベタと触る。初めての感触を確かめて、じっと見つめる。

 その小さな押す力がトワの顔を覆う仮面を何度も叩く。


「……」


 トワはそっとコランが伸ばした手を握った。

 優しく、壊さないよう。

 コランを包むくる布の隙間に、ラヌが作ったサメ歯のペンダントが挟まれていた。屋敷を逃げ出すとき、彼がここに入れ込んでいたのだ。


「……コラン」


 ペンダントに刻まれた赤子の名を呼び、トワの傷付いた心はなんとか戻ってきた。

 傷は深く決して元に戻らないが、今は目の前の大事なものを優先したい。

 トワは頭を上げた。


「サンドラ、逃げよう。今の内に」


「……そう、ね。その通り……」


 向かい合うサンドラの顔色が悪い。唇が青白く、目が虚ろになっている。

 意識が朦朧もうろうとしているのか、頭が小さく前後に揺れている。

 トワはサンドラの両肩を掴んで小さく揺すった。


「サンドラ、しっかりして。どうしたの?」


「ごめん、ね……トワ……ちょっと疲れちゃった……」


 弱った体力の限界を迎えていたサンドラは気を失った。それでもコランを抱える腕だけはしっかりとしていた。


「サンドラ!? ぁ、身体が冷たい……」


 手袋をしているせいでしっかりと掴むまでわからなかった。

 サンドラの体温がとても低下していた。

 着替える暇も無く森に逃げ込んだせいで防寒の用意もない。トワは大丈夫だったが、元々弱っていたサンドラには夜の冷えは堪えた。

 そこに加えて、逃亡中に汗をかきサンドラの身体は濡れていた。それでさっき静止していた間に身体が冷えてしまい、大きく消耗してしまったのだ。

 トワに医学の知識はないが、サンドラが危険な状態にあるのは理解できた。コランも同じだ。このまま夜を寒い中で過ごしたら、身体にどんな悪影響があるかわからない。

 ラヌが命がけで作った時間は今しかない。


「怪物の力しかない」


 覚悟を決めて、トワは呪いの力を引き出す。

 今までは呪いの力を制御して何とか人型を保っていた。だが、制御出来たのは身体の一部だけ。トワの拙い制御では顔や身体の鱗、爪、毒の息は抑え込めなかった。

 今トワがやろうとしているのは制御の逆――呪いの解放。

 一度もやったことのないそれをやって、自分の身がどうなるか、トワにもわからない。

 二度と人型には戻れないかもしれない。本物の怪物になるかも。

 しかし、レディ・オブ・ザ・ランドの怪物は翼持つドラゴンである。その翼さえ手に入れれば、空を飛んで母子二人を街に連れていける。

 呪いの苦痛でトワは地面にひざまずいた。


「ぐ、ぐぎぎぃっ!」

 

 本物の怪物になって二人を襲ってしまわないよう、解放する呪いの力を制限する。

 己で忌まわしいと思っていた姿に変じていく。

 一対の翼が服の背を破り飛び出す。同時に爪はさらに鋭くなり、尾骨からドラゴンの尻尾が生える。

 それ以上の変化を止めるため呪いを抑え込む。


「止まれ止まれ止まれ……!」


 変化が止まった。

 翼を生やし、太い尻尾が蠢き、鋭い爪と鱗が生えた皮膚を持つ人型。その姿はドラゴンと人が混じった絵物語の怪物だった。

 荒い呼吸を整えた後、トワはサンドラとコランを抱えて立ち上がった。


「待ってて。すぐに安全な所に連れて行くから」


 翼が力強く羽ばたき、二人を抱えたトワの身体が飛びあがった。

 冷たい風に晒されぬようコランごとサンドラは布に包まれている。布の端はトワの背中で固く結ばれ、二人が決して落ちない工夫がされている。

 トワは二人の重みで思うように飛べないながらも、国境を越えた先の街を目指した。

 途中、眼下の森にランタンの火を探す。

 そこにラヌが居るかもしれない。そんな期待をもっていたが、どこにも追手が使うランタンの灯りは見えなかった。

 

「……ッ」


 大きな心残りと共に、トワはレディ・オブ・ザ・ランドの伝承が残る地を後にした。


 ――


 ラヌは知らせ唄を使い追手をかく乱した。

 しかし、囮だとバレてしまい、遂には鬼気迫る表情のかつての仲間たちに追い詰められてしまった。

 逃げる途中で投擲された凶器で横腹を怪我していたラヌは、傷を押さえて負けじと睨み返していた。


「テメエら、いつまでこんなこと続けるんだよ……」


「黙れ、裏切者! 町のためやらねばならぬことなのに好き勝手邪魔しやがってッ」


「屋敷で仲間が殺された! 呪いだけじゃない。あの母親を許せん!」


「それは全部テメエらが呪いなんてもんを怖がってるからだ!」


「――ああ、恐ろしい」


 追手の中からヤニスが現れた。

 その手には長包丁が握られている。


「先祖が呪いに殺され、島の恐怖が町に刻まれた。町の人間同士が憎み合い、町の人間の血が流れた。呪いの災い、正体のわからない島の呪いがあるせいだ」


「それは違う。あんたらは先祖から伝わった話を鵜呑みにして、自分で何を信じるか選ばなかった。正体のわからないものを知ろうとしなかったからそれが目の前に現れて、結局選べる道が排除しかなかったんだ。呪いが恐ろしい? 違う、あんたらはあの島とどうしても関わりたくないだけだ」


「知った風な口を叩くな、若造が。親からも、親の親からも、その前からも続いている伝承を疑う理由などない。未知のものは危険だ、危険は排除するものだろうが」


 ラヌは首を横に振る。


「オイラはあの人たちから教えてもらった。真実ってのは知らないものを知って、自分で何が正しいか選ぶことなんだって。あんたら島のことも呪いのことも、先祖のことも知ろうとしなかった。真実から目を逸らして、自分の見たいものだけを見てたんだ。結局、何も選んでないんだよ」


 勝ち誇った笑みを浮かべるラヌ。


「―あの島にはとびっきりの幸せがあったんだよ」


 自分たちの根底――何代も引き継いできた思想を侮辱された暴徒たちは殺意をみなぎらせてラヌに襲い掛かった。

 暴徒の振るう凶器が全身を切り裂き、殴打が骨を痛めつける。

 獲物を逃がした怒りを邪魔したラヌにぶつけていた。

 全身が痛み始めたとき、ラヌの眼は群がる人間を越えて生い茂る木の葉を越えて、暗い空を眺めていた。


 ――無事逃げれたかなぁ。


 状況に似合わず、意識はとても冷静で鮮明だった。

 考えるのはサンドラとコラン、そしてトワのこと。


 ――コランが大きくなったら、あのペンダント付けてくれるかな。見てみたかったなあ。


 ――トワ、あいつ気にし過ぎるし陰気なタイプだからな。きっと自分を責めるだろうな。けど、奥さんがいれば大丈夫だな。


 何かの衝撃が彼の顔面に炸裂し意識が途絶えた。



 肩で荒い呼吸をしながら、暴徒たちはボロボロになったラヌを見下ろす。


「……」


 少しも気が晴れない中、ヤニスが追跡を再開する指示を出す。


「皆、呪いの子を追うぞ。まだ、近くに居る筈だ。――っ!?」


 嗅ぎなれない甘い匂いがした。

 すると、突然その場の全員が酷いめまいに襲われた。中には立っていることさえ出来ず、地面に倒れ伏す者も居た。

 困惑の中、ヤニスが仲間たちを見やる。


「ぅ……」


「ぁぁ」


 次々と仲間が苦痛の呻きを上げながら倒れていく。

 泡を吹いて意識を失くしている者に這って近付き、ヤニスは何度も呼びかける。


「起きろ……! しっかり、しろ……!」


 しかし、仲間が意識を取り戻すことはなく、白目を剥いた苦悶の表情で絶命した。

 喉が焼ける痛みを感じながら、ヤニスは驚愕の表情を浮かべる。


「な、何で……」


 とにかくこの場を離れようと、まだ意識がある仲間に呼びかけながら這う。


「に、げろ……逃げるんだ……」


 やがてして甘い匂いがより濃くなって、その場で動く人間は居なくなった。

 静かになった空間に、場違いな高級品の服装に身を包んだ仮面の貴婦人が会わられた。

 倒れている数々の死体に目もくれず、港町の方に向かって歩く。

 ――仮面の貴婦人が足を止めた。


「……あら。全身傷だらけで死にかけだけれど、私の毒で死んでないのね。アナタ、凄いわ」


 仮面の貴婦人が死にかけのラヌに強い興味を示した。



 後に、港町ではヤニスら老漁師たちが森で集団で死んでいることが話題になった。

 皆苦悶の表情を浮かべ、毒で死んでいた。

 彼らが島の呪いと関わっていたから、町では『島の呪いがまた町の人間に災いをもたらした』と語られた。




 旅用の靴に履き替えたオリバーがエントランスで振り返る。

 オリバーの旅行鞄を彼に手渡したのは、頭に角が生えて太い尻尾がスカートから覗くトワだった。

 サンドラとコランを助け出した後、トワは呪いの制御しようとしたが角と尻尾はどうしても無くならなかった。

 トワから鞄を受け取り、オリバーは帽子を取る。


「本当に行くの、オリバー?」


「ああ。またあの港町に行ってラヌの痕跡を探してくる。そのときにでも手紙を送るよ」


「ええ。その後は? すぐに帰ってこられないの?」


 どこか不安げな声で訊ねるトワに、オリバーは首を横に振った。


「そのままサンドラを治す方法を探してくる。きっと、世界にはいい方法がある筈だから。それに君たちは国境を勝手に越えた犯罪者のように言われている。今は僕が動く番だ」


 トワが犠牲を払って急いだおかげで、サンドラの命は助かった。

 しかし、弱り切ってしまった彼女の身体は病に侵されてしまったのだ。

 オリバーが用意した新しい家に到着したときには、もう一人で歩いていられない程に弱っていた。

 寝たきりになったサンドラのためオリバーは何カ月も家を空け、世界を旅して治療法を探している。ちょうど、子供を授かる方法を探していた頃のように。

 トワはオリバーを気遣う。


「けど、オリバーの顔色も悪いわ。ほとんど休んでないじゃない」


「妻が苦しんでいるんだ。休んでなんかいられないよ。……君たちが一番苦しいときに一緒に居てあげられなかったんだ。これぐらいの無茶は無茶の内に入らないさ」


 そう言うと、オリバーは優しく微笑んだ。


「……そう。じゃあ、気を付けて」


「ああ。二人を頼むよ、トワ」


 トワもそれ以上は何も言えず、黙って彼を見送るしかなかった。

 いや、本当ならサンドラのためとでも言って、強引にオリバーを止められた。だが、ラヌを失ってからのトワは活力を失っていた。

 レディ・オブ・ザ・ランドの島に居た頃と似た暗い雰囲気になってしまっていたトワ。

 彼女はオリバーの背が見えなくなった後、玄関の扉を閉めた。



 トワがサンドラ宛ての手紙を彼女の寝室まで持ってきた。

 彼女のベッドの傍に、コランが眠るベビー用ベッドが設置されている。

 ベッドに腰かけるサンドラは瘦せ細っており、腕には骨が浮いていた。

 コランのベッドを片手で揺らしながら、サンドラはトワから手紙を受け取った。


「誰からかしら?」


「オリバーじゃない。ずっと連絡が無かったし、やっと手紙を書く余裕が出来たのよ」


 オリバーからの連絡が途絶えていた。

 家に帰ってくる余裕が無くとも、月に一度だけは必ず彼から手紙が届いていた。

 その手紙が途絶えて、二カ月が経っていた。


「かもね。ちょっと読んでるから、お茶を用意しておいてくれる?」


「ええ、わかったわ」


 トワはサンドラにナイフを渡し手から部屋を出た。

 その後、トワが東方の生薬を使ったお茶をトレイに載せて部屋に帰ってきた。独特の匂いで、トワはこのお茶が嫌いだった。

 

「お茶入れてきたわ」


「……ぅっ……ぅぅっ……」


 例の手紙を握りしめるサンドラが口を押えてさめざめと涙を流していた。

 急いでトワはトレイをテーブルに置いて、サンドラの元に駆け寄った。


「ど、どうしたの、サンドラ?」


「オリバーが、オリバーが死んだわ……」


「え……?」


 手紙はとある国の政府から届いた物。外国人死亡証明書と遺品引き取りの手続き書が同封されていた。

 内容はオリバーがその国で流行り病に倒れて、そのまま亡くなったことが書かれていた。


「彼、私の治療法を探してたでしょ。病気になった後、外に出られないからって、その知識を使って同じ患者さんたちを助けてたらしいわ。頑張り過ぎちゃう人よね、ホント」


「……大丈夫?」


「……お互い旅が好きだったから。いつかこうなるだろうって二人で話してたの。こんな呆気ないとは思わなかったけどね」


 乾いた笑いの後、サンドラは話題を変えた。


「手続き書の他に、オリバーが書き溜めていた手紙も同封されたわ。それでね……」


 サンドラは手紙の封筒をひっくり返して、中身を手の上に出す。

 保存された何かの種が出てきた。


「これ、あの港町のオレンジの種だって。手紙にね、ラヌを忘れないために送るって。これがあの人からの最後のプレゼントなの」


 トワは言葉を紡ぐことができない。

 ただ、サンドラの手の上のオレンジの種を眺めるしか出来ない。

 サンドラはオレンジの種を乗せた手を閉じる。そして、神妙な声でトワに語り掛ける。


「トワ、頼みがあるの」


「……サンドラ、私」


「ダメ、聞いて。ごめんね、アナタを気遣っている余裕はもうないの」


 サンドラはベッド横の小さなテーブルに乗せていたノートを手に取る。

 それをトワの手に握らせる。


「これは私が書いた手記よ。アナタと出会ってからのことを書いてある」


「どうして、そんなことを?」


「私がもう長くないからよ。コランに真実を知る機会を残したいの」


「止めて! そんなこと言わないでよ……」


「お願い、聞いて。私が信頼してコランを託せるのはトワだけなの! 私たちの分まで、アナタがコランを愛してあげて」


 サンドラがトワの手を両手で包む。

 

「レディ・オブ・ザ・ランドの遺恨はまだ残っているの。きっとまたアナタとコランに振りかかる。実は、この国にコランの出生届を出してないの。だから、あの町以外にはこの子は存在を知られていない。隠そうと思えば、大きくなるまでは隠し通せるわ」


 コランの存在を明かすか明かさないかはトワに任せると、サンドラは付け加えた。

 港町での事件後、ジョーンズ夫妻はもう一度レディ・オブ・ザ・ランドについて調べ直した。何故、あんな事件が起きてしまったのかを知るために。

 その過程で、港町から遠くない街で中規模の中毒事件が発生したと知った。

 確かな証拠はないが、サンドラはそれがもう一人のレディ・オブ・ザ・ランドによるものではないかと疑っていた。

 レディ・オブ・ザ・ランド。それからコランを守る方法を出来る限りサンドラたちは用意していたのだ。


「わがままだけどね、出来ればこの手記はコランが自分で見付けられるように隠してほしいの。オリバーの書斎に丁度いい仕掛け机があるわ」


「なんで隠すの?」


「私たちが親っぽく厳しく出来る唯一の機会だから。真実は自分の努力で求めてほしいの」


「……わからないわよ。私、怪物だから人間らしいことなんかわからない」


「ううん、違う。アナタが怪物かどうかを決めるのは周りの人間よ。そして、私はそう思わない。コランがどう思うかは……この子次第。アナタがコランとどう接するかで変わるのよ」


「サンドラ、ダメ。私には出来ない」


「ダメ、やって。守ることも愛することもとても難しいだろうけど、どうかコランを幸せにしてね。私たちみたいに」


 トワはサンドラの手記を受け取った。

 彼女の望み通りに手記はオリバーの書斎に隠した。そのとき、一緒にラヌのペンダントも入れた。それもサンドラの指示だった。



 コランが二歳のとき、サンドラが死んだ。

 死の直前、サンドラは一人で手記に追記を残した。


『レディ・オブ・ザ・ランドは二人居る。アナタの存在を知れば、アナタを狙うでしょう。私たちに出来るのは隠すことだけだった』


『世界に一方的な正しさも誤りもない。真実を自分で見極めなさい』

 

――


(ここまでお読みいただき、ありがとうございました。長くなってしまいました、本当お疲れ様です。よろしければ、好評価などお願いいたします。) 

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