2章3話 敗れて栄光もなく生きることは毎日死ぬことである

12 敗れて栄光もなく生きることは毎日死ぬことである



 ナポレオンが暗殺者を尋問したあと、若いドイツ人から興味を失ったように見えた。

 放り込んでおけ。

 その命令を実行するために廊下にでる。

 先ほどまで饒舌に祖国への思いを語っていた男も、全てに興味を失ったかのように暗い目をしていた。

 宮殿のきらびやかな廊下。飾られた肖像画に、装飾品。

 私が初めてここに踏みいれたときからあるものも、新たに付け加えられたものもある。

 幻想的で魅力的な光景にもシュタップスは興味を示さない。また、視界にいれまいと努力することもなく、ただ虚ろに足元を見ている。

 私は、男を哀れむ。

 男もまた、私を哀れんでいるのかもしれない。

 憲兵が男を引きずるように連行する。その後を歩きながら、私はよく晴れたオーストリアの空を見上げた。


 馬を手配し、シュタップスを車の中に押し込んだ。

 同行するか迷っていると、背後からベルティエが追いかけてきた。

 彼が運んでくるのは、いつだって皇帝の指示だ。仏頂面の参謀長は私を見上げると、皇帝からの伝言を一語一句違わずに伝えた。


 ――男を牢に入れたのを見届けてから戻ってこい。


 つまり、私は共に牢まで向かい、確実に閉じ込めたことを確認する必要があるということだ。

 ナポレオンは、私が迷うのを予想していたのだろうか。

 それとも、皇帝は私の判断を信用していないのだろうか。

 考えるだけ無駄だ。命令があるのならば、従順に従うだけである。

 ベルティエはいつもの同情的な笑みを見せたあと、すぐに引き返していった。

 彼がその表情を最初に見せたのは、いまから九年ほど前のことだ。あのときはすぐに激務に耐えられなくなると考えられていたようだが、いまではナポレオンの副官として私を認めてくれている。

 激務に耐えているのは彼も同じだ。

 私は尊敬する参謀長を見送った後、馬車に乗り込んだ。


 両手を縛られた男の向かいに座る。

 若いドイツ人は、やっと私を認識したような反応を見せた。

 逃げる素振りは見せないが、こちらを睨む瞳は鋭い。宮殿の庭で見せた瞳と同じものだ。

 全てを憎む嫌悪の色。

 むき出しの敵意に怯えるほどヤワではないため、馭者に出発の準備ができたと伝える。

「旦那、このお方には逆らわない方が賢明ですぜ。何しろ、死神のお気に入りって評判ですから」

 馬車の扉を閉めにきた馭者は、若い捕虜に揶揄いの言葉を投げた。

 シュタップスが反応したのを見て、馭者の言葉がドイツ語だと遅れて気づく。

 訛りは強いが、内容はわかる。それは、彼も同様だったようだ。

「……死神?」

「馬車の事故が数件。腕を切らなきゃならないような怪我が数えきれないほど。なのにこのとおり、立派に立っておられる。エジプトまで行ってもどこも欠けることなく戻ってきた猛者でさあ。ナポレオン陛下もラップは自分の守護天使だとよく、」

「早くだせ。陛下が私の帰りをお待ちなのだ」

 余計なことを語る前に、馭者の言葉を遮る。

「へい。すいません」

 数分後、ようやく馬車が動き出す。

 ガタゴトと揺れる狭い空間で、男がそわそわと座りなおした。


「『ラップ』」

 やがて、シュタップスが口を開いた。

「その名前は、同朋なのか」

「……」

 やはり、聞こえていたらしい。

 舌打ちをしたい気持ちを堪え、シュタップスから目を逸らす。

 ナポレオンは大雑把に見えて慎重だ。

 罪人に余計な情報は与えない。

 ナポレオンがシュタップスを呼んだ際に部屋に重要な書類はなかったし、私のことも「君」と呼んだ。いつもの習慣だったとはいえ、私の名を彼に聞かせない配慮だったに違いない。

 繰り返しサヴァリの名を呼んだのは、パリの警察大臣が同席していることを強調するためだ。

 偉大な皇帝の思惑は、いつも無知で無邪気な者によって台無しになる。

「答える必要はない」

 簡単に答えると、男は噛みつくように身を乗り出した。

「どうしてフランス野郎がその言葉を使うのか疑問だったんだ。お前、フランス人じゃないな」

 私の故郷であるアルザスは、ドイツとフランスの国境に位置する。

 住民は自然とどちらの言葉も扱い、どちらの風土にも適応できた。私は自分をフランス人だと確信しているが、そうではない者も住民にはいるのかもしれない。

 ドイツ語が話せることは、軍でも有利に働く。ナポレオンも私をあちこちに派遣して、外交の場面で役立ててくれていた。

 彼に叩き込まれた交渉術を思い返す。

 犯罪者と話す機会はそう多くないが、彼ならばこんなときも動揺ひとつ見せないだろう。

 姿勢を正す。

 シュタップスが、私の胸に並ぶ勲章を目に留めるのを確認する。

 立場の違いを示すのには、それで十分だ。

 私はシュタップスを目線で黙らせ、腰のサーベルに手をかける。

「貴方はすぐに処刑されるでしょう」

「……」

「それが陛下のご希望です。彼の命令を兵士に伝える私への心証を悪くすれば、その分貴方にかけられる恩赦も減る。わかりますね」

「……どうして、あんな男に仕える?」

 若い活動家の男からすれば、皇帝は、国土を奪った暴君にしか見えないのだろう。

 ベルリン勅令を出して以降、同盟国の間では軋轢が広がっていた。

 大陸閉鎖はやりすぎだという声は、フランス国内でも囁かれている。物資が足りず、私だって密輸取引を黙認せざる得ない状況はよく知っていた。

 いまや、ヨーロッパはナポレオンの手中である。

 だが、ナポレオンも所詮は人間だ。

 見せかけだけの囲いは脆く、彼一人で全ての国を思いのままにするのは難しい。それに、人に寿命がある以上、栄光を保持し続ける力はないのも現実だ。

 現に彼の周囲が慌ただしいのは、彼の跡継ぎを巡って様々な陰謀が渦巻いているからである。

「あんな、世界を自分の好き勝手にできると思っている悪魔を、どうして守る?」

 不安定な情勢。敵の多い毎日。

 ここのところ感じていた不穏な空気は、こんな日が来るかもしれないという予感をさせた。警戒を続けていた矢先の出来事なだけに、彼が私を呼び戻してくれて本当によかったと思う。

 心は揺るがない。

 彼と共にまた戦えることを、誇りに思っている。

 触れたサーベルの感触が、男の媚びさえ浮かぶような表情を、何の意味のないものにしてくれる。


 ふと、馬車が大きく曲がった。

 手を縛られているシュタップスはバランスを崩し、肩を扉にぶつけた。

 顔をしかめる男を見下ろし、きちんと座るように命令する。

 再び暗い目をした男を哀れむ私は、どこまでも皇帝と同じフランス人なのだ。

「……コルシカ人は信用なりませんが」

「?」

「黙っていろ。すぐに着く」

 軍の拠点が見えてくる。

 馬車をひく黒い馬が、優雅な鳴き声をあげた。


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