2章1話 1頭のライオンに率いられた羊の群れは、1匹の羊に率いられたライオンの群れに勝る

1 「1頭のライオンに率いられた羊の群れは、1匹の羊に率いられたライオンの群れに勝る」



 彼が進むときは三歩あとへ。

 彼が向かうときは三歩前へ。


 厳粛な警戒姿勢を見せる私に、護衛されている本人ですら苦笑いを浮かべる。

 それでも私に辞めるつもりはなかった。

 彼が向かうときは三歩あとへ。

 彼が進むときは三歩前へ。

 伸ばした背中に視線を感じるたびに、私はますます誇りを覚えた。

 ナポレオン皇帝の副官であるという重責。

 田舎出身の一兵士が、この場にいる誰よりも権力を持つ男の傍にいるという自負。

 どちらもが私にとって心地のいいものだった。


 

 私の運命を変える知らせは、唐突だった。

 マレンゴで、ドゼー将軍が戦死した。牧草月25日、戦地にいなかった私は、全てが終わってからその知らせを聞いた。

 サヴァリが探しだしてきたドゼーのシャツは、馬に踏まれて見るも無惨な状態だった。

 それでもないよりはマシだ。

 涙を瞳に浮かべて言いきったサヴァリを、私は初めて頼もしいと感じた。


 遺族に遺品を届ける手立てをしていた私たちの元に、ふと、一頭の馬が近づいてきた。

 上級士官たちは、すでにウィーンに向かっていると聞いていた。戦地で被害状況を確認し、壊れた武器や野営地の撤収は残された兵士で行う。そんなところに現れた立派な馬は、埃まみれの野営地には似合わない鞍をつけていた。

 皆が自然と姿勢を正す。

 男は唖然とする私達の傍で馬を止めた。

 帽子の下から、陰気そうな表情が見える。

 高くない背。ずんぐりとした風貌。気難しそうな顔は軍人というよりも学者のようだ。

 彼は神経質そうな眼差しを戦地の跡に向け、そこにいた全員の顔をぎろりと眺めた。

 私たちは、男の顔をよく知っていた。

 司令官の女房。

 ふざけて仲間たちの間で呼んでいたあだ名が先に浮かんで、反応が遅れた。

 姿勢を整えるより先に、彼が不器量に大きな口を開く。

「サヴァリとラップはいるか?」

 私よりも先に、サヴァリが反応する。さきほどまで涙を目にいっぱい浮かべていた彼の頬が色づく。

 彼には予感のようなものがあったのかもしれない。ドゼーの戦死をナポレオンに知らせたのは彼だと後から聞いた。第一執政の嘆き様はすさまじく、同時に情報を持ってきた兵士を繰り返し褒め称えていたらしい。


 でも、私にとっては寝耳に水の話だった。


 返事をした私たちを睨んだベルティエの表情が、微かに和らぐ。

 ひょっとすると、彼は同情をしてくれたのかもしれない。

 起こったこと、これからの未来のこと。

 全てを見据えているような男は、上官を失ったばかりの私たちに新しい上司が出来たことを告げた。



 伸ばした背筋。副官の飾緒。

 歩く度に注目が集まり、様々な眼差しが突き刺さる。

 それでも歩みは緩めない。警戒は怠らない。決して俯かない目線は、ただ彼のためにある。

 これは、後の時代に真面目で最良と言われた男の、細やかな誇りの話だ。


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