回想 レディ・オブ・ザ・ランドにさよならを①

 まるで獣の鳴き声のような、陣痛の痛みをこらえるサンドラの呻き声が屋敷内にこだまする。

 ランプの光だけを頼りにして、サンドラの寝室で今まさに出産が行われている。

 ベッドに枕を重ねて背もたれにし、そこに身を預けるサンドラ。右手でベッドの上から吊るした紐を掴み、左手でトワの手を強く握っていた。

 骨が軋むぐらいの力で手を握られるトワも、妊婦を安心させるために手の痛みを堪えて励まし続ける。

 サンドラの手は熱っぽく、手袋の下のトワの手が汗ばむ。

 陣痛の最初の方は「いたい」と口に出していられたが、やがてして痛みで意味のある単語を喋るのも辛くなり、今は激痛から呼吸を荒くして涙と脂汗で顔がぐじゃぐじゃだった。

 彼女は痛みの度にそれを堪えて身体全体がまり、紐に掴まったまま身体をエビのように曲げる。

 開いたサンドラの股に身体を突っ込んでいる助産師――ラヌが連れてきた町の年寄りで、出産に何度も立ち会った経験のある女性――がサンドラにげきを飛ばす。


「もう少しだよ、頑張りな」


 痛みの波が一旦過ぎて、サンドラが肩で息をする。


「サンドラ、頑張って。頑張って、お願い」


 目の前の光景が壮絶過ぎるのに加えて、サンドラが子供のように泣きじゃくりながら苦しむ姿に、トワの方が泣き出しそうな目をしていた。

 友人の言葉を受けて、サンドラは横目でチラリとそちらを見た。

 辛そうな顔をしながらも笑顔を見せる。


「はあ、はあ、はあ、ぅ。うぅ、ううう!」


 陣痛の波がまたやってきた。今度のは一際大きく、声を上げていないと耐えられそうになかった。それでも歯を食いしばって唸りを上げる。

 それでも堪えきれず、痛みを逃がそうとして身体が反り返りそうになるのを我慢する。

 助産師が「いきめ!」と叫ぶ。

 包むように手を握り合わせたトワも、声が届いてくれと思いながら叫ぶ。


「頑張って!」

 

 ――どうか二人とも無事であってくれ。


 その願いを込めて、祈るようにサンドラの手を握る。

 一呼吸入れてから、陣痛の大きな波に合わせて、サンドラは下腹部に力を込めるイメージでいきんだ。


「ううううう!!」


「……! 出た、出たよ、サンドラ⁉」


 トワはとびきりの明るい声でサンドラに赤ん坊が産まれたことを伝える。まるで、我がことのように喜んでいる。

 痛みの余韻と疲労でベッドに倒れたサンドラも、トワの様子に事態を察して笑顔を覗かせる。

 助産師が出てきた赤ん坊を受け取った。

 助産師は清潔なタオルに包んだ赤ん坊を抱えて、サンドラの枕元に連れてきた。

 世界に誕生を知らせるように赤ん坊は沢山鳴いている。

 ぬるま湯で羊水を洗い流された赤ん坊は小さく、肌が赤らんでいて、大きめのリンゴみたいにトワの眼に映った。

 実際、助産師が言うには、産まれた赤ん坊は普通よりも小さい状態で産まれた。いわゆる、未熟児であったのだ。

 それを聞いたトワはたじろいだが、母親であるサンドラは精一杯の力を振り絞って口を開いた。


「大丈夫、この子には奇跡が付いているもの」


 そう言って、サンドラはトワの方を見上げた。

 二人の視線が交差したとき、サンドラが頷いた。

 トワは息を吐き、助産師に赤ん坊の世話の仕方を教えてくれるようにうた。


「私が朝も、昼も、晩も、その子の面倒を見ます。だから、助けてください」


 深く頭を下げたトワ。

 古い人間である助産師は仮面で顔を隠すトワに微妙な感情を抱いていたが、今の真剣な態度にほだされるものがあった。


「……全部教える。一つも聞き逃すんじゃないよ」

「はい」


 間違いがあってはいけないため、助産師は厳しく未熟児の世話の仕方を教え込んだ。トワも一言一句聞き逃すまいと耳を傾け、全ての教えを吸収した。

 


 サンドラの部屋のドアが開いた。

 外で待っていたオリバーとラヌが不安一色の顔で、部屋から出てくる人物を待った。

 開いたドアから、疲れた様子の助産師が出てきた。

 オリバーが詰め寄る。


「つ、妻は? 子供はどうなったんですか?」


「うるさい、肝の小さい男共だよ。全部、終わった。無事産まれたよ」


「や、やった!」 


 助産師の言葉に、真っ先に喜んだのはラヌだった。

 熱が身体を込み上げてきて、ちょっと泣きながらオリバーを抱きしめる。


「やったな、旦那さん!」


「あ、ああ。ホントに、ホントによく頑張ってくれた」


 男同士の熱い抱擁に毛ほどの興味を抱かず、助産師がその横を通り過ぎる。


「疲れたからね、あたしゃ帰るよ。ラヌ、送りな」


「は? いやだよ、オイラはこれから赤ん坊を抱きに行くんだ」


 ラヌの拒否の言葉は助産師の曲がった背中に吸い込まれる。

 助産師が注意事項を告げる。


「そりゃやめときな。赤ん坊は未熟児だ。安定するまでは、あの仮面の使用人以外は触れるんじゃない」


「は? お、おい、どういうことだよ⁉」


 困惑するラヌと一気に不安になるオリバー。

 ラヌは「自分が聞くから」と言って、すでに姿が見えなくなった助産師を追いかけた。

 老人の足に追い付くのは簡単だった。

 ラヌが助産師に先程のことを聞こうと、傍まで走っていった。


「おい、ばあちゃん! どういうことなんだよ」


「バカなアンタが気にするんじゃない。全部、あの仮面娘に教えた」


「トワに?」


「……あの娘、仮面で顔を隠すなんて気味が悪いし、得体が知れないね」


「おい、止めろよ。ばあちゃんだからって、オイラの友達をバカにするなら怒るぞ」


「あんたの勘も鈍ったね。あの娘は確かに得体が知れないが、あの家族のために動く様は本物だ。安心おし、あたしゃあの娘が嫌いじゃない」


 助産師の顔に変化はなかったが、好感の言葉が本当だとラヌにはわかった。

 理由がわからなかったが、トワが認められて、ラヌも自分のことのように嬉しかった。

 ラヌは鼻を擦った。


「へへ、オイラもだよ」


 だが、表情がガラリと暗いものに変わり、助産師が重々しい空気をまとった。

 一度立ち止まり、ジョーンズ夫妻の屋敷を振り返った。


「……ラヌ、あの家族のこと、あたしゃ嫌いじゃないよ。子供の受け取りをさせてもらったんだ。感謝してる。けど、よそ者だ」


「だから、なんだよ」


「子供が産まれたことを町の連中に話さなきゃならん。どうなるかは予想がつかんが……ラヌ、お前も考えておくんだ」


 助産師の顔は暗い。予想は付かなくても、悪い結果が起こるだろうと予感している。

 警告にラヌも嫌な予感を感じて、それを否定するために聞き返す。


「何をだよ?」


「お前は町の人間で、あの家族がよそ者だってことをだよ。何を選ぶか、間違うんじゃないよ。レディ・オブ・ザ・ランド――あの島を恨む者は確実に居て、あのよそ者を嫌う連中のほとんどがそうだ。呪いは今も続いている。本当に、何が起こるかわからないんだよ」


 その顔は哀しげで沈痛なものだった。

 よそ者のジョーンズ一家に心酔するラヌに対してかレディ・オブ・ザ・ランドを恨む者たちに対してか、助産師は神に救いを祈りその憐みが向けられることを願っていた。

 普段から底抜けな明るさのラヌも、町に居る恨む者たちに漂う緊張感を知っているからこそ、何も答えることができずに沈黙した。

 

 レディ・オブ・ザ・ランドを恨む者――彼らはかつてレディ・オブ・ザ・ランドのドラゴンによって無惨に殺された、伝承に登場する騎士と青年の子孫たちである。

 殺された男たちの親や兄弟姉妹が何世代もドラゴンに肉親を殺された憎しみを語り継ぎ、現在の島の伝承として残っていたのだ。

 彼らとて分別が無い訳ではない。レディ・オブ・ザ・ランドに関わる者全てを憎むというのでもないし、積極的に危害を加えたいという思想も持っていない。

 オリバーとサンドラが島の調査をしていたときにも、島のことを内輪だけに留めておく為に妨害していた。

 その程度の活動だったのだ。

 だが、島からジョーンズ夫妻がで変わった。

 組織という程の規模でもなく、勢力という程の結束力もない。先祖が島の怪物に殺されたという共通認識を持つだけの人々。

 だからこそ、島への恐れという根底で繋がっていた。

 しかし、よそ者が先祖の霊地を踏み荒らし、ましてや

 彼らの中で根底が揺らぎ、疑問が生まれた。


『何故、奴らは生きている?』

『呪いは? 怪物はどうした?』

『何故、奴らは生き残って、先祖は死ななければならなかった?』

『我らはずっと、嘘を信じてきたのか?』


 彼らの中で疑問が解決することはない。

 疑問が更なる疑念を生み、彼らは迷信に走り出した。


『嘘ではない。嘘の筈がない。先祖は死んだのだ』

『なら、きっとよそ者たちは呪われたのだ。奴らは怪物に呪われた!』

『奴らこそが憎き怪物と呪いだ!』


 暴走する迷信で過敏になっている憎む者たち。

 その空気が港町に広がり、海が荒れる前のような緊張感を産んでいた。

 助産師の老婆はジョーンズ夫妻に子供が産まれたと伝えることが、その空気に油を注いでしまうことになると予感していたのだ。

 ラヌもその予感を抱いていた。

 出産に合わせて町に出ることが無くなった夫妻と世話で忙しいトワは、町の変化に気付いていなかった。

 だから、ラヌは自分が何とかしなければと考えていた。

 町は故郷で、町民は家族なのだ。

 ラヌは別の嫌な予感を抱きながらも、「きっとわかり合える」と思おうとした。



港町にある集会所


 深夜、助産師の老婆がそこを訪ねた。

 中では、異様な空気をまとう町民たちが集まっていた。誰も彼もが険しい表情で、手には十字架を握っていた。

 長い人生を生きてきた助産師の老婆も、連中の鬼気迫る様子にたじろいだ。

 集団の中央に居るヒゲで口元が隠れた老人が声を上げる。その声は歳に似合わず力強い。


「……通してやりなさい」


 老人は集団のリーダー的存在らしく、その一言で全員が道を譲り、老人のテーブルまでの道が出来た。

 助産師の老婆はその道を進みながら、集団を一瞥した。

 老婆を見る眼にさえも怒りを滲ませている者が居たり、唇に十字架を付けて祈っている者も居る。全員が見覚えのある町の仲間――自分が取り上げた子も居る――の筈なのに、自分こそがこの場では異物なのだと強く感じた。

 老婆がテーブルの前に到達すると、老人が椅子を勧めた。


「……終わったら帰るよ。どいつもこいつも怖い顔して。ここには長居したくないね」


「そう言ってくれるな、カテリーニ。この問題において、お前と我らは立場が違うのだ。事の恐ろしさへの感じ方もな」


 助産師の老婆は老人の深い黒目と視線を合わせないようにして話す。


「ああ、あたしにゃ関係ないよ。けどね、ヤニス。ここに居る若い者の何人かはあたしが取り上げた赤ん坊だったんだ。あんたたちの事情は知ってるが、結婚もまだの子たちを暗い道に先導するのは止めておくれ」


 そう言うと、老婆は老人の眼を真っ直ぐ見た。

 老人はわずかに首を左右に振る。


「先祖の無念こそが道を覆う暗い霧なのだ。そしてそれは、大いなる教訓だ。この子たちはそれをよく理解している」


「こうやって殺気立って、裏で哀れな一家を追い出すための武器を揃えることが教えかい? 暴力なんてやめておくれ。血が流れるのなんてごめんだよ」


「正しいことに力が必要となることもある。呪いや怪物なんて得体の知れない物を恐れているんだ、我らは臆病なんだよ。身を守りたいんだ、カテリーニ」


「彼らは普通だよ、ヤニス。島の件もあるし、よそ者だけれど、出て行ってほしいなら退去を伝えればいいだけだ。あんたは目に見えないものに憑りつかれてるんだよ、ヤニス」


 老人が大きなため息を吐く。

 テーブルの上に何かを置いた。それは、古いサメ歯のペンダントだった。


「これはこの前、町を訪れた男――例の島を調べていたよそ者夫婦を探しにきた男が持ってきた物だ。夫婦の調査を支援している富豪が持っていた物らしい、それを渡しに来たと言っていた」


 その男がどうなったか、老人は語らない。

 老人がゴツゴツした指でペンダントをひっくり返すと、裏面に名前が彫られていた。


「かつて島で殺された青年――これはその青年の誕生時に作られた物で、ワシの先祖の物だ」


 老婆が息を呑む。

 老人が怒りを滲ませている姿を初めてみる。


「無念は時を越えて、確かな形を伴ってここにある。伝承上の仇が存在すると、先祖たちがソイツを憎んでいたと、ワシの代まで遺ったこれが教えてくれる。伝承が呪いも怪物も恐ろしい物で我らの命を脅かすという教訓を伝えている。我らは現実に瞑目しているわけではない、カテリーナ……!」


 周囲の連中も、足踏みをして同意見だと主張する。

 老婆は説得が出来ないと悟った。

 彼らの結束は揺らがないほどに固く、島の怪物と呪いに対する憎しみと怒りは一つのアイテムによって膨張してしまった。部外者の自分の声は決して届かない。


「カテリーナ、話してほしい。子供は、生まれたのか?」


「……」


「カテリーナ」


 老婆は心中で祈った。

 己は罪に加担するかもしれない。間違った道に若者たちを進ませてしまうのかもしれない。それでも、どうか、あの一家も含めて誰もが救われますように。


「……産まれたよ。可愛らしい赤ん坊だ」


「……」


 老人が手を上げると、何人かが集会所を出ようと動いた。

 それを老婆が声を上げて止めた。


「待ちな! 産まれた子は未熟児だ、今すぐには動かせない。時間をやっておくれ。安定すれば、一家揃って町を出て行って貰えばいい! どれだけ憎かろうと、赤ん坊に罪はないだろう?」


 老婆の訴えが通じたのか、誰も集会所を出ようとしなかった。老人の号令を待っていた。

 老人は目を伏せていた。


「……いいだろう。だが、呪いは町に不幸を呼ぶ。確約はしない、何あれば我らはすぐに動くぞ」


 老婆はそのままジョーンズ夫妻の屋敷に向かった。

 事情を話し、安全のために町から逃げるように伝えるために。

 若者の一人が沈黙する老人に意見を述べる。


「ヤニスさん、本当に良いんですか? すぐにでも動けるのに……」


「いいんだ。さあ、帰りなさい。明日も仕事があるだろう」


 若い連中は言われた通りに集会所を後にした。

 最後まで残ったのは、老人と同じぐらいの高齢の者たち。

 その内の一人が口を開いた。


「……カテリーナの言葉は効いたの」


「ああ。引き継がねばならない想いは伝えた。若い連中はここまででいいだろう」


 老人たちは頷き合う。


「――一週間後、ワシらだけの手で島に呪われた夫婦から産まれたを殺そう」


 彼らの迷信は狂気を帯びた黒い殺意となって、産まれたばかりの赤子に向かっていた。


 ――

 一週間後、ジョーンズ邸


 この日、一通の手紙が屋敷に届いた。

 それは助産師の老婆に警告を受けた後、別の国に住む場所を探しに行ったオリバーから届いた物だった。

 手紙を受け取ったのは一家のことが心配で一週間前からずっと屋敷に居るラヌで、手紙がオリバーからだとわかると、すぐにサンドラの寝室まで急いだ。

 部屋の前まで来て、ラヌは深呼吸をしてからドアをノックする。

 最初の頃はノックを覚えていなかったのだが、トワに厳しく注意されてからノックをするようになった。

 すると、中からトワの声で「入って」と聞こえたので、ドアを開けた。


「旦那さんから手紙だぜ、奥さん!」


「「シー!」」


 部屋に入った途端、歓迎よりも先に部屋の主と赤ん坊の世話をしていたトワに、静かにしろと注意されてしまった。

 ラヌは思わず、口を手で塞ぐ。


「……お腹が一杯でやっと眠ったの。絶対に騒ぐんじゃないわよ、ラヌ」


 トワの睨みに頷きで返事をするラヌ。

 二人の様子に、少しやつれたサンドラが微笑を浮かべる。

 出産後、サンドラの調子はかんばしくなかった。食事を摂ることも減って、前のように調査のために動き回れなくなっていた。

 トワは赤ん坊の世話をする合間に、サンドラの看病もやっていた。ラヌ用の水を用意しながら、少し肩を動かした。流石のトワもちょっとした仕草に疲れが滲んでいた。

 ラヌは忍び足ながらも、サンドラの傍まで急ぐ。


「オリバーから?」


「ああ。……ほら」


 ラヌはペーパーナイフで封を切ってからサンドラに渡した。

 トワも気になって傍にやってきた。


「……」


 サンドラが手紙を読み進める。

 本文が書かれた部分は最初の一枚だけで、後は契約書らしき書類の写しと隣国から出る船舶の半券だった。


「どうやら家を見つけたみたい。同封してるのは、場所がわかる資料とそこまでの旅券ね」


「遠いの?」


「ええ、かなり。同じことが起きないように島の伝承を知る人間が絶対に居ない場所を選んだって。その方が良いと私も想うし……」


 そこまで言って、今の言葉がラヌにショックを与えてしまうのではと思い、サンドラがラヌの方を見た。

 ラヌはサンドラの気遣いに笑って応える。


「……ありがとう」


「オイラが会いに行けばいいんだ。そんなことより、早く出た方がいいんじゃねえのか?」


 焦りを滲ませるラヌにトワが冷静に対応する。


「ダメよ、しっかりと準備しなきゃ。赤ん坊もサンドラも慎重に扱わないと」


「トワ、私なら大丈夫だから。その子のことだけで――」


「ダメ。あの子には母親が必要なの。私のわがままを聞いてもらうわよ」


 トワは反論を許さないといった態度でサンドラを言い含めた。

 サンドラが納得したと判断して、トワは出立の準備をするためにラヌを連れて部屋を出ようとした。

 

「あ、待って」


 サンドラが二人を呼び止める。


「こんなときだけどね、ごたごたしてて決めてなかったでしょ。名前」


 何が言いたいのかわからないと、二人は首を傾げた。


「ラヌ、アナタに決めてほしいの。私の案かオリバーの案、どっちがいい?」


 突然の重大な選択にラヌがたじろぐ。


「ちょ、ちょっと待ってくれよ。なんで、オイラに」


「オリバーと話してたの。アナタが居なければ、ここまで来れなかった。だから、アナタに決めてほしい」


 サンドラは信頼の眼差しをラヌに向ける。

 思ってもみなかった重責にラヌは混乱していた。

 どうやって選べば、子供のためになって、ジョーンズ夫妻にわだかまりなく済むのかを必死に考える。

 考えていると、トワが肘でラヌの横腹を小突いた。


「痛っ」


「……バカの癖に何難しく考えてるのよ」


「だって」


「いつもの勘はどうしたのよ」


 トワに言われるがまま、ラヌは勘を頼りにして選ぶ。


「……じゃあ、奥さんの方で」


「なら、コラン。私たちの子の名前はコランよ」


 三人はサンドラの傍にある赤ちゃん用のベッドで眠るコランを見つめた。

 子供の名前が自分の選択で決まったと改めて理解した瞬間、ラヌはコランのことが愛おしくてたまらなくなった。


「お、おぉ……」


「どうしたのよ」


 奇妙な呻きを上げるラヌにトワが尋ねる。

 ラヌは自分の作っていたサメ歯のペンダントを取り出した。形は出来上がっていて、後は名前を彫るだけだった。

 コランの名前が彫られたそれを想像して、自分が名付け親なんだと実感する。


「なんか、わかんねえけど……いいな、コレ!」


「「シー!」」


 ラヌは一人盛り上がって遂大きな声を上げてしまい、女性陣にまた怒られてしまった。

 バツの悪そうな顔で謝りながら、ラヌはこの一家のことを家族のように思っていると自覚し、自分が選ぶ道を決めた。

 ――産まれて、生きてきた町を捨てて。

 ――新しい居場所でこの人たちを守りたい。

 故郷よりも大事なものが出来た。そう思うと、ラヌの心は誇らしかった。


 ――


 レディ・オブ・ザ・ランドを臨む港町にジョーンズ夫妻を探しに来た男が居た。ラヌが店で出会った男である。

 男は今、港町から離れて国境を越えてすぐの町の喫茶店で人を待っていた。

 この男は調査や人探しが得意なフリーランスの調査員だった。家族がおり、将来のために稼ぎのいい海外出張を主にやっていた。依頼人は多様で、企業や個人、表社会や裏社会まで幅広い。リスクを回避するため事情に深入りしないことを念頭に置いて仕事をする。

 あるとき、彼が懇意にしていた裏社会グループのさらに上位の組織、そこのトップから海外での人探しの仕事があると紹介された。

 仕事の依頼人は仮面の貴婦人。裏社会の人間とどのような繋がりがある人物かは男にはわからないが、わざわざ場を設けられる程度には丁寧な扱いを受ける人物だった。

 仮面の貴婦人は自分が支援しているジョーンズ夫妻を探してほしいと男に依頼した。

 初めは支援金トラブルかと思っていたが、そうではなかった。

 仮面の貴婦人が気にしていたのはまず夫妻が生存しているかどうか、次に島に行ったかどうか、そして子供が産まれたかどうか。特に子供に関しては強い関心を持っていた。

 男は子供が誘拐されたか、あるいはする側かもしれないと思いながらも、仮面の貴婦人が提示する依頼料に目がくらみ仕事を受けた。

 そういう流れで、調査員の男は島に一番近い港町で夫妻のことを調査していた。

 調査の結果夫妻が妊娠していると知り、子供が誘拐された説が否定された訳だが、とにかくそれを仮面の貴婦人に電報で伝えた。

 その後、返信で男は奇妙な追加の依頼を受けることになった。

 返信の手紙に同封されていたという内容の依頼。

 一体どういう目的の依頼なのか不思議に思いはしたが、追加料金の額と事情には踏み込まないという信条から、男は指示通りに動いた。

 すると、指示通りに動いた数日後、男は町で漁師連中に襲われて古びたサメ歯のペンダントを奪われた。

 電報で事態を報告すると、港町を出て国境を越えた町の喫茶店――今、男が居る店で落ち合うと連絡が受けた。

 そうして、テラス席に座る男はコーヒーを二杯も空にするだけの時間、仮面の貴婦人の遣いがやって来るのを待っていた。

 長時間待たされてかなり不満が溜まっている男が忙しなく片足を揺らしている。襲われたときの傷が時折痛むのも理由だ。

 男は道行く人々を眺める。観光地でもないし時間的にも外を出歩く人は少ない。

 

「――待たせたわね」


 不意に男の真向かいの席から声が掛かった。

 驚いてそちらに目を向けると、眼を離していたわずかな隙に例の仮面の貴婦人が座っていた。

 

「あ、あんた……。遣いを寄越すのかと」


「進捗を直接聞きたくてね。襲われたみたいね」


 仮面で隠れているせいで貴婦人がどこを見ているのかわからないが、恐らく男の傷を見て言っているのだろう。


「あのペンダントのせいだ、突然襲われたんだ。こうなるなんて聞いてないぞ、追加料金を請求する」


「ええ、良いわよ。話が終わったら払ってあげる」


 そう言うと仮面の貴婦人が男に結果を報告するよう促す。

 不満は残るが、それでも男は報告を始めた。


「ペンダントは襲われたときに盗られた。襲ったのは町の漁師たちだ。あんな物を欲しがる理由はわからないが、あれで良かったのか?」


 貴婦人は通りの方を見て、どこか懐かしむように話し始める。


「人間って結構、昔を大事にするのよ。先祖が関わるなら、特に」


「?」


 仮面の貴婦人の言葉が何を意味するのかわからず男が怪訝な目を向ける。


「大事にするというのは保存するとか守るだけじゃなくてね、憎しみだとか恨みだとか暗い感情を引き継ぐことも含まれるの。実際には何の関わりもない大昔でも、先祖というだけで今生きている自分の名誉が傷付いたと思うの。先祖と自分は全く別の人間なのに」


「何の話だ?」


という話よ。それがキッカケになって、大きな悲劇に繋がることだってある。科学でひらかれた世界でも、争いの正当化に使われるほど強い動機よ。特に迷信が深く遺る場所だと、古い物にほど大きな火種がくすぶっていたりするの」


 男は女の言葉に理解が追いつかない。

 だが、自分が仕込んだ火種がもたらす何か良からぬ想像をしてくすくすと笑う貴婦人に、男は薄気味悪いものを感じた。

 仮面の貴婦人が話を変える。


「聞きたいのだけれど、あの夫婦は本当に島に行ったのよね?」


「ああ。町の人間に散々頼みまくってたらしくて皆よく覚えてたよ。若い漁師が二人を島に連れて行ったらしい」


「その後は町の近くで暮らし始めたのよね。他に情報はある?」


「ああ、そういえば使用人を雇ったらしい。あんたみたいに仮面で顔を隠してるそうだ。世の中に二人も居るとはね」


 それを聞いた貴婦人は強い関心を見せる。


「……使用人が夫婦と一緒に居るのは、確かに島から帰ってきた後なのね?」


「ああ、その筈だ」


「そう、そうなの。ふぅん……」


 仮面で見えないが男には貴婦人が笑っているように思えた。


「確かに、こんなに広い世界で二人も居るなんて珍しいわよね」


 その言葉は男に向けられたものではなく、何かを確かめるようであった。


「子供、夫妻は手に入れられたのでしょう?」


「そうみたいだ。知り合いっぽい若い男が随分喜んでたよ」


「そう、それは良いことね。逢ってみたい」


「なら、逢いに行くのか?」


「……いいえ。赤ん坊が産まれるのは素晴らしいけれど、赤ん坊のままじゃ足りないの」


 男は仮面の貴婦人が理解できなかった。

 仮面で顔を隠しているからでもなく、社会的にどういった人物なのかわからないからでもない。

 この貴婦人の目的がわからない。動機がわからない。

 夫妻を見つけて何が知りたかったのか。何故、人を使って探させたのか。

 今の言葉の意味することは何なのか。

 見た目以上にその考えや心の得体が知れないことが、男にとっては底冷えのする恐ろしい存在だった。

 だから、なのかもしれない。

 普段なら意図的に避けているのに、このときだけは興味が湧いてきた。

 つい仕事上の信条も忘れて、男は聞いてしまった。


「……あんたは何がしたいんだ?」


 貴婦人はさらりと答える。

 そして、仮面の貴婦人が放った次の言葉に、男は理解できず呆然とすることとなる。


「私、呪われてるの」


「は?」


「ヒドイ呪いでね、愛し合えないし、苦しくても死ねないのよね。だから、解呪の方法を探して世界中を旅したわ。その中で、色んな時代と色んな人間を見てきた」


 女が語り出したことは男にとってにわかに信じがたい。

 だが、立ち去りたくとも報酬の金が貰えていない。もう少し、この妄想を聞いておこうかと男は決めた。


「だから、私人間を見る眼っていうのかしら。そういうのに自信があるのよ。あの夫婦の話を聞いたとき、この人間は信じられるって思ったわ。支援すると決めたのもそれが決め手よ」


 不意に男の視界がぐにゃりと、歪んだ。

 突然のめまいに思わずテーブルに手を付いて頭を支える。

 仮面の貴婦人は男の不調を気にもせずに話を続ける。


「『レディ・オブ・ザ・ランドの怪物に出会えば子供を授かれる』、とても素晴らしいおとぎ話よね。あの島に怪物が居るのは事実だもの、きっと奇跡は起こるわ。怪物が子供を授けるのよ」


 自分の体調の異変に気付いたときには手遅れで、男はついに腕の力さえ失くしてテーブルに突っ伏してしまう。

 口を閉じることも出来ず、涎が白いテーブルクロスにシミを作る。


「その子供はきっと、私の呪いを受け止められる子なのよ。だって、んだもの」


 男は助けを求めて、力を振り絞って仮面の貴婦人に手を伸ばす。

 女は折れるのも構わず、怪物の力を込めてその手を強く握った。

 指の骨が折れ砕ける音がしたが、男は痛みに呻きを上げることしかできない。


「知りたかったことを教えてあげるわ。私はね、のよ」


 仮面の貴婦人がついでと言わんばかりに話す。

 その口から濃い毒の息を吐き出し続けながら、それを気にも留めずに。

 既に男だけでなく、喫茶店の中や店の周囲の人間も男と同じ症状で苦しみ倒れていた。


「ねえ、コロンブスを知ってる? 彼は本で知った黄金の国を夢見て旅を始め、数々の困難を前に心折れなかった。遂には新大陸を発見したわ。そんな彼の旅に私は教訓を得たの」



「――諦めなければ夢は叶う! 愛の口づけと共に忌まわしい呪いを解く、それが私の夢なの!」


 

 もはや、貴婦人の言葉に応える者は居ない。

 まだかすかな息がある男に、怪物が仮面で隠した顔を近付けた。

 意識が朦朧とする男にわざと小声で語り掛ける。


「事情を聞かないと紹介されたから選んだのに。私、裏切る人間は殺すことにしてるの」


 怪物がフッと一息吹く。

 濃密な毒息が男の顔を覆い、息を吸い込むたびに喉が焼けてしまい、男は苦しんで死んだ。

 しばらくして倒れた人々を踏まないように気を付けながら仮面の貴婦人が店を後にする。

 怪物が目指すのは、レディ・オブ・ザ・ランドの島が見える港町――そこに居る筈の将来の運命の相手。

 楽しいことが待っていると言わんばかりの軽い足取りで、仮面を付けた怪物が去ってゆく。

 男以外の人間は毒気の薄い空気を吸い込んだだけなので、風が吹いて完全に毒が吹き飛ばされれば体調も回復するだろう。

 だが、それでも生き残りの心には恐ろしさが傷痕として残ることになった。

 喫茶店のテラス席で、苦悶の表情を浮かべてテーブルに突っ伏し絶命している男が居たと知り、自分たちは恐ろしい怪物の魔の手から運よく助かっただけなのだと思い知ったからだ。

 その男が死んでいたテーブルの上には丁度コーヒー二杯分の勘定が置かれていた。


 ――


(※続きます。長くなったので二つに分けます)

 ここまでお読みいただきありがとうございます。

 お楽しみいただけたなら幸いです。

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