Ⅲ 外へ
この屋敷は少年の両親――貿易商の父と考古学者の母――が建てたもので、二人が存命だった頃には使用人が何十人も居た。
夫婦の残した莫大な遺産のお陰で二人は暮らして行けている。
朝食後、メイドのトワは家事や管理の仕事を始めた。かつては数十人の使用人で維持していた屋敷を、今はトワ一人で全てを賄っていた。
トワの手際は極めて良く、たった一人だというのに家事や掃除を苦も無くこなしてゆく。
トワが洗濯物を干そうと、洗濯物が詰まった桶を持ち上げようとしたとき。
奪うように、横から少年が桶の持ち手を掴んだ。
「運ぶ」
「いえ、重いですし足元も濡れていて危ないですから。坊ちゃんは図書室で読書でも――」
「ボクがやる。もう十歳なんだ、当主としてこれぐらいできる」
そう言って、少年が「うんしょっ」と掛け声と共に桶を持ち上げる。だが、桶が思ったよりも重くてフラついてしまう。
「だ、大丈夫だぞ。これくらいっ」
トワに心配させまいと、何とか踏ん張ってフラフラと揺れながらも歩を進める。
トワはその後ろを付かず離れず付いていった。
庭先に出て、汗まみれの少年がやっとの思いで桶を置いた。
「はぁ……はぁ……」
膝に手を付いて息を整える少年。その傍にトワがやってきて、しゃがんで視線の高さを合わせる。
「お疲れ様でした、坊ちゃん。随分と力持ちになられましたね」
「そ、そうだろう。き、鍛えてるんだ。はぁはぁ……」
「そうでしたね」
「このまま洗濯物も干してやる……」
「そうですか。それはありがとうございます」
そう言うと、トワは綺麗な藍色の糸で刺繍されたハンカチを取り出して、まだ息が上がっている少年の汗を拭く。
「力持ちの坊ちゃんがやったのでしたら、きっとすぐに終わりそうですね。ですが……」
言葉を濁したトワが上を見上げる。
つられて、少年も顔を上げる。
干し台はトワよりも少し高く、背の低い少年では到底届きそうにない。
「今日はタオル類やクロスなどの大きい物を干すつもりでしたので。坊ちゃんには少々高いかと」
「~ッ」
悔しそうに歯噛みする。
トワが汗を拭いていたハンカチを少年に渡して立ち上がる。
「そうだ。これが終わったら、次は庭掃除をしようと思っていたんです。坊ちゃん、出来れば先にやっていてくれませんか?」
「! わかった。トワが来るまでに終わらせておいてやる!」
パァッと顔を晴らした少年は庭に駆け出して行く。
トワはその背を見送って、
ふふと微笑み、洗濯物を干し始める。
バッとテーブルクロスを広げて、干し台に掛けていく。
トワの仮面が日差しを反射する。
――
庭の落ち葉を竹箒で集めていた少年は、いくつか実をつけているオレンジの木の傍にやって来ていた。
爽やかな香りの中、掃除の手も止めてオレンジの木を見上げる。
「……大きくなった、お前も」
親しい存在に語り掛けるような声で。
少年にとって、このオレンジの木は家族だった。
トワから聞いた話である。
このオレンジの木の由来の話。
木は少年の両親が「子供と共に時間を刻むものがあってほしい」と願い、少年が生まれたときに植えた苗が成長したもの。両親の死後、少年にとって家族と呼べるのは、トワを除けば兄弟のようなこの木だけだった。
「最近は暖かくなってきたから、お前も過ごしやすいだろう?」
オレンジの木に話しかける少年。トワには言葉にするのが恥ずかしいことも、兄弟同然の木が相手なら素直に言える。
「トワは少しボクを立てるべきだ。ボクはもう十歳だぞ。トワの助けが無くても色々できるし、トワを助けてやれるんだ。もっと一緒に居たいのに……」
オレンジの木が風に騒ぐ。
少年が木に触れて幹を撫でる。
「お前が元気だと嬉しいよ。やっぱりトワは凄い」
オレンジの世話はトワがやっている。少年が6才のときに世話を代わると駄々をこねたことがあったが、このオレンジの木だけはトワも頑として譲らなかった。
トワにとってもこのオレンジの木は特別な存在なのだと、そのとき知った。
彼女と同じ想いを共有しているのが嬉しくて、少年は更にこのオレンジの木が好きになった。
心地いい陽の暖かさとオレンジの香りに包まれて、至福の時間だと少年は感じていた。
そのとき、遠くの方――屋敷の内と外とを隔てる塀の向こう――から子供の声が聞こえてきた。
少年はオレンジの木から手を離し、その声の方を見やる。
「……」
竹箒を落として、声の方に誘われていく。
見知らぬものに好奇心が惹かれるままにフラフラと。
鳥籠の中の鳥が外を憧れるみたいにソワソワと。
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