15 小伍長の勇士



 まだ首を傾げてる城之を放置して、僕も先輩たちに合流する。

 彼らが手足で安全性を確認しているのは、遠くからでもたよりなく見えた橋だ。伊達の一蹴りでぐらぐらと回転するのを見るに、本当にただの丸太がそこに横たわっているだけらしい。

 南方はごうごうと流れる滝と川を見比べて、簡単な作戦を立てた。

「鏡也、修二。君たち二人でこちら側で丸太を押さえてくれ。先に身軽な者が渡り、向こう岸で押さえる役目を担う。そうすれば安全に渡って試験問題に取り組むことができるだろう」

「俺は行った方がいいだろうな。三年の問題だった場合、一年が渡っても無駄足になってしまう」

「ええ、嵐先輩は用意ができ次第、試験に向かっていただきましょう。煌樹おうじゅ、向こう岸を頼めるか?」

 指名された坂下が顔色を変える。

 いつになく強ばった顔で返事をしぶるような反応をするが、すぐに断らないのは立派である。

 こういったところに、彼の矜持や意地というものがあるのだろうか。僕はぼんやり考えながら、坂下が逡巡するのを黙って見守る。


 お調子者で、自慢話も多い一年の新局員は、僕たちにとっていまだ得体の知れないところが多い人物だった。

 部活荒らし。

 その異名を入学して数ヶ月で得ている男は、四月からあちこちの体験入部を渡り歩いたようだ。

 持ち前の器用さで、どこにいってもそこそこの成績は残す。だが、どんなに熱心に勧誘されても本入部までは至らなかった。

 自分、そこまで真剣になれないんで。

 断り文句はいつも同じもので、部活動に多くを捧げる生徒を馬鹿にするような態度だったという。次第にそんな噂が運動部中心に広がり、坂下が顔を出しても歓迎する部長は減っていった。

 どうせここも、入部しないのだろう。そういって残りの運動部に門前払いにされた坂下は、矛先を文化系の部活に変えた。

 理科部、美術部、茶道部、吹奏楽局、英会話同好会。創作倶楽部にまで顔を出したというのだから、彼の守備範囲はかなり広い。

 文化系にも遺憾なくその器用さを発揮している頃、図書局にも彼の異名が届いた。

 こんな目立たない、しかも部活ともつかない図書局には来ない。

 三鷹なんかはそう笑って構えていた。

 だが、坂下は体育祭のあとに図書館の敷居を跨いだ。そのまま彼は体験期間を持たずして図書局に入部届を出し、いまに至っている。

 何度か彼が参加した会議の様子から見るに、真面目な好青年とは評価しがたい。同級生を見下し、先輩には媚びを売るが誠意は感じられない。本を読むようにも見えていなかったが、それは先程、彼自身が誤解を解いた。

 それでも彼の正体はまだ掴みきれない。

 まっすぐに後輩を指名した南方は、相変わらず周囲に自身の考えを語らない。


「どうした。もし煌樹が怖いのなら、トマに……」

「いえ、俺がやります。伊達先輩、城之、しっかり押さえといてくださいよ」

 南方の言葉を遮った坂下が、一歩前にでる。

 覚悟を決めたのか、足取りは意外にもしっかりしている。

 実際、彼は小柄で敏捷だ。ここで丸太を渡れる可能性が一番高いのは彼で、南方の采配も特別な意図はないのだろう。それでも、皆が静かに彼を見直すのが肌でわかる。

 坂下は、黙っていれば甘いマスクを持つ少年だ。小さな頭と流行の髪型が似合っていて、ともすれば女子のように可愛らしい風貌である。

 小動物のようで、女子からの人気もひそかにあると聞いている。

 僕は坂下のいつになく緊張した面持ちに、それらの評判の片鱗を見た。

 荷物を女性陣に預けた彼は、ジャージの上着も脱いで身軽になった。伊達と城之が丸太を支え、そこに慎重に足を乗せる。

 丸太の下には、滝から勢いよく流れ込む雪解け水が流れている。

 落ちたところで溺れるようには見えなかったが、その冷たさは想像もつかない。

 坂下のスニーカーが、時折、苔や水しぶきで滑る。流川は両目を瞑り、杉江も祈る姿勢だ。皆が固唾を呑んで見守る中、短いが途方のない道のりを坂下が進む。

 やがて彼の足が向こう岸についたとき、皆がひとつになって歓声をあげた。

「煌樹、問題は何かね」

 南方が声を張り上げる。

 滝の傍は、思ったよりも音が響かないものだ。何度かもどかしいやりとりを重ねたあと、試験問題が数学だと判明した。

 試験の判定をする鈴鹿は動くつもりがないらしい。問題文は小島に置かれた机に貼り付けられていて、計算に使えるメモ紙は用意されているが問題の書き写しは失格だと鈴鹿が告げる。向こうとこちらでの意思疎通が難しいのは前述の通り。問題を暗記ができなくもないだろうが、数学が得意ではないという坂下はあっさりと匙を投げた。

 計算ができる者が向こう岸に渡る必要がある。

 その場で問題を見ながら計算を導きだし、戻ってきて鈴鹿に正答を告げるのが一番早いだろう。

「私も行った方がよさそうだな」

「レオ、大丈夫か? けっこう滑りそうだぞ」

「何、これでも運動は得意なのだ」

 説得力がないことを述べた南方も、ジャージの上着を脱ぐ。

 坂下が向こう岸で丸太に乗って支え、先程よりも道のりは安全そうに見えた。意気揚々と足を踏み出す南方の背中は坂下同様小柄だが、今日はいつになく頼もしく見える。


 ふと僕は、先程、安藤から聞いた話を思い出していた。


 昨年の耐久遠足で、南方はエントリーをしていた団体から離脱した。

 知り合ったばかりの馬場と佐羽を引き連れて別行動をした彼らは、結局道に迷い、ゴールすることができなかった。

 彼らの不可解な行動は、南方の伝説として一年経ったいまでも語り継がれている。

 そんな伝説の真相は、南方は、安藤を守るために行動したことにあるらしい。

 当時の図書局には、勢いのある世代、つまり安藤のひとつ上の学年の生徒がいた。彼らは一人一人は優秀で能力のある生徒だったが、少々団結力には欠けていたという。

 二河原高校図書局には、南方が決めたという様々なルールがある。

 いまでは当たり前となっている定期的な図書局会議の開催、全員参加の清掃や書架整理の習慣。読書会をはじめたのも南方が局長になってからで、図書局便りの発行すら局員が関わり始めたのは最近の出来事だ。

 つまり、南方らが入学した際の図書局は、名ばかりの腐敗した組織だったということだ。

 数人の勢いがある生徒が全てを取り仕切り、それ以外の生徒は名を連ねているだけの状態。そんな組織がまとまりあるわけがなく、局員同士の仲もそこまで良くなかったらしい。

 詳細は知らない。

 しかし、道中、言い争いになった当時の局長と南方は、そこで決定的に仲違いをした。

「南方くん、正義感強いからね」

 安藤は詳細を語ろうとはしなかった。

 だが、当の彼は途中で体調を崩して離脱したと聞けば、なんとなく察しはつく。

 弱きを助け、強きに刃向かう。

 地で周囲を引っ張って動くことが出来るのは、間違いなく南方の美点である。

 安藤の意思を引き継いで歩き出した当時の南方も、いまのような背中をしていたに違いない。


 南方が足を丸太に乗せる。

 たよりない足場に体重を乗せ、バランスを保つ。

 眼差しは向こう岸をまっすぐに見つめている。

 まるでそこに無数の敵が立ち向かい、橋を渡ろうとするものを射撃しようと身構えているかのような気迫だ。

 彼の堂々たる背中が滝に向かって伸ばされる。

 仲間が見守る中、彼の足が一歩を踏み出す。

 周囲を鼓舞するように、敵すら威圧するかのように。

 どんな銃弾でも彼を避けてしまう。そんな名高い将軍が残した伝説と同じく、彼は橋を渡り出す。


 その瞬間、南方の身体がゆっくりと傾いた。

「レオ、」

 伊達が叫ぶ。

 美丈夫の声が滝にかき消される。

 南方の身体が派手な水しぶきをあげる。

 殆ど同時に耳を支配した音の中、蜃気楼のように僕たちのナポレオンも消えていった。


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