Ⅱ 仮面の貴婦人、登場


 外を羨ましそうに眺める坊ちゃんの視界を、突然、黒い影が遮った。

 誰か――大人っぽい影――が目の前に立ちふさがって、坊ちゃんの方を見ていた。目が慣れない坊ちゃんはそれが誰かわからない。


「ぅ……?」


「……」


 影の人物が女性だと、シルエットでわかった。

 その人物はつばの広い帽子を被り、くらげみたいな形の日傘をさしている。スラッとしていて、上半身のラインがハッキリ出る上品な白色のパーティドレスを着こなす。よく見れば、ドレスの胸元に金糸で控えめにカンパニュラの柄が描かれている。


 上品な格好をしているのに堂々と足を広げて立つ姿と服に着られていない様子がカッコよくて、坊ちゃんは顔もハッキリ見えない貴婦人に見惚れてしまっていた。


「ボク、何をしているの?」


 鈴のような透き通る声で、貴婦人が坊ちゃんに尋ねた。

 その声が妙に心地よいと感じる坊ちゃんだが、持ち前の小さな反抗心で素っ気なく答える。


「……別に。何もしてません」


 鉄格子から手を離し、そっぽを向く。


「嘘。向こうの公園を見てたじゃない。子供たちが遊んでいたわね。……ボクは行かないの?」


「行かない」


「友達じゃないの?」


「……うん」


「そう。同年代の友達は大事よ、ボク。作った方が良いわ」


「そんなの無理です……ぁ」


 思ったことを言葉にしてしまった坊ちゃんは、気まずくて貴婦人の方がますます見れない。

 貴婦人は相変わらず、じっと坊ちゃんだけを見ている。


「教えて。喋るのが苦手だから?」


「……わかりません」


「なら、他人が嫌だとか、信じられない?」


「……それは、違います」


 出来ることなら坊ちゃんだって公園に行って、同年代の子供たちとサッカーをして遊びたい気持ちはある。だが、目の前の鉄格子の扉が物理的にも、精神的にも大きな壁なのだ。

 坊ちゃんを屋敷に縛るのは、トワの言葉に依る心の縛り。

 が、敷地から出てはいけないと坊ちゃんに思い込ませている。


 貴婦人は坊ちゃんの様子から少しも目を逸らさず、その言葉を受け止める。


「そっか、何か事情があるのね。なら仕方がないわ」


 子供の言葉をしっかり聞いてくれる貴婦人の態度に、坊ちゃんは呆気に取られてしまう。


「何も聞かないの……ですか?」


「聞いて欲しいの?」


「いえ、そうじゃなくて。……どうしてか、と思って」


 フッと貴婦人が笑う。

 鉄格子の門に近付きながら、坊ちゃんの疑問に貴婦人は答える。


「誰だって生きていれば色んな事情を抱えるわ。そこに大人も子供も関係ないし、大小の違いも、優劣の差もない。ただ事情があるという事実があるだけ。そう思っているからよ」


 門のすぐ傍にやってきた貴婦人。

 坊ちゃんは改めて、その女性を見た。

 

 白色で統一されたファッションで、トワと同じぐらいの高身長。ドレスも帽子も日傘も、どれも高価な品だと一目でわかり、太陽から腕を隠す手袋に至るまで一級品だった。

 深窓の佳人かじんという表現が似合う女性。服装の上品さに貴婦人の力強い芯のある雰囲気が全く負けていない。むしろ、服を思いのままに着こなして堂に入っている。


 そして、何より目を惹くのが、


 ――所だ。


「仮面……」


 仮面で素顔を隠す女性。

 とっさに坊ちゃんはトワを思い浮かべ、言葉を漏らしていた。


 白い手袋をはめた手で、貴婦人が口元を隠してフッと笑う。


「これは私の事情なの」


「……う、ゴホッゴホッ!」


 急に坊ちゃんは辛そうに咳き込み始めた。

 坊ちゃんは呼吸に持病があった。幼い頃からで、トワが坊ちゃんに無茶をさせないのは持病が悪化しないようにするためだった。

 最近はトワの献身で落ち着いていたのに、突然、持病がぶり返した。

 

「さ、これを。ボク」


 貴婦人が白いハンカチを取り出して、鉄格子の間に腕を通して坊ちゃんへ差し出す。


「ゴホッゴホッ。あ、ありが、ゴホッ」


「いいから」


「ゴホッ……で、でも、ハンカチが汚れちゃう」


「ハンカチは汚れる物よ」


 そこまで言われて、坊ちゃんは厚意をありがたく受け取った。

 ハンカチを受け取るとき、少しだけ貴婦人の指に触れた。スベスベした手袋の感触が伝わる。


 口元を押さえ、落ち着くのを待った。

 調子が落ち着いてきた頃、ハンカチで口元を隠したまま貴婦人にお礼を述べる坊ちゃん。


「ありがとう、ございます」


「どういたしまして」


 口元を拭き終わり、坊ちゃんはハンカチをたたむ。トワの家事を手伝っている内に染み付いた手癖で、柄が表になるようにたたんでいた。

 ハンカチの隅にはドレスの柄と同じように、金糸でカンパニュラの柄と文字が描かれていた。

 一文字「L」と、大きく。


 坊ちゃんは貴婦人にハンカチを返した。


「すみません、汚してしまって」


「いいのよ。……あら、丁寧ね。ふふ、慣れないのに敬語を使ったり、細やかな気配りが出来たり。立派な紳士ね」


「あ、ありがとう、ございます」


 紳士と評された経験のない坊ちゃんは、にやけそうになる顔を隠そうとそっぽを向いた。

 その様子に気付いていながら、貴婦人は何も言わず屋敷の方に視線を動かす。


「広いお家ね。ご両親は随分と成功なされたのね」


 坊ちゃんは少し拗ねて答える。


「……みたいです。よくは知りません、ボクが赤ん坊だった頃に亡くなったので」


「そう。ごめんなさい。嫌なことを思い出させたわ」


「いえ。物心もついていませんでしたから。正直、何も知らないし、よくわからないんです」


「そうなんだ。なら、この広いお屋敷を維持するのは大変でしょう。使用人が何人もいないと」


「ト……一人のメイドが頑張ってくれてます」


「凄い、一人で?」


「はい。何でも出来る自慢のメイドです」


 さっきまで少し不機嫌だったのに、トワの自慢が出来るからと坊ちゃんはいい気分になって喋り出す。


「ボクのメイドは凄いんです。朝昼晩、しっかりボクのことを考えた食事を作ってくれるし。何でも出来て、あっという間に作業を終えちゃうんです。手伝いたいのに、気付いたときには家事のほとんどを終わらせちゃうから。よく気が利いて、いつも最高のタイミングでお茶を用意してくれて――」


 ふと、自分が急に意気揚々と話していると気付いた坊ちゃん。

 気付いてしまうと、身勝手さに一気に恥ずかしさが湧いてきて、顔を真っ赤にして手を振って否定する。


「す、すみません! 違います、違うんです! め、メイドなら当然ですよ。確かにボクのメイドは凄いけど、だからって褒める所ばかりじゃ……。いや、凄い所ばかりですけどッ」


「ふふ。そのメイドのことを、とても大事に想ってるのね」


「ち、違います!」


 恥ずかしがる坊ちゃんに微笑みかけながら、


「……ああ、羨ましい」


 ぼそっと、貴婦人は坊ちゃんに聞こえないぐらいの声量でそう呟いた。

 

 貴婦人が突拍子もないことを尋ねる。


「ねえ、ボク。また会えないかしら?」


「え?」


「また、アナタとお話がしたいの。実を言うとね、私はお友達が少ないのよ。だから、こんな風に楽しくお喋りするなんて久しぶりなの。ね、どうかしら?」


 小首を傾げる貴婦人。

 その提案は坊ちゃんにとっても願ってもない物だった。貴婦人はトワ以外で関わる初めての人だし、トワと同じように仮面を付けている理由にも好奇心が惹かれている。


 何より、初めての友達が出来るのが嬉しくて。


「う、うん! ぜひ、お願いします」


「ふふ、嬉しい」


「あ、でも……」


 トワの三つの言いつけを思い出した。

 ――『門の外に出てはいけない』

 ――『本名を名乗ってはいけない』

 ――『外の者と関わってはいけない』


 この言葉がまたしても坊ちゃんに二の足を踏ませる。

 思い悩む坊ちゃんに、魅惑的な提案を貴婦人が提示する。


「事情ね。……なら、秘密で二人っきりで遭わない? 屋敷の敷地内で構わないわ。夜の深い時間に待ち合わせをするの。どう、素敵じゃない?」


 つまり、トワ相手に二人だけの秘密を作るということ。

 初めての友達といけない秘密。この二つは他者との交わりに飢えていた坊ちゃんにとって魅力的に過ぎた。

 

「……うん、うんうん! なら、庭の所にオレンジの木があるんだ。周りに木があって屋敷からは見えないから場所だからうってつけだ。あ、でも、どうやって屋敷に入るの?」


 興奮している坊ちゃんは敬語になっていないのにさえ気付かない。


「心配しないで。私、そういうの得意だから」


「わあ! うん、じゃあ任せるよ」


「オレンジの木、覚えておくわ。じゃあ、そうね……今夜。今夜、月が真上に来る頃にそこで待っているわ」


「わかった!」


「ボク、そろそろ帰りなさい。きっと、凄いメイドが心配する頃よ」


「あ、そうだ。掃除の途中だった! ご、ごめんなさい。今夜、待ってますね!」


 初めての友達と初めての約束。

 坊ちゃんは嬉しそうな表情を浮かべながら屋敷の方に駆けていく。

 少しして、坊ちゃんが立ち止まって門の方に振り返って声を上げた。


「あの! 貴女のお名前は何ですか?」


 名前を尋ねられた貴婦人は静かに、


「レディ、と呼んでちょうだい」


 と答えた。


 坊ちゃんは納得して頷いた。そして、今度こそ屋敷に向かって駆け出した。


 



 鉄門の前に取り残されたレディは、坊ちゃんの姿が見えなくなるまで見つめていた。

 そして、坊ちゃんのシルエットが見えなくなったのを確認して、


「……ふふふ」


 少し俯いて笑い始めた。

 

「ふふ、ふふふ……。あぁ」


 なまめかしい溜息。坊ちゃんが居るときには、おくびにも出さなかった熱っぽい息。

 坊ちゃんに渡したハンカチを取り出し、レディは仮面の上からハンカチに付いた坊ちゃんの匂いを胸一杯に吸い込んだ。


「スーッ。…………はぁー」


 にやり。

 仮面の下の素顔は、口角を吊り上げて頬を紅潮させ、蕩けた瞳で恍惚としている。

 レディの頭の中は、坊ちゃんと自分が手を取り合い、坊ちゃんが自分に言葉を紡ぎ、自分の人生を言祝ぎ、自分に深い愛を誓いあう情景がありありと浮かんでいる。


 貪欲で、快楽的で、一方向な求愛。

 ただ幸せな気持ちに包まれて、レディはその言葉を口にする。


「――愛しているよ、ボク」

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