2章2話 人間の一生は過去と現在と未来から成る
7 「人間の一生は過去と現在と未来から成る」
1809年10月23日、彼は閲兵式が行われていたシェーンブルン宮殿に姿を現した。
私は勤務中で、ナポレオンはヌーシャテル公と私の間に立っていた。
青年は、人ごみをかき分けて近づいてきた。
嘆願書を提出しようとしているのだろう。そう判断したベルティエが一歩前に進み出て、手にしているものを私に渡すように告げる。しかし、男は私を振り向かなかった。
まだ年若い若者は、まっすぐにナポレオンと話がしたいと答えた。
皇帝が一般の市民と話すわけがない。
ベルティエは粘り強く、伝えたいことがあるのなら当直の副官に申し出るようにと繰り返した。
男は一度下がったが、また前に出てきた。憲兵が何度追い払っても男は動こうとせず、頑なに皇帝に近づこうとした。一度は彼の横にぴったりとつこうとし、私は彼らの間に身体を滑り込ませた。
「退きなさい」
私がドイツ語で命令すると、男の瞳が微かに揺れた。
「皇帝に何か伝えないことがあるなら、私が聞く。まずはここから離れなさい。さもなくば……」
私の合図で、憲兵が動く。
ベルティエはすでにナポレオンを先に進ませていた。皇帝が安全なところまで離れたのを確認して、男を改めて見下ろす。
彼の右手は、コートの下のポケットに差し込まれていた。
何かが握られているのがわかる。一枚の紙に見えたものが、布を巻きつけた何かだと気づいたとき、私はその場にいた憲兵隊士官を呼んだ。
連行されていく男が、私をはじめて見る。
その目の異様な輝きは、疑念を抱かせるのには十分だった。
ほどなくして、彼の上着から大きめのナイフが見つかったと知らされた。
私はデュロックにそのことを話し、彼が運ばれた場所に一緒に行った。彼はベッドに座っており、若い女性の肖像画が入ったロケットを見つめていた。
私は、彼の名前を尋ねた。
「ナポレオンにしか言わない」
ぶっきらぼうな答えは、頑なだった。
デュロックが肩を竦める。この場でドイツ語が流暢に話せるの士官は私だけだった。
「ナイフで何をするつもりだった?」
「ナポレオンにしか言えない」
質問を重ねても、同じ調子だ。
埒が明かないと判断し、最後に確信をつく。
「ナポレオンを暗殺するつもりだったのか?」
部屋に緊張が走るのがわかる。
フランス語とドイツ語は似ている。何か月も戦争をしていれば意思疎通ができる程度には単語を見聞きするし、言葉がわからずともニュアンスで意味は通じることがある。
私が尋ねたことを、皆が察したのだろう。
張り詰めた空気の中、若い男が不適に笑う。
「ああ、そうだよ。閣下」
付け加えられた敬称は、皮肉のつもりなのだろう。
ベッドに座ったままの男がこちらを見る。ナポレオンの幕僚を見上げ、軽蔑と恨みのこもった瞳で睨む。
その瞳が物語る。
ナポレオンは国を奪った略奪者だと。
ヨーロッパ中をめちゃくちゃにした悪魔だと。
私はこの奇妙な状況を皇帝に伝えに行った。
皇帝はその若者を連れて来るように命じた。
あとから聞いた話によると、若者がたった一人で暗殺に出向いてきたことに、ナポレオンは半信半疑だったらしい。男が持っていたナイフをサヴァリが見せるまで信用しなかったと聞いて、思わず苦笑いが零れる。私が冗談を言わない男であることは承知だろうが、彼は部下の言うことをいちいち大げさだと馬鹿にするクセがあった。
いままでもそうだった。
護衛をつけずにパリの街を歩こうとするし、銃弾がかすめても背が低いから助かったと笑い飛ばす。
たった一人の皇帝だという自覚が、彼にはあるのだろうか。
常に命が狙われすぎていて、暗殺されかかった回数を覚えていないと告げていたこともある。そのたびに警察大臣が血眼になって犯人を捜していることも、ナポレオンにとっては大した問題ではないらしい。
制圧したとはいえ、敵地にいる自覚があるのだろうか。
首を傾げながら命令を伝えるために外へ出る。
男を連れて戻ると、ベルナドット、ベルティエ、サヴァリ、デュロックが皇帝とともにいた。
皇帝は彼にフランス語が話せるかと尋ね、彼はしっかりとした口調で答えた。
「ほとんど話せません、陛下」
ナポレオンは皇帝の名において、男に質問をするよう私に命じた。
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