Ⅲ 秘密は苦しみ
夜。夕食時。
トワが晩御飯を載せたカートを共に食堂へやってきた。
食堂では既に坊ちゃんが待っていて、自分の分とトワの分のテーブルセッティングを済ませていた。
「あら。まさか、坊ちゃんがやったんですか?」
「うん。その、昼間は掃除をサボっちゃったから……ご、ごめんなさい」
坊ちゃんはやると言っていた掃除をちゃんとしなかったことを後悔していた。だから、その罪滅ぼしの意味も込めてトワの負担を少しでも減らそうとしたのだ。
それはトワに失望されるのが怖いという想いもあっての事だった。
怒られると覚悟して、縮こまりながらトワの様子を伺う坊ちゃん。
そんな健気な坊ちゃんの態度にトワは頷きで応えた。
「そうですか。わかりました、許します」
「ほ、ホント?」
「ええ。もう怒っていませんとも。ふふ、折角坊ちゃんがセッティングしてくれたので、今日は私も同席させてもらってもよろしいでしょうか?」
「うん!」
嬉しそうに返事をした坊ちゃんは自分の席に座る。
トワは坊ちゃんの食事を並べてから、自分のテーブルに水の入ったコップだけを置いた。
坊ちゃんの前でトワは食事を摂った事がない。いつも仮面の上から水を飲むだけ。
不思議に思った坊ちゃんが食事を勧めた事があるが、「自分は水だけでお腹いっぱいだから」とトワは食べようとしない。
仮面や言いつけと同じで、食事の謎はトワが絶対に明かさない秘密の一つだ。
だが、今や坊ちゃんにも絶対にトワに明かせない秘密が出来た。
レディという友達が出来たことをトワには話さないと決めた坊ちゃん。今まで言いつけを破ったことがないから、もし破ったと知ったときにトワが許してくれないかもと考えたからだ。
食事をしながらトワと話していても、レディとの二人の秘密は守っていた。
秘密を抱えて、坊ちゃんは初めて胸の奥に痛みを感じた。
(トワに話せないことがあるってだけで、すごく嫌な気持ちになる。けど、話しちゃダメだ。レディとの約束も大事だもの)
談笑をしていると、あっという間に食事が終わった。
坊ちゃんの皿が空になったのを見計らって、トワが立ち上がった。
「さて。坊ちゃん、そろそろお皿を下げますね」
「うん。ボク、自分の部屋に帰るね」
坊ちゃんはこの後、レディとの待ち合わせ時間まで部屋に居るつもりだった。
約束のことを思うとソワソワして、足早に食堂を去ろうとする。
「おや。もうお休みですか?」
「う、うん。話してたら疲れちゃった」
「そうですか。では、ゆっくりお休みください」
「うん」
トワに怪しまれないよう気を遣いながら食堂の扉へ向かう坊ちゃん。
ドアノブに手をかけたとき、トワが声を掛けてきた。
「坊ちゃん」
「な、何?」
勘のいいトワに秘密がバレてしまったのかと思い、坊ちゃんがぎこちなく振り返る。
しかし、坊ちゃんの心配とは裏腹にトワは優しい声音で言う。
「お休みなさい」
「……うん。お休み」
トワの声を聞くだけで、坊ちゃんの心は安心できた。
だが、その心の内に針が刺さったような罪悪感を感じていた。
――
夜、坊ちゃんの部屋。
トワにバレないようランプを消して、ベッドに人形で細工まで仕込む。万全を準備をして、坊ちゃんは窓から部屋を抜け出して庭に向かった。
その途中、屋敷の方を振り返ると、二階の端――亡くなった両親の書斎に明かりがついていた。
屋敷には坊ちゃんとトワの二人だけだ。あそこにはトワが居るのだ。
「……?」
夜遊びの経験がない坊ちゃんは、トワが夜中にそこに居るなんて知らなかった。
初めて秘密を抱えてわかったことがある。
トワには秘密がとても多い。
大切な相手に隠し事があるというのは、どうも気分が良くない。
たった一つの秘密でも坊ちゃんはトワに負い目を感じている。
なら、トワは自分に対して秘密を抱えていることをどう思っているのだろう?
自分は秘密主義のメイドのことを何も知らない。
それでも、彼女の主人だと言えるのだろうか。
彼女は自分を信じていないのだろうか。
「……どうして、ボクはキミの仮面の下を知らないんだ」
坊ちゃんはトワに疑念という小さなわだかまりを抱え、それでも今は約束の場所に向かった。
初めての友達――トワと同じように顔を隠した仮面の貴婦人が何かを知っているかもという期待を確かめるために。
――
真夜中。月明かりだけが頼りの庭。
いくら暗かろうと勝手知ったる道。坊ちゃんは迷うことなく、オレンジの木の場所にやってきた。
そこには約束通り、仮面の貴婦人レディが待っていた。月明かりに白いドレスが映える。
地面に先っぽを刺した日傘を、退屈そうにくるくると回して遊ばせていた。
坊ちゃんに大きな試練が訪れた。
待ち合わせ自体も、約束に遅れるのも初めてだから、坊ちゃんはレディになんて声を掛ければいいかわからない。
そもそも、友達にかける第一声がわからない。
気の利いた言葉をかけるべきか、それとも驚かせて楽しませるべきか。
悩んでいると、レディの方が坊ちゃんに気付いて小さく手を振ってきた。
頭が真っ白になりながら坊ちゃんも手を振り返した。
「お、お待たせしました……!」
「気にしないで。私が早く来てしまっただけだから」
「あの、どうやって入って来たんですか?」
「上。塀を飛び越えて、傘でふわふわとね」
誰が聞いても冗談だと思うような答えだが、坊ちゃんはその光景を想像して眼を輝かせる。
「ホントですか!? 凄い、傘でそんなこと出来るんだ!」
純粋な反応にレディも控えめに笑う。
「……ふふ。ボクがやるにはこれじゃ不足かもしれないけど、世界は広いから、キミが空を飛べるぐらい大きな傘がきっと見つかるよ」
「ホントに?」
坊ちゃんはレディの語る広い世界に強い関心を持つ。
屋敷の敷地以外では、本の中でしか世界を知らない坊ちゃんは、読んで自分が冒険する姿を夢見た世界があるかレディに尋ねる。
「なら、雪の彫像が並ぶ祭りや爆竹を鳴らしまくる日ってホントにあるの? 獣を狩って生きる人たちに会ったことある? ボク、黄金の国を見てみたいんだ! 大きな船に乗ってみたいし、車っていうのも乗ってみたい。自転車っていう座って乗る乗り物も、気球にも乗ってみたい」
世界を知らない少年の無垢な夢は長大で、尽きることなく湧いて来る。
レディは興奮気味な坊ちゃんをなだめて、嬉しそうな声で語る。
「落ち着いて、ボク。折角の夜なんだ、じっくり話そう。キミの知りたい外の広い世界のこと、何でも教えてあげるよ。私、結構世界を回ったから」
「うん!」
レディは坊ちゃんを誘って、オレンジの木の幹に二人で腰を落ち着かせる。
二人の密会は、坊ちゃんが本で読んだ世界のことが本当がレディに聞き、それに答える形でレディが世界で見てきた物について語る場になった。
「そうそう。黄金の国ってマルコ・ポーロでしょ? あの国、行ったことがあるんだ」
「ホントに!? 民家とか全部黄金だった?」
「いや、全然。けど、一面に金箔が貼られた建物はあったよ」
「わぁ……!」
言葉で巡る二人だけの世界旅行は夜深くまで続いた。
――
坊ちゃんとレディは夜の密会を重ねていた。
ある時、いつもみたいに坊ちゃんの興味にレディが答えた後、不意に二人が黙り込む瞬間が生まれた。
この密会に初めて、静かな時間が出来た。
ふと、レディが沈黙を破って提案する。
「キミは、外に出ないの?」
「……出たいです。けど、言いつけがあるから」
「お世話してくれてるメイドさんとの約束だったね」
何度も密会している内に、坊ちゃんはトワとの関係や屋敷での生活をレディに話すようになっていた。
レディが空を見上げたまま、語り続ける。
「けど、その約束を守ったままじゃ、そんなに知りたいと思ってる世界を、本当の世界をその目で見れないよ」
「……それは嫌だ。ボクは、いつか両親みたいに世界を旅してみたい」
自らの夢を語った坊ちゃん。
その夢はレディとの密会を重ねる内に抱いたもの。
トワさえ知らない、坊ちゃんだけの夢。
それをレディには語った。
「キミのご両親……貿易商の御父上と考古学者の御母上だったね。なら、ボクは旅好きの親から生まれた冒険家か」
「冒険家……うん。いい、凄くいい」
自分が船に乗って、世界中の遺跡やジャングルを巡り、胸躍る冒険の果てにお宝を手に入れる。そんな妄想に浸ると、ワクワクが止まらなかった。
「ボクは素晴らしい冒険家になるよ! だって、こんなにも世界に憧れてる。沢山の物を見て、知って、手に入れる冒険がしたい! レディは教えてくれたよね、世界にはまだ未知の場所があるって。氷だけの大地、深いジャングルの奥地、地下世界。ボクほどそれらを求めてる人間は居ないよ!」
「ふふ。それなら負けないわよ。私だって、誰にも負けないくらい外に希望を持っているもの」
「そうなの? だったら、丁度いいじゃないですか。ボクらで一緒に…………」
冒険をしよう。
そう言おうと思ったとき、不意にトワのことが思い出された。
自分が冒険をするとき、彼女はどこに居るのだろう。
あの仮面で顔を隠したまま、主人である自分に本心を隠したまま、冒険の帰りを待つのか。
この屋敷の中で、たった一人で。
両親の書斎で夜中まで起きて。
どうして、そう言い切れる?
自分は彼女の真実を何も知らない。
彼女が友と冒険に出かけてばかりの身勝手な主人に失望し、見切りをつけて屋敷を出ていく。そんな可能性が皆無だと、どうして思える?
どうして、ずっと傍に居てくれるなんて信じられる?
急に黙り込んだ坊ちゃんに、レディが心配の声を掛ける。
「……どうしたの、ボク? どこか悪いの?」
「……違う。やっぱり、ボクは外には行けないよ」
「どうして? さっきまで、あんなに楽しそうに外を目指してたのに」
「居なくなるかもしれないから」
「外に出るなって言いつけを破るから? 彼女とそんなに一緒に居たいの?」
「だって、ずっと一緒に居たんだ。彼女が、トワが一緒に居ないなんて想像できないよ……」
意気消沈する坊ちゃんの言葉に、レディはわずかな反応を見せる。
「トワ……?」
坊ちゃんはレディの変化に気付かなかった。
一瞬だが確実に、レディは目の色を変えた。
坊ちゃんと話すときの優しい眼差しではなく、腹に何かを隠し企む大人の眼光に。
レディが口を開く。
「そんなにも、そのメイドを信じているのね」
「そう、なのかな」
「失望されたくない、それは信頼の一つよ。そして、傍に居てほしいという想いは愛情。ボクは、メイドさんのことを信じて、愛しているのね」
レディの指摘に、坊ちゃんは顔を真っ赤にして首をブンブンと横に振る。
「ち、違う……ボク、そんな……」
その反応だけで、レディの言葉が図星だと言っているようなものだった。
しかし、坊ちゃんは本気で自分の気持ちが愛だと思っていない。
物心ついた頃からずっと一緒で、年頃にもなった坊ちゃんが意識しない訳がない。だが、そういう感情がどういうものかを学ぶのに必要な他人が、坊ちゃんの周りには居なかった。
世界のことと同じように本で愛を知っている。そこで書かれていた愛は、実に情熱的で煽情的なもの、あるいは悲劇的なもの、または精神的なもの。とにかく、大人の色づいた出来事だった。
自分がそういうものを抱くと指摘され、理由もなく坊ちゃんはとても恥ずかしい想いになったのだ。
子供らしい意地っ張りを微笑ましく想いながら、レディは話を続ける。
「そうなの。けど、聞いて。これから話すのは裏切られたお姫様のお話。きっと、今のキミの気持ちに役立つお話よ」
「う、うん」
坊ちゃんの了承を受け、レディはとある物語――呪われた姫の裏切りの物語を語って聞かせる。
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